第五話 橙色の約束

 それから、数ヶ月が過ぎた。元々長命な吸血鬼にとって、数ヶ月という時間は瞬きの間に等しいのだが。

 主と歌姫が過ごしたこの時間は、あっという間でありながも、小説が何本も書けるのでは思ってしまうほどに濃厚だった。


「キミさあ、その時のノリでアドリブ入れるのやめてくれないかな! 合わないとボクが間違えたように聞こえるんだよ!」

「えへへ。だって吸血鬼さんのピアノ、凄くキラキラしていて楽しい音色だから、ついテンションが上がっちゃって」


 そうやって、常に言い争っている……いや、主が歌姫に振り回されているのだが。共にある二人は、ワタクシから見ても本当に輝いていた。

 それが見ている人間たちにも伝わり、二人の評価はどんどん上がっていった。雑誌で表紙を飾ったり、インタビューに答えたり、写真集が発売されたりと凄まじい活躍だった。

 SVEFが警戒態勢を敷いている状況で目立つのはどうかと思ったが、ここまで来ると逆に目をつけられないのかもしれない。今のところ、敵が主の正体に気がついた様子はない。

 しかし、安心出来る状況かと言えばそうではない。

 飢えを満たせていないせいで、主の力がどんどん消耗されているのだ。


「あのう、吸血鬼さん……大丈夫ですか? また少し、痩せられたみたいですけど」


 とある日の練習後。疲労困憊でソファに寝転がっていた主の顔を覗き込みながら、心配そうに歌姫がたずねる。

 いつの頃からだったか、この二人、着替える時以外はずっとどちらかの楽屋に入り浸るようになっていた。


「キミの無茶振りに付き合ってると、カロリーの消費が激しいんだよ。現トマト農家の彼、どうやってあの体型を維持していたのかな」


 口角をひくつかせながら、主がトマトジュースのパックを持ち上げる。元ピアニスト、現トマト農家の差し入れである。


「お腹が空いてるんですよね? 私の血、飲みます?」

「幸福感で溢れてる今のキミの血なんか飲めたもんじゃないよ。トマトジュースの方が百倍マシだ」

「もー、好き嫌いしちゃダメですよ」

「キミに言われたくないよ。飲んでみれば、トマトジュース。美味しいよ?」

「け、けけけ結構です! コウモリさんに差し上げます、どうぞ!」


 主がトマトジュースを差し出すも、歌姫は顔をぶんぶんと横に振って逃げた。彼女はトマトが苦手だそう。

 珍しく一泡吹かせられたことに満足したと笑いながら、主が身体を起こしてトマトジュースのパックにストローをさしてテーブルに置いてくれた。ワタクシは別に空腹ではないのですが、ありがたく頂くことにする。

 うーん、美味。あの元ピアニスト、トマトを育てる才能には恵まれていたらしい。


「……もうすぐ、半年経っちゃいますね」


 トマトジュースを啜るワタクシを眺めながら、歌姫がポツリと言った。そういえば、彼女に付き合うのは半年間という約束だった。

 だと言うのに、彼女はこれまで代わりのピアニストを探すことはしなかった。これだけの実力者なら、伴奏などなくともソロで勝負出来るだろう。

 でも、彼女はそうしようとも思っていないらしい。半年後、つまり次のコンサート以降のスケジュールは白紙の状態である。

 一体何を考えているのか。


「ねえ、キミは次のコンサートが終わったら、どうするつもりなの?」

「それは……」


 主が促すも、彼女は言い淀む。考えるように部屋の中を歩き回り、窓の外に目を向ける。

 そして、勢いよくこちらを振り返る。


「吸血鬼さん、お出かけしませんか? コウモリさんも一緒に、ぜひ」



 歌姫に連れて来られたのは、首都の中でも一番高いランドマークタワーの展望階だった。


「わあ、今日も綺麗! 見てください吸血鬼さん、夕日がとっても綺麗ですよ!」

「見てるよ。だから、あんまり大声で吸血鬼って言わないでよ」


 時刻は夕方。太陽が沈み、橙色の空が広がっている。この街は昼夜問わず騒々しいが、日が暮れる今時分だけは、なんとなく景色が寂しいものに見えるので不思議だ。

 幸いなことに、展望階に居る人数も少ないので、主が吸血鬼と呼ばれていることに訝しむ人間は居ないようだった。


「ここから見下ろせる景色の中だけでも、一体どれだけの人間が暮らしていると思います?」

「……さあ、考えるだけでもめまいがしそうだよ」

「ふふ、そうですよね。私、この街で暮らしている全ての人間たちに、私の歌を聞いてもらいたいんです」


 途方もない野望だ。だが、決して叶えられないものではなかった。

 今ではテレビやラジオで何度も彼女の歌が流れるし、街頭ビジョンでもコンサートの映像が流れるくらいだ。彼女を知らないという人間の方が少ないだろう。


「聞いてもらって、それからどうするの?」

「そうですねぇ……元気になってもらいたい、幸せになってもらいたい、そんな感じ?」

「うっわ、なにそれ。よくそんなこと言えるね、偽善的で吐きそう」

「吐きそうって、ひどいなぁ……あ、さっきの質問、まだ答えていませんでしたね。次のコンサートが終わったら、どうするか」


 主の皮肉さえも軽く流して。歌姫が前を向いて、景色を指さす。

 彼女の指は遠く、ワタクシの目では見えないくらいに、とても遠くを示していた。


「次のコンサートが終わったら、この街を離れるつもりです。少し長めのお休みをとってから、ここから遠くにある新しい土地で、また一から始めようかと」

「少し長めのお休み、ねえ」

「あのう、吸血鬼さん……一緒に、来てくれませんか?」


 今までの我が道を行く歌姫はどこへやら。俯いて、胸の前で手を組んでもぞもぞし始めた。

 彼女の頬が赤いのは、夕日のせいか。別の理由か。ワタクシにはわからない。


「そのお誘い、ボクにメリットあるの?」

「えっと、好きな時に好きなだけピアノが弾けます!」

「それだけ?」

「楽しいですよ! 今までと同じくらい、いえ、今まで以上に楽しいです、絶対に!」


 呆れるくらいに、彼女の話には根拠がなかった。無計画だった。なのに、なんだかとてもワクワクしてしまった。

 ああ、ワタクシはどうやらすっかりお二人のファンのようです。


「ボクについて来いだなんて。どこまでも変わってるね、キミは」

「そうですか? 吸血鬼さん、いい人ですよ」

「それ、凄い侮辱なんだけど! ……いいだろう。キミがいつか、ボクを殺したくなるほど憎んでくれるその日まで、キミはボクの獲物だよ。絶対に逃さないから」

「やったあ! 一緒に世界中を周りましょうね、絶対ですよ!」


 噛み合っているようで、微妙にズレているやりとり。しかし今日、ここで交わされた約束は、間違いなく世界で一番輝かしいものだった。

 だから、目が眩んでしまって気がつけなかったのだ。


 断罪の銃口が、近くまで迫ってきていることに――

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