第7話 源之進という男


 善右衛門の説は妙案であったが、よくよく見ると川沿いを歩く人間が目に留まった。途中に何人か見かけた地元らしい者は川沿いに村落を持つ百姓だろう。奉行所ぶぎょうしょの役人の姿も見え、どちらも川の増水具合をずっと見ている。


 水位が危なくなりそうなら急ぎ伝えに行く役目なのだろうと思った。


 地面はぬかるむけれど、惣兵衛は順調に歩を進めている。


 「…ん?」


 不意に何やら嫌な感覚に捉われた。例えば視線を感じると言うのは言葉では承知しても、実際に経験したことはない。しかし、誰かにはっきりと見られているような悪寒を感じるのである。 


 それも獣に出くわして、じっとりと獲物としての価値を見定めているかのような、舌なめずりするかのような気味の悪い視線だ。

 なんとなく鈴鹿峠を思い出すが、ここは森ではない。


 「なんや…、この感じは?」


 周囲は行き交う者も多い。誰の発する視線かも判別つかないが、確かに惣兵衛はその存在を確信した。立ち止まって後ろを見渡すが、自分に視線を合わせている者は見当たらない。


 「気のせいやろか?きっと疲れとるわ」


 惣兵衛はともかく歩いて先を急ぐ事にした。


 四半刻後…、


 気持ち悪い感覚はまだ残ったままだが、ともかく上流に行けば、どうにかなるだろうと歩いている。


 その時、泥でぬかるんだ道にもかかわらず、目前から牢人ろうにんが走ってくる。


 (あほやな。泥に足を取られてコケるぞ)


 そう思っていると男は突然に惣兵衛の前で止まった。


 「そこのお前さん、ちょっと!」


 自分に声をかけているのか?その訳も判然としなかったが、三十代ほどの牢人とはっきり目が合っている。


 「手前に何か用でも?」


 その牢人は近付くと、どこか獣臭さを感じた。


 「お前さんは東海道の船を諦めて、中山道から回り道しようって腹だろ」


 「それが何か?」


 何か良い情報を持っているのだろうかと思ったが、惣兵衛の全身をジロジロと見る仕草から、この男にはそちらのがあるのではないかと危惧した。しかし、そんな惣兵衛の心配をよそに男は構わず話し出している。


 「それは危ない。この先の河川は幅が狭いので良く氾濫するのだ」


 「それは困りますな」


 「わしは士官先を探して方々を旅しておる。土地の事情にも通じて、ここらの街道筋には詳しいのだよ。…ほれ見てみい。ちらほらと道を引き返してくる者が居るではないか?この川沿いの堤が氾濫はんらんして通れないのだろうよ」


 見て来たのではないかと思ったが、惣兵衛が辺りを見渡すと確かに行き交う人間は、中山道に向かおうとしている人混みに近い量が、こちらに向かって歩いている。 

 ではどうしたらよいか?迷っている惣兵衛を見ながら、牢人はこう申したのだった。


 「生国は紀州きしゅう神保源之進じんぼげんのしんと言う者でござる。中山道まで歩くには余計に遠回りしなきゃならないぞ。そこには幕府の整備した道もないし、街道の外で余りまごついて歩いていると、お前みたいな若者は奉公先から逃げ散らかしたと思われて役人からお咎めされかねないぜ」


 「二十なのだけど…」


 「お前さんを無事に先達すれば余計な路銀も浮くわけだから、銭を恵んだって罰は当たらないだろう?」


 つまりは道案内の代わりに銭を寄越せと言っているようだ。


 この源之進と言う男の話を信じてよいものか?惣兵衛は考えあぐねたので、そうであるならば一つ、この男に条件を付けた。


 「手前は惣兵衛と申す旅の商人です。堤に異常を発見できなかったら引き取ってくださいよ。もしも通れないときに中山道まで案内する事が出来たら、本日の宿代を頂戴いたしてくださいな。しかし、出鱈目でたらめをやったら奉行所に届けますよ?」


 「届けでも何でもしな!わしに二言はないぜ」


 貧乏牢人だと思われる源之進は啖呵を切って豪語した。


 「そこまで言うのなら任せましょうか」


 「よし来た!」


 そう言って、ではこっちだと惣兵衛を引き連れて歩き出した。


 宿場の地図で見る分には、中山道までは昼までには着く距離だと思われる。しかし、例によって梅雨の湿気に包まれていると疲労が無駄に溜まる。その上に雨の多い曇り模様で、蒸し暑さに恨めしい感情も沸いてくる。


 しばらく歩くと喉が渇いた惣兵衛はどこかで飲み水を探したいと言った。


 「この辺りに詳しいのなら、飲み水はどこにあるか知らないでしょうか?」


 「水ならそこだ」


 すると、源之進は少し先の小さい井戸を指さした。


  田んぼの横に井戸があるのが見える。


 「これは嬉しいわ、きれいな水や」


 それが目に入ると、少し早足になり惣兵衛は持っている水筒を掴んで一杯に満たした。そして自分でも釣瓶つるべから手ですくって飲むのだった。こうして惣兵衛が給水に夢中になっていると、源之進が気付かぬ内に真後ろに迫っていた。


 そうして不意に惣兵衛を振動が襲った。


 「ドン!」


 唐突に頭に鳴り響いた打撲の衝撃と鈍痛は、惣兵衛を致死させんばかりであり、声すら出す暇を与えなかった。


 「バシャ!」


 抵抗する間もなく、惣兵衛は釣瓶に顔から倒れ込んだのだ。


 「おっと強く叩きすぎたぜ!」


 どうやら刀の鞘で頭を振りぬいたようだ。源之進と名乗った牢人は惣兵衛の体を掴むと人目の付かない、林の合間に引きずって行ったのである。

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