星空の落としもの

白米おしょう

第1話 おはよう、ひとりぼっちの世界

 …冬の空はよく澄んでて、遠くの星までよく見えた。

 肌を突っつく外の冷気が、自分が今何をしようとしてるのかと問いかけるように体を包む。冷やされた体からすっと熱が引いて、目の前に広がる真っ暗な水の流れが恐怖心を煽り立てる。視界の先でごうごうと強く流れる奔流に対する怖気は、泳げないこととは無関係だ。


 雲ひとつない黒い空は真夜中だっていうのに馬鹿みたいに明るくて、きっと川の下の方に行けば月がふたつに見えるだろう。


 夜風に冷やされた頭がもう一度問いかける。でも、今更足は後ろに退らない。


 --逝こう。


 隣から流れてくる声に俺は頷いた。

 真っ暗な寒空の下で、触れた手の温度は火傷するくらい熱く感じて……


 満天の星空の見下ろす下で、俺は彼女と並んで水流に足を入れていた……




『--本日未明、桜区二月さくらくふたつき川で市内の男子高校生が溺れているのを地元住人が発見、同日午前6時頃に救出されました。男子高校生は意識不明の重体で市内の病院に運ばれ現在意識は回復しておりません。二月川上流付近にて男子高校生のものと思われる携帯電話等と、同じ高校の女子生徒のものと思われる所持品を警察が発見し、事件性があるとして調査を進めています。また、現場に居合わせたと思われる女子高生については発見されておらず、身元を調べるとともに本件への関与を--……』


 ********************


「--名前は?」


 初老の男性医師に尋ねられ俺は答えに窮してた。当たり前に答えられないといけないはずの質問に、俺の口はスラスラ応答することはできなくて、ただ自分の膝の一点を見つめて黙ってた。


「名前は、分かる?」


 沈黙を質問の答えとし医師は手元のクリップボードと俺の顔を交互に見つめて弱ったような目をしてた。


「ご家族の名前とか、自分の歳とか…住所とか、なにか覚えてることは?」

「……。」

「なにも思い出せない?」


 俺はゆっくり顔を上げて医師の目を見る。皺の寄った目尻に刻まれた灰色の瞳が励ますような眼差しを向けていた。

 それに応えられないことに情けなさと申し訳なさを感じながら、カラカラに乾いた口を開いてた。


「……なにも。」

「なにも覚えてないです。」



 診察室にて、目を覚ましたばかりの俺は担当医の如月きさらぎ医師からここに運び込まれるまでの経緯を説明された。


 名前は黒井憐くろいれんというらしい。自分の名前だと言われてもピンとこなかった。


 俺はこの病院で、二年間も昏睡状態のまま目を覚まさなかったようだ。

 原因は川で溺れたとのこと。高校三年の12月、俺は真冬の川を漂ってたらしい。


 --どうして溺れたのか、自分が何者なのか、何度繰り返し説明を受けてもやっぱりなにも思い出せなかった……


 医師からの診断結果は『全生活史健忘』。要は記憶喪失だという。


 数日に渡る精密検査の結果、後遺症等は見られないとのことで、記憶を無くしている直接的な原因についてははっきり分からないらしい。



「桜警察署の藤城ふじきと申します。」


 刑事が俺のところに来たのは目を覚ましてから3日後のこと。

 差し出された名刺には藤城俊作ふじきしゅんさくとあった。エラの張った大きい顔の男はまだ20代くらいに見える。太い眉に力強い目元、顎にうっすら残った無精髭に目を瞑っても端正な顔立ちの美丈夫。正義感が強そうでいかにも刑事って感じで俺は初対面で苦手意識を抱いた。


 病院の中庭から見える駐車場には車がいっぱい並んでる。隣に座る刑事に目を合わせられなくて俺は青空を悠々と泳ぐ飛行機雲に目を向けていた。


 突然の警察の来訪に面食らう俺に藤城は丁寧に接した。


「2年前黒井さんが溺れた事件についてお話を伺いに来ました…ですが、お医者様から伺ったところ記憶がないとか……」

「……はぁ。」

「なにも、思い出せませんか?」


 じっと俺の顔を覗き込む瞳は探っているような眼差しだ。若くても警察なんだなって俺はまた反射的に目を逸らしてしまった。


「……なにも。」


 答えながら俺は藤城の言葉に気になる引っかかりを見つけて反対に尋ねていた。


「……事件って?」

「あなたが溺れた二月川付近で、あなたの高校の生徒のものと思われる所持品が発見されています。」


 藤城はそう説明してから一枚の写真を懐から取り出した。

 冷たい1月の風に端を揺らす写真には、制服姿の少女の顔が写ってた。


 淡い金に見える茶髪の少女は、長いまつ毛に彩られた瞳でこちらを見つめている。微笑んだ口元は優しげで、目元の泣きぼくろが幻想的な色気を放った少女だった。


「この女性に見覚えは?」

「……いや、だからなにも覚えてなくて……」

「そうでしたね。」


 藤城は写真を仕舞いながら説明を続ける。その説明には、少なからず困惑した。


「我々の捜査の結果、あなたが川に入ったのは自殺を企てたから、という線が今のところ有力です。」

「……じ、…俺が?」

「彼女はあなたが川で溺れた同日に、行方不明となっているあなたの高校時代の同級生です。名前は那雪菜月なゆきなつき…なにか思い出しませんか?」

「いや……」


 そんな簡単に思い出せたらこんなところでいつまでも惚けてない。いや、それより……


「……その人が、俺が溺れたこととなにか……?」

「菜月さんの行方は現在でも分かってません。そして、あなたが溺れた川の付近で、彼女の遺留品と見られるものが発見されています。先程説明した通りです。」

「……まさか、俺が殺したとでも?」


 突飛な発想に俺の背中を冷や汗が伝う。そんな俺の顔色を見て、何を思ったのか藤城は柔らかい表情で首を振った。


「……我々は、あなたがこの菜月さんと心中を図ったのではと、見て捜査してます。」

「……心中?」


 彼の言ってることが本当なのかどうか、俺はその説明をどう受け止めるべきか混乱した。

 自分のことも思い出せないのに見知らぬ女と心中しましたか?なんて聞かされたら誰だって困る。

 なんて答えたらいいかと口を閉ざしていると藤城はまた淡々と説明し続けた。


「警察の調べでは、あなたは彼女と懇意にしていた様子…本当になにも思い出せませんか?」

「いやだからなにも……俺と一緒に川に入ったのに、その人は見つかってないんですか?」

「ええ…現在も捜索中です。」


 得体の知れない暗い不穏な空気が肺の奥からせりあがってきた。突然置かれた状況に目眩がする。


「あなたは、事件の当事者です。本当になにも覚えてませんか?」


 何度訊かれたって覚えてないものは覚えてない。藤城は俺の困り果てた顔を見て嘆息をひとつ吐き出した。


「……そうですか。」


 追求を諦めた様子の藤城はしょぼくれた目を空に向けた。

 俺が少女の行方の唯一の手がかりだったんだろう。その俺がこのザマだ。途方にも暮れようというものだ。申し訳なさと、自分が過去に何をしたのかという不安感に頭が重くなって俺は反対に頭を地面に向かって落としてた。


「……黒井さんはこれからどうなさるんですか?」

「え?」


 突然の質問に俺の口から息と一緒に間抜けな声が漏れる。


「黒井さんは御家族も……退院後のこととか…」


 御家族--


「そういえば、俺の家族って…今日まで誰も訪ねてきてないんですけど……」

「まだご存知なかったですか。」


 藤城の向ける目が今度は憐憫に濡れていた。温度の変わる彼の目に俺はどきりとした。次に藤城の口から飛び出す言葉をじっと待つ。


「……落ち着いて聞いてくださいね?黒井さんの御家族は、既にお亡くなりになっています。」


 頭の中の予想をなぞるように彼の口が語ったのは、俺が既に天涯孤独の身の上になっているという事実だった。


「黒井さんは母子家庭でして…お母さんの奈美なみさんは二年前に自宅で…」

「原因は?」

「自殺だったと……」


 一気に真っ暗な谷底に叩き落とされた気分だ。たった一人の肉親が既にいないこと、しかも自殺……

 顔も思い出せない母親が、俺が入水自殺を図ったと同じ時期に自らこの世を去ったという事実に、途方もない罪悪感が苦味となって喉まで上がってきた。

 いやそれより、過去も何もかもを失った自分が今、この世界になんの寄る辺もないという現実に足下が崩れる思いだ。

 まるで信じて体を預けてた地面にぽっかり穴が空いたみたいな……


 ********************


 それからは目まぐるしく環境が変わった。


 如月医師から退院の旨を伝えられて、俺は病院を後にした。

 手ぶらもいいとこでほっぽり出された俺を助けてくれたのは藤城だった。


 彼に連れられて役所に向かい必要な手続きを終えて、しばらくは無料宿泊施設に置いてもらえるようになった。

 藤城の話では母親の奈美には親族がおらず、生前も俺と二人だけでひっそりと市内のアパートに暮らしてたとのこと。母親が亡くなったことで当時のアパートもとっくに引き払われ、俺を引き取ってくれるような人物もいなかったらしい。

 仕事なんだろうけど色々世話してくれた藤城には感謝した。


 施設の部屋は布団一枚敷けるのがやっとという狭い部屋だった。備え付けなのはラジオとその布団くらいで風呂とトイレも共用。

 利用者のほとんどは高齢のホームレスのような人達で俺はまたしても置かれた現状に絶望した。いや、贅沢は言えないけど……


 部屋の固い布団の上でこれからの事を考えた。

 いつまでもここには居られない…働いてお金を得ないと……

 高三の冬に入水自殺を図って二年…俺は今20歳とのことだ。

 しかし高校生で時が止まっている俺には資格も技術もなく、成人してるからと言って簡単に職にありつくのは難しいだろう。

 役所や藤城からこれからの事についてあれこれ説明や提案を受けたけど、どれも頭に定着せず右から左に流れて行った。


 --あなたが記憶を取り戻すことが、菜月さんの御家族の為にも必要なことです。難しいかもしれませんが、私もできる限りの協力をしますので……


 最後に会った藤城の言葉だけが俺の耳にこびりついて離れなかった。


 ********************


 北桜路市きたおうじし--


 九州地方の地方都市。日本海に面し近隣を山に囲まれた青と緑の都……

 俺が産まれ育った町…北桜路市内鍛冶山区きたおうじしないかじやまくの外れまで足を運んでた。


 港中央区みなとちゅうおうく桜区さくらく、鍛冶山区、扇区おうぎくからなる市内でも、山間に位置している。俺の入所した無料宿泊施設のある港中央区からは電車で30分ほどかかった。


 役所で目にした住所を頼りに町を歩く。施設で借りたダウンジャケットを着て歩く並木道は寂しげな枯れ木の枝に飾られた灰色の空の下で風に舞う枯葉を踊らせてた。


 北桜路市はその名の通り桜の名所らしくそこら辺に桜並木道があるという。今は枯れ木ばかりだけど4月には満開の桜を咲かせるんだとか。

 役所の職員のそんな説明も、俺には遠い観光地の話に聞こえてた。産まれてから18年住み続けた町のはずなのに……


 最も栄えた港中央区に比べて、ここは随分閑散とした街並みだった。

 アーケードに包まれた商店街もシャッターが下りていて、町を歩いていても年寄りばっかり。

 その代わり静かな景観と、遠くに望める山々の佇まいは冬の寂しい雰囲気を際立たせ、哀愁漂うがどこか居心地のいい空気を醸してた。山に囲まれた鍛冶山区は春には桜、秋には紅葉を楽しめるそうだ。


 しばらく町を歩いてみた。長年住んだ町ならば町の景色を眺めることでなにか思い出すかもしれないと思ったから。

 でも、静けさばかりが溶けだした町の風景をいくら眺めても、脳裏に蘇ってくる物は何も無かった。


 そのまま役所で貰った地図を頼りにしばらく歩き続けて、静かな街の中でも一層人気のない一角に辿り着いた。


 近くに公園があって、道路を挟んで向かい側に古い木造のアパートがあった。3階建てで、人が住んでそうなのは外から見た感じ数部屋だ。


「……ここが、俺ん家。」


 このアパートの3階に、俺は住んでたらしい。

 やっぱり来てみてもなにも思い出せない。目の前にある今にも崩れそうなアパートをぼんやり眺めてた。


 しばらく佇んでたら、向かいから自転車を押したおばちゃんがやって来た。おばちゃんはそのままアパートの階段の横に自転車を停めて階段を登っていく。このアパートの住人らしい。


「……あの。」


 慌てて声をかける俺に、おばちゃんは怪訝そうな顔を向けた。他人に向ける冷たい視線に挫けそうになりながらも俺は尋ねた。


「このアパートの303号室に住んでた、黒井って人…知ってますか?」

「……さぁ。最近越してきたばっかだから、あたし…あんた何?」

「いや……昔ここ住んでた者なんですけど……」

「……住んでたんなら、あんたの方が知ってんじゃないのかい?」


 おばちゃんはそのまま足早に階段を上がって行った。2階の部屋に入る前に、階段前に立ってる俺に怪しげな者を見る視線を向けて扉を閉めた。


 一時の音の終わりに再びアパートの周りは静かで冷たな空気に巻かれた。俺はとぼとぼと頼りない足取りでアパートに背を向けた。


 もしかしたら自分を知ってる人がいるかもしれない……

 そんな期待も無駄足に終わりそうだ。知ってたとして、その人に頼るのか?


 道路を渡った先の公園もまた、周りの風景に呑まれるように静けさに満ちていた。

 随分遊ばれてなさそうなブランコやシーソーが寂しそうに公園を眺めてる。ブランコの座板に腰を下ろしたらギイギイと錆び付いた鎖が鳴き声をあげる。

 忘れ去られた悲しみに泣くように軋むブランコは俺の体重を重そうに受け止めてくれた。半分腐りかけの座板はひんやり冷たかった。


 2月になっても乾いた空は相変わらずで、色の抜け落ちたような空は寒々しく俺の身も心も冷やしてた。


 この状況から抜け出す天望もなく、人々に忘れ去られたようなこの町はまさに世界から取り残された俺にピッタリだ。


「……とんだ浦島太郎だな。」


 乾燥した冷たい風がさらに俺の心の温度を下げる。下を向いて足下の砂の粒を数えても、時間の無駄でしかない。


「……腹減ったな。」


 公園の時計は正午を指し示す。これまた施設から借りた折りたたみの財布の中を覗くが、千円札が二枚狭そうに入ってるだけだ。

 生活保護も高くはない。少しの間の食い扶持ならいいが、この先どうなっていくのか分からない状況で、無駄金を使う勇気はなかった。


 ……帰りの電車賃が280円。飯代で500円として……


 浦島太郎か…いっそ可哀想な亀でもそこら辺に転がってないだろうか……俺が浦島太郎なら絶対竜宮城から帰らないのに……


「--大丈夫ですか?」


 不意に声をかけられて何事かと俺は頭をあげていた。

 頭上から降ってきた声は閑散とした廃墟のような街並みにはあまりにも似つかわしくない澄んだ声音をしてた。


 ブランコで項垂れる俺を見下ろしてたのは、銀髪の女だった。


 冬の寂しさを乗せて吹く風になびく長髪は絹の糸のように細かく、それでいてキラキラと輝いてる。プラチナブロンドというのだろうか。俺を覗き込む為に下げた頭のうなじまで見事な銀色だ。地毛?

 浮世離れしてるのは髪だけじゃなく、細いまつ毛が縁取る瞳は深いワインレッド。雲から覗く陽光に輝いてる。

 白い肌は冬の空の下で一層白く映え、作り物みたいに整った目鼻立ちは彼女に神秘的な魅力を纏わせる。


 冬の精霊かなんかかと思った。


 見惚れる程の美女が俺を見つめてた。心配するような口ぶりに反してその口元には柔らかな笑みがこぼれてる。


 手にはトートバッグを提げて、厚手のコートを羽織ってる。身長は低くもしかしたら150無いかもしれない。


「……。」

「ごめんなさいね、いきなり…具合が悪そうに見えたもので……」

「……あ〜、いや、大丈夫……」

「顔色が悪いようですが?」


 桜色の唇から紡がれる声は自然と鼓膜を通っていく。俺は愛想笑いを浮かべて首を横に振った。


「平気です…ホント。ちょっとお腹空いてるだけ……」

「……。」


 女は俺を不思議そうに眺めてから、トートバッグの中に手を突っ込んだ。

 細い指が引っ張り出したのは、コンビニのサンドウィッチだった。


「良かったら……」

「いえ、結構。本当に大丈夫。」

「そう、ですか……」


 ちょっと寂しそうに女は返して、サンドウィッチをバックに戻した。

 なんだか居心地が悪くて俺はブランコから慌てて立ち上がる。急な振動に古びたブランコがやかましく喚いた。


「……じゃ。」

「寒いので、お気をつけて。」


 女に背中を見送られながら俺は足早に公園を去っていた。


 世の中変な奴もいる。昼間の公園に一人で座ってる男に、声をかける女なんて居るんだろうか…しかも善意で。


 突然の出来事にほんの少し昂った体の熱をすぐに冷たい空気が冷やしていく。歩くほど、再び置かれた現実にめまいがした。


「……それにしても、可愛かったな。」



 しばらく町を歩いた。

 駅の方に向かうとやっぱり多少活気があり、それなりに人も居た。

 桜の名所ということもあるのか、駅前には宿泊施設も多くあり、時期になったら観光客とかも来るんだろうなって思った。


 思いながら今度は山の方に向かってみた。秋には紅葉が咲き乱れ、山菜なんかも採れるとのこと。


 何かしらの思い出でもあるのではと淡い期待を抱いて歩く。駅から一番近い林道まで歩いたら一時間近くかかるとの事。


 タクシーなんて使えないから歩いた。

 途中町の住人に色々訊きながら賑やかな街並みを人に紛れて歩く。


「今の時期はなーんもないけどね。あ、でも温泉はあるよ。」


 とのこと。鍛冶山区を囲む小嶽山こたけさんという山は地元の人もあんまり寄らないとのこと。紅葉のシーズンには観光客が登るらしいが、あまり登山には適さないとか。


 駅から離れる程、町の景色は活気を失い静かになっていく。小嶽山が近づくと住宅も減り、空き地が目立つようになってきた。


 まさに田舎と言った風情だ。国道沿いに点々と設置されたベンチもないバス停に懐かしい気持ちを覚えるのは、なんらかの刺激があった訳じゃなくて、この寂しげな風景が心に刺さるからだろう。ローカル番組のロケとかで見そうな光景。


 さらに行くと田んぼがあって、細い畦道を学生服の少年少女達が入っていく。危なげに揺れる自転車を楽しそうに漕いでいる。近くに中学か高校があるんだろうか……


 地元の人に聞いた話ではもう少し行くと小嶽山に入る麓の林道があるらしい。なんにもないとは聞いていたが、本当になんにもない。


 ……今何時だろう。


 ぼちぼち周りが暗くなり始めた。元々天気が良くなかったこともあり、重そうに広がる雲からは今にも雫がこぼれてきそうだ。


 歩き疲れた、腹も減った。ため息が疲労と一緒に溶け出してひんやりした空気に変わる。

 結局時間の無駄だ。焦ってもなにも解決しない。故郷の町を歩いても、なにも思い出さなかった。


 そろそろ帰ろうと思いつつ、足は未練がましく前に向いていた。

 ーーもう少し、もう少しだけ歩いてみよう。

 疲れが出始める中でそんなふうに思ったのは、ここが自分と世界を繋ぐただ一つの縁だから…


 畦道をしばらく歩いたら田んぼだらけの景色がひらけた。

 やっぱり何もない寂しい道を街頭の明かりが照らし始めてた。気づかないうちに随分暗くなり始めたようだ。

 道のずっと先に登り坂が見える。太い木々に囲まれた細い道は多分、小嶽山の林道だ。吸い込まれるように続く道は行き場のない俺を誘うようにぽっかり口を開いてた。自然俺の足はふらふらそこに向かってた。


 林道に向かって歩いてると、小さな明かりがぽつんと目についた。

 ランプの光みたいに温かな明かりは林道のすぐ脇に小さな点のように灯されてる。凍りつくような寒さの空気をそこだけが温めてるようだ。


 「……」


 誘われるようにその人の営みに歩を進めた。


 空を覆うように生茂る木々の影の差す林道の脇に、誰からも忘れられたようにその店は佇んでいた。


 『もりの隠れ家』


 店の前の看板にはそう書かれてた。店名の下に記されたメニューを見る限り喫茶店みたいだ。

 その店は木造で、全体的に黒っぽい。こんな町のはずれに店を構えるあたりまさに『隠れ家』といった様相だ。


 入口横の小さな丸い窓から明かりが漏れてる。中からは物音はしなくて静かだ。

 地元の人もあまり寄り付かない場所というらしいし、客もいないのかもしれない。ただ、メニューを見る限り値段は安い。穴場ってやつだろうか。


「…営業時間、『起きてから寝るまで』……」


 扉にかかった木の看板をそのまま読んだ。明かりがついてるってことはまだ寝てないってことだよね?


 軽食類の安さもあったが、俺は吸い寄せられたみたいに自然と扉に手をかけていた。

 木製の扉を押し開くと、ギィィッと蝶番が金切り声をあげる。それをかき消す入口ドアベルの子気味いい音が心地よく鼓膜を震わせた。


「あー、いらっしゃいませ……」


 店に一歩足を踏み入れた時、奥の方から声がした。ドアベルに負けない涼やかな声音が来客を出迎える。

 でもその声は知っていて--


「……おや。」


 店の奥、カウンターの向こうから顔を出した店主の顔に俺は目を丸くした。まさか二度目の邂逅があるとは思わなかったから……


「いらっしゃいませ。」


 俺の顔を見た店主は、横でひとつにまとめたその銀色の髪を揺らして桜の花びらのような唇を綻ばせていた--

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