6 放課後の蝶

 



「うーん……」



 放課後。

 2年E組の教室で、汰一は一人、唸っていた。



 休んだ分の授業に追い付くべく、残って課題プリントと格闘しているのだが……戦況はかんばしくなかった。


 クラスメイトはみな部活や委員会、あるいは帰宅の途に就き、夕暮れの教室で汰一はすっかり一人になってしまった。

 忠克も「スマホゲーが今日からイベントで忙しい」などと言って早々に帰宅した。



 あの薄情者め。『親友』の俺が留年してもいいのかよ。



 と、忠克の憎たらしい笑みを思い浮かべながら、手元のペンをくるりと回しため息をつく。

 そして、誰もいない教室を見回し……

 窓際にある蝶梨の席に目を向け、昼休みのことを思い出す。




 彼女は、みんなから頼られる人気者だ。

 女子からも男子からも注目を集める、カリスマ的存在。


 そんな彼女が、昨日……自分に、「花の手入れを教えてほしい」と言ってきた。


 あの時は嬉しくて舞い上がっていたが、冷静に考えたらありえない。

 きっと社交辞令だったのだろう。情けなく気絶した哀れな男子に、話の上でも格好つけさせてやろうと気を遣ってくれたのだ。


 だって彼女とは……住む世界が、あまりにも違いすぎるから。


 では、何故わざわざ教室に残って勉強をしているのかと言うと、彼女が現れるのを未練たらしく待っているわけではなく、彼女を護るために他ならない。


 あの、自称・神──柴崎は言っていた。

 昼と夜の狭間にあたる夕方は、逢魔刻おうまがとき……"厄"が湧きやすい時間だと。


 生徒会の仕事でまだ校内に残っている彼女に少しでも近い場所にいられればと思い、ここに留まっているのだ。


 と言っても、例のカマイタチも"厄"自体も目には見えないので、本当に効果があるのかははなはだ疑問ではあるが……


 しかし確かに、今日一日は不運な事象に遭遇せずに済んでいた。

 半日も過ごせば不運の二つや三つ降りかかってくるのが当たり前の汰一にとっては、この状況の方が異常だった。


 ということは、やはりカマイタチが機能しているのか?

 そもそも"厄"ってのはどんな姿のもので、カマイタチはそれをどう喰っているのだろう?



 汰一は、あの細長くてもふもふしたカマイタチが、恐ろしい化け物に立ち向かう姿を想像し……本当に大丈夫なのかと心配になる。


 そんなことばかりを考えてしまい、さっきから全く勉強に集中できずにいた。

「はぁ」と息を吐き、汰一は立ち上がる。


 ここにいたら、答えの出ない問題に延々と悩まされるばかりだ。

 少し気分を変えて、職員室へ質問に行こう。


 そう決めて、席を立った──その時。



 ──ガラガラッ。



 と、教室の戸が開き、



「……あ」



 入ってきた人物の姿に……汰一は、息を飲む。





 窓からの風を受けて揺れる、長い黒髪と、スカートの裾。





 それだけで、まるで映画のワンシーンのような美しさを、彼女は放つ。



「…………彩岐」



 搾り出すようにその名を呼ぶと、彼女は小さく首を傾げた。



「刈磨くん……まだ残っていたの?」

「あぁ。休んだ分のプリントやってた」

「そう。邪魔してごめんなさい」

「いや、ちょうど今切り上げたところだ。……昨日はありがとうな」

「ううん。怪我はもう大丈夫?」

「うん、問題ない」

「よかった」

「……その箱、どうしたんだ?」



 と、蝶梨が抱えている小さな箱に目を向け尋ねる。

 彼女はそれを少し持ち上げて、



「教室の黒板消しクリーナー。調子悪くなっちゃったから、用務員さんに新しいやつ貰ってきたの」

「クリーナー入ってるなら重いだろ。持つよ」

「平気。私、力持ちだから」



 表情を変えずに即答する彼女だが……とてもそうは見えないと、汰一はその細い腕を見つめる。



「……いや、さすがに俺の方が力持ちだから」

「でも刈磨くん、まだ腕が……」

「治ったって言ったろ? ほら」



 汰一は彼女に近付き、その手から箱を奪う。想像通り、ずしりとした重さがあった。

 しかしその重さを感じない程に……汰一の鼓動は加速していた。



 会えた。

 二日連続で、二人きりで話してしまった。

 咄嗟に箱を奪ってしまったが、少し強引過ぎただろうか? いや、彼女に重いものを運ばせるよりはいいだろう。



 その緊張を顔には出さずに、汰一はクリーナーを教室の前まで運ぶ。



「置く場所、ここでいいのか?」

「うん、今までと同じ所で大丈夫。ありがとう」



 彼女の声を背中で受けながら、真新しいクリーナーを箱から取り出す。

 黒板の横の棚に設置して、コンセントを挿す。古い方を箱に入れて、交換完了だ。



「この壊れた方は、どこへ持っていけばいい?」



 箱を持ちながら振り返ると、蝶梨はまばたきをして、



「いいよ、私が運ぶから」



 と、少し驚いたように言う。

 しかし、汰一にも譲る気はなく、



「いや、俺が持っていく。こんな重いもの、彩岐に持たせたくない」



 ……なんて、つい本音を漏らしてしまうが、



「……ほら、俺が休んでいる間、球技大会のこと代わりに仕切ってくれただろ? ささやかだけど、お礼がしたいんだ。手伝わせてくれ」



 という言い訳を付け加え、『あくまでお礼』というていを保つことにする。



「……いいの? 本当に腕、大丈夫?」



 蝶梨が心配そうに尋ねるので、汰一は微笑んで、



「大丈夫。リハビリになってありがたいくらいだ」

「……じゃあ、一階の用務員室まで、お願いしてもいい?」

「任せろ」



 そう言って、汰一はやりかけのプリントを鞄にしまい……

 クリーナー入りの箱を抱えて、彼女と共に教室を出た。







 ──西日が射し込む廊下を、彼女と並んで歩く。



 ……なんだコレは。

 よもやまた気絶して、夢でも見ているのではあるまいな?



 突如として訪れた幸福に汰一は頬をつねりたくなるが、クリーナーを運ぶのに両手が塞がっているため叶わなかった。


 聞こえるのは二人の足音と、箱の中でクリーナーが揺れるゴトゴトという音。

 吹奏楽部の演奏や運動部の掛け声が聞こえてくるが、どこか遠い世界の音のように思えた。



 ちらっ、と横目で見ると、艶やかな黒髪を靡かせ歩く蝶梨がいる。

 夕陽の色を反射し、大きな瞳が殊更ことさら輝いて見えた。



 嗚呼、まただ。

 胸がいっぱいで、ロクな会話も浮かばない。

 こんな機会、もうないかもしれないのだから、何か話しかけなくては……




『昨日はありがとう』



 いや、それはさっき言っただろう。



『昼休み話していた件だけど……』



 馬鹿。聞き耳立てていたことをバラしてどうする。



『まつ毛、長いな』



 キモい。事実であってもそれはさすがに駄目だ。




 ……などとごちゃごちゃ悩んでいたら、あっという間に用務員室に着いてしまった。



 しまった。『この後一緒に花壇へ行かないか?』と誘えばよかったのだ。

 さっきまで頭にあったのに、何故思いつかなかったのか……

 いやでもきっとあれは社交辞令だから。真に受けるな。誘って撃沈しようものなら二度と立ち直れなくなる。やっぱ言わなくて正解。こうして彼女の役に立てただけで良しとしよう。



 そう自分に言い聞かせ、汰一は古いクリーナーの入った箱を用務員に渡し、短いミッションをクリアさせた。


 ここでお別れか……と名残惜しく思っていると、彼女がくるりと振り返り、



「ありがとう、刈磨くん。とても助かった」



 と、礼を述べてきた。

 その言葉だけで汰一は満たされ、静かに首を振る。



「いや、むしろいつもありがとうな。クラスや学校のこと、いろいろやってくれて」

「……それは、刈磨くんも同じでしょう?」



 思いがけない言葉が返ってきたので、汰一は「え?」と聞き返す。

 蝶梨は、黒曜石のような瞳で彼を真っ直ぐに見つめ、



「……花壇、いつも綺麗にしてくれている。今日もこれから行くの?」



 そう、首を傾げながら尋ねてくる。

 汰一はドキッとしながら頷いて、



「あ、あぁ。そのつもりだけど……」

「一緒に行ってもいい?」



 な……なんだって?


 自分の耳が俄かに信じられず、口を開けて固まる汰一。

 蝶梨は、少し俯き加減になり、




「昨日話した通り、お花のお世話のこと、いろいろ教えてもらいたい。だめ、かな……?」




 なんて、遠慮がちに見上げてくるので……

 その無自覚な上目遣いに、汰一は千切れるのではというくらいに首をブンブン横に振る。



「駄目なはずないです。ぜひお越しください」

「刈磨くん、次は首を痛めちゃうよ」



 そう言って、くすりと笑う彼女。

 その笑顔に、汰一は……


 これが夢だとしても、それはそれで最高に幸せだなぁと、そう思いながら。



「それじゃあ……行こうか」



 嬉しさと緊張に高ぶる鼓動を抱えながら、彼女を中庭へと案内した。


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