第9話 望まずも追う身

 夜空で煌煌こうこうと輝く月が惣兵衛には不気味に思えた。


 「その傷は痛いだろう?お前さんを強く叩きすぎて後悔していたのだ」


 「はあ…」


 今更気遣われても承服できないが、どうしても荷物を取り返したい。


 「それより、ここで何をする気でしょうか?」


 「…うん?いやいや安心せい、お前を食うつもりはない。というか人間を食い物とは思ってないぞ」


 「なら…」


 「言ったように遊郭に赴く心づもりでな。申し訳ないが、今朝から何人か襲ったのだ。お前さんの路銀も足しにして遊郭で豪遊したいと思う」


 そう言って、惣兵衛の振り分け籠から手提げ袋を物色している。財布から少なからず詰まった路銀を嬉しそうに自分の手提げ袋に移し、残りは地面に捨てた。何とか荷は助かったのかもしれないが、無一文でどうやって東海道を旅すれば良いのか?


 奉行所に届け出ても妖怪に奪われましたと言っては、役人に頭のおかしい奴だと牢屋に入れられるのではないかと思った。


 「どうも満月の晩は盛っていけない。お前さんにも迷惑かけたが、野犬が近付かない様にここで焚火を焚いてやるから勘弁してくれよ」


 この雨でどこも濡れ切っている中で、どうやって見つけて来たのか分からないが、焚き付けの枝を取り出して薪をしている。しばらくはそうやって作業していると荷物を抱えだして、出立の準備を始めた。


 「たとえ道中で会っても判るまいよ。なんたって牢人は世に溢れているし、別の人間に化けているからな。お若い惣兵衛さん達者で」


 そのまま源之進は林に囲まれた丘から降りて行った。


 残された惣兵衛は体の痛みを抱えながらも、焚火の熱に誘われて不思議と心地よいのだった。そして、そのまま落伍らくごするように意識を失ってしまった。


                  ○


 日の出をとうに過ぎた頃である。


 「う…」


 鳥の鳴き声で少しずつ眠りから覚醒している。


 辺りはぼんやりと明るいが、曇り空なので実際には太陽はもっと高くに昇っているかもしれない。惣兵衛はパラパラと降る雨の滴で起きた。少しずつ体を動かすと昨日よりも断然に回復しているようだ。たった一晩でここまで治癒するものかと思われたが、霊験を授かったという存在なのだから、その焚火にもご利益があるのかもしれない。


 そう考えるが、自分をよくよく見れば違うのだと気付いた。


 「…どない考えても厄災を運ばれたわ。あの化け妖怪の奴はどこまで逃げよった。そや、江戸に向かうのなら川の上流か?」


 フラフラしながら立ち上がると、放置された振り分け籠の荷物を惣兵衛は確認する。すると、妖怪の顔を見た時のような、ぞっとする感覚に襲われた。


 「ない!どこにもないで」


 振り分けの籠に大事に布に包み、さらにそれを耐水のため油紙に包んで入れておいた角谷かどやの文が無い。どこかに忘れてきたはずはない。籠はきつく縛ってあり、何かの拍子に何処かに転がっていくことはないはずだ。


 「あの妖怪か?昨夜には気づけへんかったぞ。いつの間に抜き出したんや」


 何で惣兵衛の大切な文を持って行くのだろうか?やはり妖怪というのは人間に悪戯いたずらする本分を持っているのか?


 今からではどう努力しても追い付けないような気がする。何と言っても、相手は妖怪の類なので追うのは正気の沙汰ではない。しかし、角谷の店の場所は手書きの地図で描かれており、あれがなければ辿り着くのは手探りの行為になる。


 茫然と考えていると雨足が強くなったので、煙が上がっている焚火を踏みしめてから、よろよろと丘を降りだした。


 下に降りてみると、何やら百姓たちが慌しく動き回っている。川が氾濫したと言うのは本当なのだろうか?若い百姓を捕まえて聞いてみた。


 「ちょっとそこの御方!」


 「何だい!この忙しいのに」


 男は忙しない様子である。


 「手前は旅の者ですが、この先の上流で川が氾濫したと聞いたのですが、本当でありましょうか?」


 「何を言っている!ここのつつみが破れそうなんだ!」


 どうやら下流の村落と畑を守るために百姓が頑張っているようだが、惣兵衛が知りたいのはこれから向かう中山道方面の状況だ。


 「それは大変でありますね。しかし、上の方で氾濫したと言う話を昨日聞いたのです?」


 「今朝まではそんな伝言は届いてないな」


 それだけ言って百姓は行ってしまった。 


 (昨夜の源之進の話は偽りだったのだろうか?)


 路銀は袖とふんどしの中にも隠している。無一文になったわけではないが、惣兵衛は駄目元で再び籠の中身を見た。すると、小さい紙きれが入っているのに気づいたのである。


 「なんやこれ?」


 身に覚えのない紙きれで、そこにはこう書かれていた。


 〈惣兵衛へ。路銀が無くて大変だろう。ここからなら京都へ引き返すに遠くはない。角谷とやらにはわしから奉公を断るので心配召されるな。礼は不要成り。―源之進〉


 こんなふざけた伝文は初めてだ。惣兵衛に又も怒りが湧いてきた。


 「あの野郎!こうなったら軒先で野宿してでも江戸に着いてやる」


 惣兵衛もこうなったら意地だ。訳の分からない存在に商いの邪魔をされてたまるかという思いであった。


 しかし、惣兵衛は本当の意味での身銭だけが頼りだった。路銀が半分になったので、持参した食料も賢く使わなければならない。本当に野宿すれば江戸に辿り着くだけの雑費にはなるだろう?


 その様に決心して惣兵衛は一心不乱に歩き出した。


 「見つけたら頭どついたる」


 一人で文句を垂れながら歩いている。


 あの百姓が言っていた通りに、歩けども川が氾濫している場所は見当たらない。昨日は中山道への道程を半分ほどの場所で気絶させられていたので、一日の道程の半分ほどで着いた。


 その道中で太陽が昇るにつれて、天候は晴天になりつつあった。


 「さあて、渡し船は通っているやろか?」


 辺りの通行人もどんどん川沿いに上流に向かっている。どこに渡し船が待機しているか惣兵衛も注意深く探していると、川幅が狭くなっている場所で、それらしい物が遠くに見えた。


 辿り着いてみれば確かに渡し場である。しかも、善右衛門の予想した通りに川の両岸には木に括りつけられた紐が掛かっている。

 しかし、朝からの晴天で流れは大人しくなっている。


 「この先でも同じように渡れるやろか」


 源之進も待っていないかと探しても姿はなかった。


 駄目もとで船頭に訊ねると、朝一で牢人を乗せたという。昨日の内にここに来て、そのまま渡ったのだろう。船に乗れる人数には限界があり、惣兵衛は沢山の旅人とともに順番を並んで待つ事になった。


 そうやって一日中は順番を待つので日がどんどんと過ぎていき、最後の川に掛かっている渡しを通行する頃には日は暮れていた。惣兵衛はヘトヘトになりながらも中山道の鵜沼宿うぬまの手前まで到達し、安宿を取ったのである。

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