4 蝶と可愛い後輩

 




「──今日は、鉢植えの手入れをしよう」




 ホラー映画を観た翌週の、水曜日。

 汰一は軍手を嵌めながら、蝶梨にそう言った。


 放課後。今日も二人で中庭の花壇に来ているわけだが……



「あまり彩岐の『ときめき』を引き出せる作業じゃないかもしれないけど、そろそろ追肥や剪定をしなきゃならない鉢が多くて……悪いな」



 と、申し訳なさそうに言う汰一。

 蝶梨は、三つ編みに結った髪を揺らしながら首を振り、



「ううん、こちらこそ……」



 もう『ときめきの理由』がわかっているのに、付き合わせちゃってごめんなさい……


 ……と、胸の内で謝罪する。




 探していた『ときめきの理由』がわかったと彼に伝えたら……この関係は終わってしまうだろう。


 彼は、親切心で付き合ってくれているだけ。

 あの日、たまたま本屋で会って、ファミレスで悩みを打ち明けたから、『ときめきの理由』というわけのわからないものを探すのに成り行きで協力してくれているだけ。


 だから……

 答えが見つかって、しかもそれが『刈磨くんに殺されたい』という異常な願望に起因するものだと伝えたら……

 この関係は、確実に終わってしまう。


 それが嫌だから。

 もっと一緒にいたいから。

 そんな自分勝手な理由で彼の親切心を利用し、時間を割いてもらっていることに、蝶梨は罪悪感を抱く。


 しかし……

 今日も本当のことを言えないまま、こうして中庭に来てしまったのだった。



 ……そもそも、これは"恋愛感情"と呼んで良いのだろうか?

 優しく殺されることを彷彿とさせる動作そのものに興奮……もとい、ときめいているだけなのではないか?


 私は、ちゃんと…………刈磨くんのことを、好きなのだろうか?




 手入れの準備を進める汰一を見つめながら、蝶梨が自問自答していると、





「……げっ」




 ……という声が、背後から聞こえ。

 蝶梨は、驚いて振り返る。

 すると、そこにいたのは……



 ぶかぶかのジャージを着た、小柄な女子生徒だった。

 ハーフツインに結った栗色のミディアムヘア。

 垂れ目がちな瞳を、ピクピクと引き攣らせた……


 美化委員の一年生、裏坂うらさか未亜みあである。




「おう、裏坂。そういえば今日、当番の日だったな」



 彼女に気付いた汰一が、立ち上がりながら言う。

 しかし未亜は、蝶梨に目を向けたまま、



「彩岐先輩……今日も来ていたんですか。しかも、その格好……」



 ……と。

 制服のスカートの下にジャージを穿き、長い髪を三つ編みに結った蝶梨の姿を、しげしげと眺めた。


 その瞬間、蝶梨の身体が強張こわばる。

 "クールな彩岐蝶梨"とは程遠い姿を見られてしまったことに、過去のトラウマが蘇る。



 どうしよう、すごく驚いている。

 やっぱり『似合わない』って……『変だ』って思われているのかな。



 スカートの裾をきゅっと握り、何も言えずにいると……

 横で、汰一が「あぁ」と微笑み、



「俺が勧めたんだ。土いじりしていると結構汚れるから、この格好の方がいいだろ。郷に入っては郷に従え、だ。な? 彩岐」



 彼女の緊張を察し、すぐにフォローをした。

 その優しさに、蝶梨は……胸の奥がきゅんと締め付けられるのを感じる。


 汰一のおかげで緊張が解け、蝶梨は未亜を真っ直ぐに見つめると、



「……うん。刈磨くんに言われて、動きやすい格好にしてみたの。今日もお花のことを習いに来たから、裏坂さんもいろいろ教えてね」



 凛とした声で言いながら、微笑を浮かべた。

 その完璧すぎる微笑みに、未亜はドキッとした顔をして、



「み、未亜に教えられることなんてないけど……まぁ、よろしくです」



 少し頬を赤らめ、口を尖らせながら答えた。






「──で。今日は何するんですか? 刈磨先輩」



 腰に手を当て、未亜が尋ねる。

 汰一は、日当たりの良い場所に並んだ鉢植えを指さし、答える。



日々草にちにちそうとマリーゴールドの手入れをする。本格的な夏が来る前にやっておきたいことがあるからな」

「あぁ、どっちもアブラムシつきやすいですもんね……大量発生する前に対策したいです」

「あと、早く咲いた花が枯れてきたから剪定もしたいんだ。ほら、この辺」

「ほんとだ、枯れ始めていますね。日々草もマリーゴールドも、こういうところから病気になるんですよね?」

「そうそう。あと、水をやる時は……」

「なるべく葉っぱの上からかけてハダニ対策。ですよね?」

「おぉ。よく覚えているな。さすが裏坂」



 汰一に褒められ、えっへんと胸を反らす未亜。

 そのやり取りを、蝶梨は驚きながら見つめ、



「すごい。裏坂さん、お花のこと詳しいんだね」



 と、素直に感心する。

 それに、未亜は肩を竦めて、



「別に、美化委員に入るまでは全然詳しくありませんでしたよ。が、入学して間もない未亜にお花のことベラベラと語り始めたから、無駄に知識がついちゃっただけです」



 ツンとした口調でそう答える。

 その横で、汰一はぱちくりと瞬きをし、



「え。俺、そんなにベラベラ喋っていたか?」

「そーですよ。聞いてもいないのに庭いじりの蘊蓄うんちくを次から次へと……その時察しました。先輩、普段よっぽど話し相手がいないんだなぁって」

「話し相手くらいいるわ、失礼な」

「ほんとかなぁー。ねぇ、彩岐先輩? 刈磨先輩って、実際ボッチなんですよね?」



 急に話を振られ、蝶梨は「えっ?」と声を上げる。


 確かに汰一は、教室では独りでいることが多い。

 それは彼が"不運体質"で、周囲に迷惑をかけないようにしているためなのだが……

 そうした事情があるにせよ、実際忠克ただかつがいなければ一日中誰とも口を利かないこともあるだろう。


 そのことを、ずっと彼を見てきた蝶梨は知っているからこそ……



「……え…………えぇと……」



 否定も肯定もできず、言葉を詰まらせた。

 明らかに困っている様子の彼女を見て、汰一は一つため息をつくと、



「ほら、彩岐が困っているだろ。口ばっか動かしていないで、そろそろ手を動かせ」

「はいはい」

「『はい』は一回」

「はーい」



 という兄妹きょうだいのようなやり取りに、二人が"気心の知れた仲"であることを察し……

 蝶梨は羨ましいような、少し寂しいような気持ちになった。





「──じゃあ、俺は道具と肥料と腐葉土を取ってくるから。二人は、この辺りの草むしりをして待っていてくれ」



 汰一の指示に、未亜はジャージの袖に隠れた手を上げ「らじゃー」と答える。

 汰一はそのまま花壇を離れ、未亜はしゃがんで草むしりを始めるので……

 蝶梨も、少し離れたところで雑草を抜き始めた。



 無言で草を抜いていく未亜を、蝶梨は横目でちらりと盗み見る。

 慣れているのか、根っこからズルリと、手際良く引き抜いている。

 その、華麗とも言える手捌きを見ても……

 蝶梨の胸は、ときめかなかった。



 ……やっぱり、私がときめいているのは、特定の動作そのものじゃなくて……

 ……"刈磨くんだから"、なんだ。



 そのことをあらためて自覚し、密かに顔を赤らめていると、




「彩岐先輩って、刈磨先輩と付き合ってるんですか?」




 突然、ストレートすぎる質問が未亜から飛んでくる。

 蝶梨は「えっ?!」と素っ頓狂な声を上げるが……すぐにクールな表情を繕って、



「……付き合ってないよ」



 淡々とした声で、そう返した。

 しかし未亜は、ジトッと目を細め、



「……ほんとにぃ?」

「本当に」

「じゃあ、なんで最近よく一緒にいるんですか?」

「それは……」



 私の『ときめきの理由』を探すため……とは、言えるはずもなく。



「……お花のお世話について、教えてもらっているから」



 と、平静を装いながら答える。

 未亜は、ジロジロと蝶梨の顔を見つめて、



「…………ふーん」



 納得したのかしていないのか、再び視線を手元に戻した。

 そして、雑草をぎゅっと握り、



「……もし、刈磨先輩をからかっているなら、早めにやめてもらっていいですか? あの人、真性のボッチ気質だから、彩岐先輩みたいな美人に近寄られたら速攻で落ちると思うので」



 ズルッ! と、長く伸びた根ごと引き抜くと、




「彩岐先輩なら……あんな陰キャを落とさなくても、引く手数多あまたでしょ? その気がないなら、可哀想な勘違いをさせる前に刈磨先輩から離れてください」




 そう、棘のある口調で言った。

 わかりやすく突き付けられた敵意に、蝶梨は……暫し混乱する。




 私が、刈磨くんを、からかっている?

 彼女の目には、そう見えているのだろうか?


 つまり、私が刈磨くんを本気で好きになるはずはないと……その気がある素振りを見せ、からかうために近付いていると、そう思われているのだ。


 ……随分、性格の悪い人間だと思われているんだな。

 無理もない。普段の私はお世辞にも愛想が良いとは言えないし、冷たい雰囲気を醸し出していることは自覚している。人によっては高慢そうに見えるだろう。


 しかし、ここまで明らかな敵意を向けて、刈磨くんから私を遠ざけようとしているってことは……

 やっぱり、彼女は…………




「…………裏坂さんは、刈磨くんのことが好きなの?」




 以前から気になっていた疑問を、蝶梨は思い切って聞いてみた。

 すると……


 未亜は、真っ直ぐに蝶梨を見つめ返し、




「えぇ、好きです。……って言ったら、どうします?」




 と。

 真剣な表情で、聞き返した。

 その視線に射抜かれ、蝶梨は何も言えなくなる。



 もし彼女が、刈磨くんを好きだと言ったら……

 私は……私は…………




「………………」



 二人の間に流れる沈黙。

 どうしよう、何か言わなくては……と、蝶梨が言葉を探していると、




「──お待たせ。草むしりは一旦切り上げて、鉢植えの手入れに移ろう」




 後ろから、汰一の声がした。

 必要な準備を終えたようで、荷車を押しながら戻って来ていた。


 未亜は「はぁーい」と答え立ち上がると、ジャージの袖を払って、汰一の方へ駆け寄って行く。


 その後ろ姿を見つめ……もやもやとした気持ちを抱えたまま、蝶梨も立ち上がった。





 * * * *





 プランターには、色鮮やかな花がいくつも咲いていた。


 黄色やオレンジ色に輝くマリーゴールド。

 ピンク色が愛らしい日々草にちにちそう


 どちらも汰一が植え、育ててきた花だ。



 まずは枯れてきた花を除去しようと、三人はそれぞれはさみを持ち、剪定作業に取り掛かる。


 汰一と未亜は慣れた手つきで、蝶梨は二人のやり方を見ながら、慎重に鋏を入れた。



「そうそう。上手いよ、彩岐」



 隣にしゃがむ汰一に褒められ、蝶梨は嬉しくなる。

 それと同時に……


 優しく、且つ素早く花に鋏を入れる汰一の手捌きに、身体が熱くなるのを感じる。



 左手を頬に添えられ、右手で持った鋏で、首をひと思いに切られる……

 嗚呼、こんな殺され方もいいかも。

 私もお花になって、刈磨くんに剪定されたい…………



 ……などと、無意識に荒い呼吸を繰り返していると。

 それに気付いた汰一が、そっと顔を寄せて、




「……彩岐。今日は裏坂がいるから……『ハァハァ』はちょっと我慢な」




 そう、囁くので。

 蝶梨は口をぎゅっと閉じ、顔を真っ赤にする。



 私、いつの間にか『ハァハァ』してた……?

 もしかして、いつも無意識の内にそうなっているのかな……



 そう考えるとますます恥ずかしくなり、少し俯いて、



「ご、ごめんなさい……」



 と、消え入りそうな声で返した。

 その様子を、少し離れたところで見ていた未亜が、



「なにコソコソ話しているんですか?」



 すかさず声をかける。

『ハァハァ』していただなんて、知られるわけにはいかない。どうやって誤魔化そうかと、蝶梨は内心慌てるが……

 その隣で、汰一が落ち着いた声で、



「いや、他の美化委員もちゃんと働いてくれればいいのにな、って話していたんだよ。生徒会の権限で何とかしてもらえないか、って」



 さらっと、そう返した。

 冷静な汰一の横顔を、蝶梨は驚いたように見つめる。

 こういう咄嗟の状況において、汰一は冷静に機転を利かせることが多かった。



 見た目の平静を装うばかりの自分と違って、刈磨くんは頭の回転が速いし、いつも落ち着いているなぁ……



 ……などと密かに惚れ直していると、未亜がジロリとした眼差しを向けて、



「……ほんとですか? 何か隠していません?」

「本当だよ。その点、裏坂は真面目に委員会の仕事を全うして偉いなぁと、そう思っていたんだ」



 その言葉に、未亜は得意げに鼻を鳴らす。



「当然です。未亜、やると決めたことはキチッとやらなきゃ気が済まないタイプなので」

「さすが裏坂。部活もあるのに、いつも悪いな。今日もこの後部活に行くのか?」

「いえ、もう期末試験前なので、ちょうど今日からテスト休みです」

「げ、もうそんな時期か。いい加減授業に追いつかなきゃヤバい……裏坂は勉強大丈夫なのか?」

「先輩と一緒にしないでください。未亜、こう見えても成績は良いんですから」

「おぉ。やっぱり裏坂って優等生なんだな、意外と」

「ちょっと。『意外』ってどういうイミですか?」

「自分で『こう見えて』って言ったんだろうが」



 汰一のツッコミに、未亜はむっと唇を尖らせる。



「ふんっ。どーせ未亜は、幼稚でバカっぽくて可愛いだけが取り柄の妹キャラですよ」

「誰もそこまでは言っていない」

「あーあ。未亜も彩岐先輩みたいな大人の女になりたいなぁ」

「彩岐を引き合いに出すな」

「だって、先輩も未亜みたいなより、彩岐先輩みたいなクール女子が好きなんでしょ?」

「へ?」

「この際だからはっきりさせましょう。先輩は、可愛い妹キャラと、クールなお姉さんキャラ、どっちが好きなんですか?」



 突然二択問題を突きつけられ、汰一は固まる。

 その横で……蝶梨も、思わず息を止める。



 可愛い子と、クールな子。

 刈磨くんは……どっちがタイプなんだろう?


 これで「可愛い子」と答えられたら、私にはなす術がない。

 逆に「クールな子」と言われても、本当の私はクールとは程遠い性格だし……


 ああもう、裏坂さんってばなんてことを聞くのだろう。

 答えを知りたいけど……聞くのが、怖い。



 ドクドクという鼓動の音が、耳にうるさく響く。

 張り詰めた緊張感の中、蝶梨も未亜も息を呑み、汰一を見つめる。


 そして……

 汰一は、暫し考え込むように黙ってから……




「…………どっちも好きだな」




 ……そう、答えるので。

 未亜だけでなく蝶梨も、思わず「え?!」と声を上げた。



 それって、つまり……

 いろんなタイプの女の子が好きってこと……?



 と、蝶梨が内心ショックを受けていると、



「…………あ」




 ふと。

 汰一がその視線を、未亜の手元に向けた。


 つられるように、蝶梨もそちらを見る。

 すると、そこには……



 雑草の上をうねうねと這う、一匹の蛞蝓なめくじがいた。



 未亜も気付いたのか、同じように見つめる。

 そして、その身体がぷるぷる震え始めたかと思うと……




「……ぎぃやぁぁあああああああああ!!」




 中庭中に響き渡るような叫び声を上げた。

 あまりの絶叫に、蝶梨は心臓が止まりそうなほどに驚く。

 が、汰一はすぐに未亜の方へ駆け寄り、



「裏坂、落ち着け。今どかしてやるから……」



 そうなだめようとするが……

 未亜は目をうるうると潤ませながら、ガバッ! と汰一に抱き付き、



「むりぃいいナメクジむりぃいっ! ぬるぬるキモイっ!! せんぱい早くやっつけて!!」



 身体をぎゅうぎゅう押し付けながら、泣きじゃくる。

 蝶梨が呆気に取られていると、汰一は両手を上げたまま未亜を宥め始める。



「落ち着けって。大丈夫だ、噛み付いたりしない」

「噛み付かなくても存在がキモイっ! 陰湿なカンジがむりっ! 足がないのにウネウネ歩けるのがむりぃいいっ!!」

「わかったよ、今なんとかするから、とにかく離し……」

「彩岐せんぱいっ! 物置から撃退セット持って来て!! 早く!!」



 と、何故か蝶梨に指示する未亜。

 その気迫に圧倒され、蝶梨は……



「……わかった」



 すぐに立ち上がり、駆け出した。





 ──花壇を離れ、物置小屋へと向かいながら……

 蝶梨は、強く脈打つ胸を押さえる。



 汰一に抱き付く未亜の姿。

 先ほどの、汰一の言葉。

 そして、二人が楽しそうに会話する光景。

 それらが、頭の中をぐるぐると回り、離れない。


 迷いなく汰一にしがみつく未亜と、慣れた様子でそれを受け止める汰一……

 もしかすると、これまでにも似たようなことがあったのかもしれない。

 そう考えると、胸の奥がじくじくと痛んで、悲しいような悔しいような気持ちが、涙になって込み上げそうになる。


 未亜は、同性の蝶梨から見ても文句なしに可愛かった。

 表情豊かな愛らしい顔も、ハーフツインに結った髪も、ぶかぶかのジャージも、全てが『可愛い女の子』の要素として完璧で……

 その上、小柄なのに出るところは出ているグラマラスな体つきをしているし……

 物言いが少々キツい部分もあるが、思ったことを素直に口にできるいさぎよさも、真面目で責任感の強い性格も、彼女の魅力を引き立てていた。


 要するに、自分とは正反対の女の子だと、蝶梨は思う。



 可愛くて、ドライなところもあって……

 もしかして刈磨くんは、裏坂さんみたいな女の子が好きなのかな。

 だから、『どっちも好き』だなんて言ったんじゃないかな。

 裏坂さんに告白されたら、刈磨くんは……

 きっと、喜んで付き合うんだろうな。




 物置小屋に辿り着き、蝶梨は扉を開けて、蛞蝓なめくじ撃退セットを探す。

 が……その視界が、涙でぐにゃりと歪む。



 胸が苦しい。

 気を抜くと、すぐに泣きそうになる。

 ……そうか。私、嫉妬しているんだ。

 いつの間にか、こんなに……



 刈磨くんのことが、好きで好きでたまらなくなっていたんだ。




「…………」



 ぎゅっと胸を押さえ、俯く。

 早く動かなきゃ。必要なものを探して、二人のところに戻らなきゃ。

 そう自分を奮い立たせ、蝶梨は顔を上げる。



『蛞蝓撃退セット』と言われはしたが、よく考えたらそれがどんなものなのかはわからなかった。

 棚の下段には、肥料や空のプランターが置かれている。

 中段には、シャベルや軍手などの道具がしまってある。

 ということは……一番上の段にあるのだろうか?



「んっ……」



 蝶梨は背伸びをし、最上段の棚に手を伸ばす。

 長身な彼女でも、指先がやっと届くような高さだった。


 棚の上を目視することはできないが、しばらく手で探っていると、指先に何かが当たった。

 感触的に、ビニール袋のようだ。この中に撃退セットが入っているのかもしれない。


 もう少し……あと少しで、引っ張ることができそう……


 蝶梨はギリギリまでつま先立ちをし、懸命に腕を伸ばす……が。



「きゃっ……!」



 つま先を滑らせ、バランスを崩した。

 そのまま受け身を取ることもできず、後ろへと倒れ込む。



 ……あぁ、もう。

 私、何をやっているんだろう。



 そう、どこか冷静に考えながら。

 衝撃と痛みを覚悟し、目をきゅっと瞑った────その時。




「あぶねっ」




 ……という声と共に。

 蝶梨の身体が、温かいものに包まれた。

 背中に感じる感触に、はっと顔を上げると……



 汰一に、後ろからすっぽりと抱き留められていた。




「か、刈磨、くん……」



 ドキッとしながら振り返ると、汰一は安堵の息を吐く。



「よかった……怪我はないか?」

「う、うん……裏坂さんは?」

「花壇で待たせてる。撃退セット、棚の一番高いところに置いてあるから、彩岐の背でも届かないだろうと思って。心配で見に来たんだ」



 そう言って、汰一は蝶梨の身体を離しながら、真剣な面持ちになり、



「もう少しで怪我するところだったな。無理しないで俺を呼んでくれればよかったのに」

「で、でも刈磨くんは裏坂さんを宥めていたし、これくらいなら頑張れば届くと思って……」

「……彩岐。前から思っていたけど……周りに頼ったり甘えたりするの、苦手だろ」

「う゛っ」

「少し前にも黒板消しクリーナー運ばされていたもんな。確かに彩岐は女子の中では背が高くて、いろいろと頼りにされるのかもしれないが……何でもかんでも一人でやろうとしなくていいんだぞ? 彩岐だって女の子なんだから。怪我でもしたら大変だ」



『女の子なんだから』。

 その言葉だけで、蝶梨は泣きそうなくらいに嬉しくなる。

 彼の前では、"クールでカッコいい彩岐蝶梨"を演じなくても良いのだと……等身大の、"普通の女の子"でいても良いのだと、あらためて気付かされる。


 胸が締め付けられ、何も言えずにいる蝶梨に、汰一はふっと微笑みかけ、




「俺も背は高い方じゃないが……彩岐よりは大きいし、力もある。俺で良ければ遠慮なく頼ってくれよ。いつでも駆けつけるから」




 言いながら棚の上に手を伸ばし、ビニール袋を軽々と手に取った。


 その姿を見て、蝶梨は……

 後ろから抱き留められた時に感じた広い胸板や、すっぽりと包まれる抱擁感を思い出し、今更ながらに顔を赤らめる。




 ……嗚呼。どうしよう。

 刈磨くんのことが、どんどん好きになっていく。


 優しい声も、困ったような笑顔も、私を真っ直ぐに見つめる眼差しも。

 お花を世話する大きな手も、冷静で機転が利くところも、たまに私をからかう意地悪なところも。


 ぜんぶぜんぶ、大好きで

 他の誰にも……渡したくない。




 その想いが胸いっぱいに広がり、蝶梨は……


『好き』という言葉が、心臓の高鳴りと共に、口から溢れ出てしまいそうになって。



「…………す」



 あ、駄目だ。これ出ちゃう。口から出ちゃう。

 しかし、『好き』と言いそうになる口を、無理矢理捻じ曲げて、



「…………すごく、助かる。ありがとう。刈磨くんのこと、これからも頼らせてもらうね」



 と、本音がこぼれ落ちるのを、何とか防ぐことができた。

 そうとは知らず、汰一は頷いて、



「あぁ、その方が俺も嬉しい。それじゃ、蛞蝓を撃退しに行くとするか。裏坂はいい加減落ち着いたかな」



 言いながら、ビニール袋を手に花壇へと戻って行くので……

 蝶梨は小さく息を吐いてから、その後に続いた。





 * * * *





 二人が花壇に戻ると、未亜がムスッとした顔をして待っていた。


 汰一は「待たせたな」と声をかけ、ビニール袋から取り出したトングで蛞蝓をつまみ上げる。

 撃退セットの中には塩水入りの霧吹きなどが入っていたが、前にヒマワリの摘心をした時と同じように、汰一は殺さずに校舎裏へ逃すことを選んだようだ。



 蛞蝓をつまんで校舎裏へと向かう汰一の背中を見つめながら……

 蝶梨は、隣に立つ未亜に声をかける。



「……裏坂さん。さっきの質問の答えなんだけど……」



 ごくっ。

 と、一度喉を鳴らしてから、




「裏坂さんが、刈磨くんのことを好きって言ったら…………私、ちょっと困るかも」




 そう、落ち着いた声で告げる。

 驚いたように目を見開く未亜を、蝶梨は真っ直ぐに見つめて、




「……刈磨くんと一緒にいるのは、からかっているからじゃない。……側にいたいからだよ」




 今言える精一杯の本心を、彼女にぶつけた。


 その凛とした表情に、未亜は……

 一瞬、怯んだような顔をしてから、「ふん」と鼻を鳴らして、




「そうですか。じゃあ、彩岐先輩にあげますよ。刈磨先輩のこと」




 と、きっぱり言い返した。

 言葉の意味がわからず蝶梨が「え?」と聞き返すと、未亜は面倒くさそうに顔を背けながら、



「彩岐先輩、やっぱり刈磨先輩のこと気になってるんじゃないですか。だったらいいです。未亜は身を引きます」

「身を引く、って……」

「言葉通りの意味ですよ。ぶっちゃけ未亜、全然本気じゃなかったし。陰キャっぽいし簡単に落とせるかなーって思ってただけだし。それに……」



 ぎゅうっ……と。

 未亜はジャージの袖を握りしめて、



「…………こんな可愛い人に、勝てるわけない。負け戦なんて……したくないし」

「……え?」

「……その三つ編み、可愛すぎてズルイって言ったんですよ。あーあ、未亜も髪伸ばそうかなぁ」

「えっ?!」

「と言うことで、未亜は帰ります。お疲れさまでした」



 そう言うと、未亜はぺこっと頭を下げ、中庭からスタスタと去って行った。



「あ、ちょっと……」



 引き止めようと声をかけるも、聞く耳持たず。

 未亜はあっという間に、姿を消した。



 驚きすぎて、まともな返答ができなかった。

 まさか『可愛い』って言われるなんて……



 唐突すぎる展開に、蝶梨が呆然と立ち尽くしていると、



「あれ? 裏坂、帰ったのか?」



 後ろから、トングを持った汰一が歩いて来た。

 蛞蝓を無事逃し終え、戻って来たようだ。

 蝶梨が「うん」と返すと、汰一は首を傾げて、



「部活はないって言っていたが……やっぱ忙しかったのかな。悪いことしたな」



 と、先ほどまで繰り広げられていた会話の内容も知らずに、呑気なことを言う。

 そして、未亜が残していった園芸鋏を拾いながら、



「……彩岐。さっきの話だけど……」



 と、改まった様子で切り出すので、蝶梨は小首を傾げ続きを聞く。



「可愛いのもクールなのも、『どっちも好きだ』って言ったやつ。いちおう、語弊がないように言わせてもらうと……」



 んんっ。と咳払いをし、汰一は少し緊張した表情で蝶梨に向き合う。

 そして、




「俺は……『好きになった人がタイプ』なんだ。好きな人が見せる顔なら、全部良いと思ってしまう。クールな顔も、可愛い顔も……それがその人の持つ一面なら、全て好きになる。節操なくいろんなタイプの女子が好き、という意味では決してないからな」




 ……と、照れ臭そうに言った。

 それから、気まずそうに苦笑いをして、



「……ごめん。どうでもいいよな、こんな話。ただ、彩岐にだけは勘違いしてほしくなくて……」



 そう言って、頬を掻く。

 蝶梨は、切なさに胸が締め付けられ……言葉を詰まらせる。




 好きな人が見せる顔なら、全て好きになる、か……

 そんな風に思ってもらえるなんて、刈磨くんの恋人になる人は、幸せだろうな。


 それが私だったなら、なんて願望を抱きたくなるけど……

 さすがの刈磨くんも、殺されることを想像して興奮する変態女の顔までは、愛せないだろう。


 だから、言えない。

 私の『ときめきの理由』も、刈磨くんを想うこの気持ちも……

 嫌われるのが怖くて、言えない。

 言えないまま、ただ側にいようとしている。



 私は…………なんてズルイ女なのだろう。





「……彩岐?」



 俯いたその顔を、汰一は心配そうに覗き込む。

 蝶梨は、ふるふると首を振り微笑むと、




「……ううん。刈磨くんの気持ち、聞けてよかったよ。……ありがとう」




 三つ編みに結った髪を揺らし、穏やかな声で答えた。


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