2.激震 ◆日本国旧東京・渋谷区 NH.TK.syw6680:g97


――範田則雄

「影の町」葛飾区に生まれ、拠点・渋谷区付近であぶく銭を稼ぐ不良青年。十人グループ「虎暮」の一員で、日ごろの行いからエセ政治結社「日輪の会」に目をつけられている。関西出身の先祖を敬い、慣れない関西弁を使う。

――


 旧東京、つまりは影の町。半世紀に人々が思い描いた未来都市は、ここに無い。無秩序と貧苦からの暴力が飛び散るこの町に暮らす人々を、部外者は善も悪も問わず影の住人と呼び遠ざける。

 古びたビル群の上空に低く、深く垂れ込めた雲に巨影が映る。真下から恨めしげにそれを眺めるのは、まだ年若き影の住人たちだ。ひび割れ朽ち果てた町の中でも最も汚く、いつ倒壊してもおかしくない年老いたビルの屋上は、彼らの好む溜まり場。

 あの東京国を眺め、若者は毒を吐く。辿り着けなかった都――誰もが思い描いた未来都市に。

 今日もいつもの五人の若者たちが集まる。その中から真っ先に声を上げたのは、貯水タンクに胡座をかいてシケモクをふかす、唯一の日本顔をした青年だった。

「その内な、あのクソうざったい浮島が落っこって来るんや」

 青年は吐き捨てるように講釈しつつ煙を吐いた。

 小柄で、女性のような、子供のような、あどけなく愛らしい顔に嘘のような汚らしい黒髪だ。茶色がかった白シャツを引っ掛け、下は所々破けたジーンズ。この近代技術ハイテク要素をとことん排除した格好は、全く紛れもなく影の住人のそれであった。

「フーン、ほんで?」

「ぺしゃんこにすんねん、俺らを」

 極め付けに、その荒々しい口調、立ち振る舞い。何かとちぐはぐだった。

「あかんやん」

「何があかんねん。全員死ぬんや。上の連中も、俺らも。まぁ、あいつらの死体の方が、見た目は多少綺麗か知らんけど……」

「ノリちゃん、えらい苛ついてんなぁ」

「背ぇ伸びひんで」

「じゃっかぁしい! もう諦めたわ! ケッ」

 範田則雄ノリちゃんと似たような口調で口々に話す彼らは、全員アジア系の移民だった。則雄は苛立ちの余り、大の字に寝転がってふてくされる。すると彼の姿を反転させたように、黒髪を後ろで括った小柄な女性が悪戯っぽく笑う。

「則雄はな、寂しいねん」

「あーん?」

「今日は雲が濃いやろ。それで大好きな東京国が見れへんから」

「あぁー、なんやそうなん?」

「ンなわけあるかドアホッ!!」

 則雄は怒号を上げつつシケモクを投げ捨て、跳ね起きた。うまいこと雲に映る巨影を睨み、肩を怒らせ胸いっぱいに息を吸い込み、大喝する。

「おう、東京国! 耳の穴かっぽじってよぉ聞いとけコラ! アホみたいにプカプカ浮かびよってからに! そのうち俺が叩き落としてグッチャグッチャに踏み潰したるから覚悟しとけアホンダラッ! ……あう~腹が」

「まだ治ってへんねんな、腹痛」

 東京国を覆う雲にさえ届くはずのない寂しげな怒号が、霧散して虚空に響く。則雄は唇を噛んで拳を握り締め、虚しさに耐える。見渡そうにも、何処もかしこも相次ぐ倒壊・暴動の末に放逐され、何年も手入れされていないものだらけだ。地震がきっと、この先もまたやって来てこの町を破壊し尽くす。きっとその後も、自分たちは破壊され尽くした町にこうして立ち続けると、彼は予言者として創造力を光らせた。

 空を睨もうにも、雲の向こうには、そんな自分たちの痛みなど夢にも見ずに浮遊する未来がある。

「クソッタレめ!」

 言葉と共に、則雄の唇から血が滲んだ。そんな彼の姿を見つめ沈黙する青年たちの耳に突然、音割れの酷い怒号と、耳障りな軍歌の大音量が飛び込んでいく。

「範田ァーッ!」

「うわ!」

「な、なんや!?」

 彼らはやっと、古い拡声器が備え付けられた黒塗りの街宣車が十数台、自分たちのいるビルを満足げに取り囲んでいるのだと了解した。車内からはパラパラと人影が飛び出し、ビルに侵入して来るのが見える。「日輪の会」の文字を車に輝かせて。

 粗悪な拡声器から響く声は、音割れとハウリングによって不快感を何倍にも増幅されている。

「いよいよ年貢の納め時だぞ範田ぁ……。今まで随分とからかってくれたなぁ? 甲斐会長は大層お怒りだよ」

「か、カイカイの子分や」

「則雄! どないしよ!?」

 慌てふためく青年たちは、唯一取り乱さず立ち尽くしている則雄に視線を集める。

「おう範田ァッ! 何とか言えこの野郎! ビビってんのかァ!」

 拡声器を介した恥知らずの大声と軍歌は、その間も容赦なく屋上に届けられる。先程から微動だにせず虚空を睨み続けていた則雄が、遂に助けを求める子猫のように自らを見つめる青年たちに顔を向けた。その顔面は、その場にいる誰よりも蒼白であった。

「やっば。どーすんねんこれ」

 すぐ近くにいる仲間たちにすら聞こえるや否や、小さな、震えた声で則雄は言う。

「しっかりせーや! 則雄のせいやでこれ!」

「わー! う、うっさいわボケ! カス! 知るか! 俺のせいにすんな! お前囮なれや!」

「な、なんで俺やねん!! 自分でやらんかいや!!」

「あーもう! お終いやー!」

「ん?」

「……え?」

 五人の喚きが、一人、また一人と止まってゆく。

「なんか今揺れへんかった?」

「揺れた揺れた。ちょっとだけ」

 ビル下の街宣車にて拡声器を持つ男も揺れを感じて戸惑い、静かに周囲を見渡していた。悪党同志の争いが蟻よりちっぽけに感じられる程に大規模な、マザー・アルティレクト間抗争の一環だった。

「これ、本番か?」

「ちゃう、ちゃう! 来るで、デッカいの!」

「ノリちゃん!」

「則雄、何してんねんな! あっ」

 口々に地震への不安を言い合う屋上の青年たちの中で、則雄だけは呆然と虚空を見上げたまま沈黙している。しばらくして則雄が呟く。

「東京や」

 先程まで立て込めていた雲が面白いように晴れ、巨大でいびつな球体が鮮やかにその姿を現していた。

 則雄の目からもまた、苛立ち、不満、恐れ、あらゆる曇りが吹き飛んで鮮やかに澄み渡り、神の如く浮遊する東京国を見つめていた。

「い、いや則雄。分かる、けどそんな場合やない」

 ベトナム系の青年が、則雄の背に向かって声をかけようとしたその時だ。大地を引き裂く轟音と共に、青年たちの視界が左右に大きく揺れた。

「きた、きたっ!!」

「もうあかーん!!」

「則雄、どうしよ」

 青年たちも敵の集団も、一様に驚き恐れ悲鳴をあげた。ただ、一人を除いて。

「これ、ラッキーやろ」

 則雄は小さく呟くと身を翻し、左右に揺れ続けるビルにて懸命にうずくまり体を支える仲間たちに向かって駆け出し、吠えた。

「今やお前ら! ドサクサに紛れてトンズラこくで!」

 再度、不安を煽る音がより強く鳴り響いた。青年たちの立つビルが大きく傾く。悲鳴が絶えない中、古びた窓ガラスが破裂するように次々と割れる。

「お前ら! 行くで!」

「えっ、えっ……」

 則雄は、ビルが倒れこんでいく先へ思い切って飛んだ。一同、一も二もなくそれに続き、一人残らず着地する。彼らは隣のビルの屋上にいた。すっかりうまく逃げ切ったのだ。則雄は不敵に笑うと、倒壊するビル群から必死に逃げ惑いつつ自分を睨む者たちを見やり、言葉にならない態度と表情で大見得を切る。

「範田ァーッ!」

「兄貴っ! それどころじゃねぇよっ!」

「分かってるよ、うるっせぇな! おい範田! お、覚えてやがれっ!!」

 男たちの捨て台詞を心地よく背に受けながら、則雄率いる群れは倒壊するビルからビルへと飛び移る。

 そうして最後に振り向くのだ。地震など御構い無しに浮かぶ未来都市たる、見果てぬ夢たる東京国を。

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