40.再び上野へ

 11月2日、日曜日。幸い天候も良く外出日和だ。かつらは早めに起きて布団を干し、朝食と昼食用のおにぎりを作ると康史郞こうしろうを起こした。

「康ちゃん、おはよう」

「おはよう。京極きょうごくさんは何時に来るの」

「10時よ。それまでに洗濯を済ませないと」

 かつらはちゃぶ台の上にお茶の入ったお椀とおひつを置く。

「おにぎりの残りだけど、お茶漬けにして食べましょ」


 10時少し前に、軍服姿にカバンを持ったたかし横澤よこざわ家のドアを叩いた。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

 隆は挨拶しながら室内をのぞき込んだ。洗濯紐には干したばかりの洗濯物がぶら下がっている。

「こちらこそ、わざわざありがとうございます」

 康史郞の前と言うこともあり、かつらは丁寧に挨拶する。

「今日もおにぎりを作ったので、公園でお昼にしましょうね。康ちゃん、布団取り込んだら出かけるわよ」

「分かったよ」

 康史郞は布団を取り込むとランニングシャツの上から学生服の上衣を羽織った。

「あったかくなってきたからカーディガンはいらないかしら」

 ブラウスとスカート姿のかつらは、弁当と財布の入った肩掛けカバンを持って玄関に出た。


 うまや橋の電停から上野広小路駅に向かう都電に乗り、三人は上野の百貨店に向かった。

「京極さん、けがの具合どう?」

 康史郞が隆の背中を見ながら尋ねる。

「だいぶ良くなったよ。これもお姉さんのお陰だ」

「私も京極さんのお役に立てて良かったです。衣料切符も忘れずに持ってきましたし、後はセーターがあるといいんですが」

 隆の隣でつり革を掴むかつらが笑顔で答えた。

「お約束通り、かつらさんの靴代は私が持ちますから、好きな靴を選んでくださいね」

「ありがとうございます」

 穏やかな秋の光が、都電の窓を通して三人を照らしていた。


 不忍池しのばずのいけを臨むベンチで、三人はおにぎりとお茶の昼食をとっていた。田んぼはすっかり刈り取られている。

「良かったね、セーターも靴も、京極さんの下着も買えて」

 セーターの入った紙袋を持った康史郞が、満足そうにお茶をすするかつらに呼びかけた。

「大人用のセーターだけど、康史郞もすぐ大きくなるわ」

 かつらは茶色いプレーントゥの革靴を履いている。

「本当はかつらさんの靴に合う靴下も買いたかったんですけど、衣料切符の残りが少なかったのであきらめたんです。すみません」

 そう言うと隆はおにぎりをほおばる。

「靴だけで十分ですよ。やっぱり冬場の下駄は寒かったですからね」

 かつらは満足げに足を伸ばして靴を見た。

「姉さん、今日はこの後どうするの」

 康史郞の問いにかつらが答える。

「みんなで銭湯に行こうかなって」

「俺、カイとリュウに久しぶりに会いたいんだ。元気でやってるかなって」

「それなら、二人とも雑貨店の店番をしてると思うから、銭湯に行く前に両国のヤミ市に行こうか」

 隆の提案に二人は同意した。


 横澤家に戻ったかつらは銭湯用具の入った風呂敷包みを持つと、下駄に履き替えて外に出た。

「下駄箱があっても、銭湯に新品の靴で行くのは恐いわ」

 かつらの言葉に隆もうなずく。

「残念だけど泥棒もいるからね。用心するに越したことはない」

「だからカイとリュウが二人きりでちゃんとやってるか心配なんだ」

 康史郞はかつらを見上げて言うが、かつらはたしなめた。

「あの二人は康史郞よりずっと大人よ」

「分かってるよ。俺に何かできることがあったら協力したいんだ」

 康史郞は自分の風呂敷包みを持つと歩き出した。


 八馬やまの雑貨店は日曜も店を開けていた。店頭にはカイとリュウが座っている。

「康史郞、久し振りだな」

 カイが立ち上がって声をかけた。

「元気でやってるみたいで安心したよ」

「湯飲みを買ってくれてありがとう」

 リュウは隆に礼を述べる。隆は無言で一礼した。かつらは店頭を見ながら尋ねる。

「下駄の鼻緒を探してるんだけど、赤っぽいのはないかしら」

「この辺にあったかな」

 カイはズック靴の紐や下駄の鼻緒が並べてある一角をあさり始めた。その間に康史郞はリュウに話しかける。

「ヒロさんたちが帰ってくるまでまだかかるんだろ。何か困ってることはない?」

 リュウは少しためらった後答えた。

「倉庫の整理をしたら中に住んでもいいってヒロさんが言ったんだけど、荷物がたくさんあって片付かないんだ」

「それなら一緒にやろう。明日は明治節(明治天皇の誕生日。現『文化の日』)で休みだから、姉さんにも頼んでみるよ」

 康史郞はかつらを見た。カイが見つけた鼻緒を手に取っている。

「姉さん、明日リュウと倉庫の片付けをしたいんだけど、手伝ってくれないかな」

「分かったわ。隆さんもどうかしら」

 かつらは隆に呼びかける。

「かまわないよ。特に用事もないし」

「それなら店は休みだ。俺も早く防空壕を出たいからな」

 カイと隆の同意も取り付けると、康史郞はリュウに言った。

「それじゃ明日、姉さんたちと倉庫に行くからよろしくな」

「ありがとう」

 リュウの口元が微笑んでいるように康史郞には見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る