君は僕と会う時、いつも赤いスカートを履いていた

「——あら、どうしましょうか。こんなにずぶ濡れな状態では、電車にも乗れないわ。……ねぇ、どうする?」


甘美な声で、僕の理性に挑発をかけるこの美女は、いつだって僕を翻弄させる。

全てを飲み込む魔性の瞳も、雨で濡れた艶やかな茶髪も。

そして、一際目を引くその赤いスカートも。

彼女から漂う全てに僕は毒されていた。

「——僕の家、すぐ近くなので……。」


どうしようもなく、僕はこの人を愛している。


彼女こと、アヤメさんとの出会いは大学に入ってすぐの事だった。

大勢の男に囲まれて、僕の視線を奪ったアヤメさんは、まるで高嶺の花。

自分と関わりを持つなんて考えもしなかった。

けれど講義の最中、僕の隣に座っていたアヤメさんは馨しい香りを帯びた首元を僕に向けてきたのだ。

「貴方、北小路くんでしょ? 字、綺麗なのね。」

僕の名前を覚えてくれていた事、そして僕を褒めてくれた事。ただそれだけで、僕はアヤメさんの虜になった。


大学での日々は思いの外華やかだった。

空いた時間で昼飯を食べたり、夜は針が一周するまで遊びふけったり。

その全てを共にしたのはアヤメさんだった。

彼女はどういう訳か、僕を気に入りことある事に話しかけてくれる。

最初はその顔立ちの良さに萎縮したりもしていたけれど、そこは時間が解決してくれた。

そして、アヤメさんと出会って数年が経ったある日の晩。

いつものように僕のアパートで宅飲みをしていたアヤメさんは、突然僕の上に跨ってきた。

「——ねえ、北小路くんはそういう事、したことある?」

『そういう事』というのはつまり『ああいう事』なのだろう。

高校時代は、人目に隠れるように生きてきた僕にとって、その答えは考えるよりも明白だった。

無言のまま、彼女は僕の頬に触れる。

「なら……私が教えてあげる。」

彼女の挑発的な瞳に絆されるように、僕達はベットの上に上がった。

アヤメさんから香る、ほのかな香水の匂いと女の匂い。そして微かなタバコの香り。

全てが混ざりあって、熱を帯びた僕の身体は彼女を求めた。


——それが魔女の誘惑だとも知らずに。


それからは、僕のアパートだったり、ホテルだったり。

色々な所で互いを求め、身体を重ねていた。

僕はこの関係をなんと表現するのか分からない。

友人とは違うし、恋人でも無い。身体だけの関係かと聞かれればそれもまた的外れな気がする。

こんな妙な関係は、大学三年の夏まで続いた。

「——なあ、お前北小路だろ?」

夏休み、たまたま大学に足を運んでいた僕に話しかけてきたのは見覚えのある男。

彼は確か……同じゼミの……。

「松島くん、だよね? どうしたの?」

「お前気を付けた方がいいぞ。北小路がいつも一緒にいるあの女……この前別の男とホテルに入っていったんだよ!」

彼の言う、『あの女』というのがアヤメさんを指している事はすぐに悟った。

その話題は、松島くんからしたら大事だったのかもしれない。

確かに、知り合いの彼女らしき人が別の男と関係を持っていたら驚くのは当然だ。

けれど、僕は何も感じなかった。

「そうか。教えてくれてありがとう。」

何故ならば、——僕はそれを知っているから。

彼女は決して一人の男を選ばない。

まるでアロマウォーターの香りを選ぶように、男を選んでいるから。

今日はこの人。明日はあの人。

だから知っている。アヤメさんは決して僕を選ばない事も。

アヤメさんの中で、僕は数いる男のうちの一人に過ぎないと。

——そして、僕はその全てを理解して彼女を愛しているのだ。



「——あらそう。そんな所を見られてしまっていたの。少し気恥しいわね。」

松島くんとの会話をアヤメさんに話すと、彼女はか細い声で笑った。

「けれど、見られていたのなら仕方が無いわ。別段、隠すような事でも無いもの。」

「彼からしてみれば奇怪は光景だったのでしょうね。」

はは、と笑いながら僕は手元のアイスコーヒーを喉に通す。

そういえば、奇怪といえばもう一つ。僕がずっと気になっていた事がある。

その話題は、とてもシンプルで単純なものだった。

僕がアヤメさんを意識するきっかけともなった事だ。

何故それを今の今まで尋ねなかったのか、逆に疑問だまである。

それを口にした後、僕は直ぐに謝った。あまり人を詮索するのは良くないと、思い直したからだ。

「すみません、ずっと気になっていたから……。別に答えてくれなくてもいいんです。聞き流してくれても……。」

「何故? せっかく北小路くんが聞いてくれたのだから、その誠意に答えたいわ。それにね、私は嬉しいのよ。北小路くんが私の事を沢山見て、意識して、記憶してくれているという事でしょ?」


僕の質問は、「何故アヤメさんはいつも赤いスカートを履いているのか」という意味合いのものだった。

どんな時もアヤメさんはその真っ赤な深紅のスカートを身にまとっている。

街を歩けば、人々の視線はそのスカートに集中し、すぐさま噂が広がる。

彼女の美貌も相まって、街の中でアヤメさんを知らない人の方が珍しい。


「私はね、人の記憶に残りたいの。ずっと、ずーっと誰かの脳に、私という存在を刻み付けたい。この赤という色を見た途端に、私を鮮明に思い出すくらい。このスカートを履いているのは、それが理由かしら。」


大学付近のカフェで、アイスコーヒーを飲みながらアヤメさんは答えた。

それはとてもアヤメさんらしいというか。良い意味で、普通の人が考えつかない様な事を考えている。

記憶というのは、ずっと残り続けるものでは無い。

一度でも興味を無くし、何処かへとしまい込んでしまえばすぐに忘れてしまう。

その記憶が存在したという記憶すらも、簡単に忘れてしまうのだ。

それはすごく当たり前で。だからアヤメさんがそれを口にするまで気にも止めていなかった。

だって、僕が今日このカフェにいる人を全員覚えられるかと言えばそれは不可能に近いだろう。

ざっと三十人はいるこの店内の全員の顔なんて、興味もないのだから。

けれどアヤメさんは違う。

アヤメさんはこの店内にいる人全員に顔を覚えてもらおうとしている。

「……どう?すごく偏屈な理由でしょう? 失望したかしら。」

「……いいえ。寧ろ凄く尊敬しました。アヤメさんはとても……とても魅力的だと思います。」

そんな在り来りな感想に、アイスコーヒーのストローを回しながらアヤメさんは微笑する。

「そう? ありがとう。北小路くんに言われると、何だかとても嬉しいわ。」

この時は言わなかったけれど。

僕はその瞬間、何故アヤメさんが人よりも違う存在に思えたのかを理解した。


——彼女は誰の物にもならない。

男を取っかえ引っ変えしては、すぐに捨ててまた別の誰かに手を伸ばす。

アヤメさんからしてみれば僕を含めたその全員、どうってことのない存在だったとしても。

その逆は違う。アヤメさんに触れた人間は皆、彼女を特別だと認識してしまう。

それはもしかしたら一時の気の迷いかもしれないし、錯覚なのかもしれない。

それでも一瞬だけは、彼女を他の人間とは切り離してしまうのだ。

彼女という人間はその根本から僕達とは違うのかもしれない。

だから。……だから僕は彼女を愛しているのだ。

誰の物にもならず、人を誘惑し魅力し、挙句の果てに陥れる。

魔女のようで、妖精のようで、天使のようで、悪魔のようで。

けれど、彼女を追求した先に得られる答えは、『彼女はどうしようもなく人間である』という事。


「——あら、そろそろ時間だわ。」


空になったコップを前に、アヤメさんは立ち上がる。

僕が「待ち合わせですか」と尋ねれば、アヤメさんはニコリと笑った。

それじゃあ、と立ち去ろうとするアヤメさんの甘い香りを鼻にしたら、何故かその言葉が頭に思い浮かんだ。

「アヤメさん。」

彼女の名前を呼んで、呼び止めると僕は余裕を持った笑顔をアヤメさんに送る。


「——愛してますよ。アヤメさんの事。」


すると、アヤメさんは少しだけ腑抜けた顔をしてからすぐに口角をあげた。

ゆっくりと僕の頬に手を添えて、挑発気味に首を傾げる。

「私が他の人と身体を重ねて、愛を囁いていても?」

僕はその問いを待っていたかのように、彼女の手に自らの手を重ねた。

アヤメさんの手は、表面は冷たいのに内側が燃えるように熱い。


「——だからこそ。そんな貴方が好きなんです。」


公衆の面前で、小っ恥ずかしい愛のセリフを囁くなんて、我ながらどうかしている。

「そう。なら……ならずっとそんな私を見ていて。私だけを愛していて。」

アヤメさんはどこまでも狡くて、どこまでも酷い。

自分はその気持ちに答えないくせに、愛だけは欲しがる。

普通の人なら彼女を見れば狂っていると言うだろう。

けれど、そんな憎らしくて愛らしい彼女がどうしようもなく好きなのだから、僕も狂っていると、そう自負する。

「それじゃあね。北小路くん。時間があれば、夜にでも逢いに行くわ。」

そう言って、彼女は僕に背を向けた。

どこまでも脳裏にこびりつく赤いスカートを揺らして、僕の元から去っていく。

そんな彼女を、僕は愛している。

だから彼女の背に、僕も背を向けて小さな声で呟いた。


「——待っています。」


こんな妙な関係だけれど、僕は割と嫌いではない。

だって、今の僕は彼女が履いている、あの赤いスカートのように。

——彼女に恋焦がれているのだから。

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