30.両国駅西口で

 10月8日、水曜日。かつらは出勤前に康史郞こうしろうに呼びかけた。

「康ちゃん、今夜は遅くなるかもしれないから、夕飯食べたら布団敷いといて」

「もしかして京極きょうごくさんと会うの?」

 興味津々の康史郞に、かつらは柳行李やなぎごうりからカーディガンを取り出しながら答える。

「京極さんの家は知らないけど、駅前で待てば会えるかなって。お店は征一せいいちくんに手伝ってもらうことになったから、康ちゃんもまっすぐ帰ってね」

「分かったよ。会えるといいね」

 康史郞の明るい声に、かつらは救われたような気分になった。


 夕刻の両国駅前は、大勢の人でごった返していた。勤め帰りの男女や学生、力士らしき体格のいい男性も見かける。

(寒くなってきたわね。やっぱりカーディガンを持ってきて正解だったわ)

 かつらは「まつり」に近い西口改札の出口でたかしを待っていた。ブラウスの上から灰色のカーディガンを羽織っているが、戦時中からずっと着ているのですり切れた所を糸で補強している。

(隆さん、私のこと分かるかしら)

 少し緊張しながら駅の入口を見つめるかつらに、茶色の背広を着た中年男が声をかけてきた。

「あんた、もしかして新顔か」

 かつらは言葉の意味が分からず男を見つめる。

「ここで仕事がしたいなら、ショバ代を払ってくれないとな」

 男が指差した先を見てかつらにもようやく合点がいった。客待ちをしているらしき女性が壁際に間隔を取って立っている。

「私は待ち合わせしてるだけです」

 かつらがかぶりを振ったその時、視線の端に無精ひげの男が目に入った。廣本ひろもとだ。ヤミ市で買ったのだろうか、柿の実を数個抱えている。男も廣本に気づいたらしく、かつらから離れて話しかけた。

「おい、今日はあれ、持ってないのか」

「売り切れだ」

 廣本はぞんざいに言うと雑貨店の方向へ向かって歩き出そうとしたが、かつらを見て立ち止まった。先日横澤家を訪れた時より憔悴しょうすいしているようだ。

「京極はいないのか」

 かつらには、目の前の廣本が戦場で隆に斬りつけたのだと思うといてもたってもいられなくなった。

「お願いだから、もうあの人をいじめないで下さい」

 かつらの言葉を聞いた廣本の目に生気が戻った。

「逆だ。あいつが生きている限り、俺は眠れねえ」

 かつらはさらに話しかけようとしたが、隆の手紙の内容を知っていることは秘密にしなければならないことに気づき、自分を押しとどめた。男が代わりに廣本に呼びかける。

「土曜までに準備しないとあれは渡せないと店主に伝えてくれ」

「分かったよ」

 廣本は男にそう言うと、駅を離れていった。男はかつらに向き直る。

「さてと、邪魔が入っちまったが、ショバ代がまだだったよな」

「ですから、私は」

 必死に釈明するかつらを見て、男のスイッチが入ってしまったようだ。かつらの腕を掴むと低音で凄む。

「ヒロポンの代わりにお前で勘弁してやる」

 必死に逃れようとするかつらを力で押さえ込もうとする男の体勢が突然崩れた。何者かが体当たりしたのだ。よろけた拍子にかつらを掴んでいた男の腕が離れる。

「こっちだ」

 見間違えるはずもない。隆が手を伸ばしている。かつらはその手を掴んだ。

 隆はかつらの手を掴んだまま小走りに人混みを走り抜け、駅前の交番に駆け込んだ。中には警官と背広姿の中年男が立っていた。

「すみません、遅くなりまして」

 隆は中年男に頭を下げると、かつらに説明した。

「この人が刑事の新田にったさん。今日ここで会う約束をしてたんだ」

新田金三にったきんぞうです」

 隆は改めて新田にかつらを紹介した。

「友人の横澤よこざわかつらさんです。彼女の情報も刑事さんの参考になると思いますので、同席させていただけませんか」


 交番奥の休憩室を借り、隆は新田にここ数日調べたことを説明した。

「ヤミ市でたばこを買っている時にヒロポンの話をしたら、『用意できるよ』と店主から言われたんです。ヒロポンをヤミで売っている人物は複数いるようですが、廣本さんから買っているのはほぼ間違いないと思います。ただ、保管先がどこにあるかは本人を調べないと分からないでしょう」

「そういえば、さっき両国駅で私に絡んできた男の人が、廣本さんと話してたんです」

「なんだって?」

 隆は思わずかつらを見るが、新田の表情は変わらない。

「『土曜までに準備しないとあれは渡せない』と言ってました」

「その男は茶色い背広を着てなかったか」

 新田がかつらに尋ねる。

「はい。それと、その人もヒロポンを欲しがってました」

 新田は手帳を取り出すとメモを取りながらかつらに言った。

「ありがとう。その男は恐らく日下くさかとおる、私が目をつけていたヤクザだろう。これ以上深入りすると危険だ。後は我々警察に任せてくれ。進駐軍にも報告しなくてはいけないから少し時間が必要だが、必ず解決させる」

「すみません、そのヤクザの人って、家の取り壊しとかもするんですか。実は……」

 かつらは新田に家が地上げ屋に狙われていること、八馬やまが白紙になった道路の地図を見せて脅してきたことを説明した。新田はメモを取りながら熱心に聞いている。

「その地図が見てみたいな」

「お隣の山本隼二やまもとしゅんじさんが勤める会社にあるんです。新田さんのお名前を出したら、幼なじみと同じ名前だとおっしゃってましたけど」

 新田のメモを取る手が止まった。口元が緩んでいる。

「その山本さんが勤めている会社を教えてくれないか。直接伺おう」

「ありがとうございます」

 隼二の推測は当たっていたようだ。かつらは一礼した。


 新田との話が終わり、交番を出たかつらと隆は辺りを見回した。ヤクザや廣本の姿は見当たらない。

「ところで、どうしてあんな所に来てたんですか」

 隆は改めてかつらに切り出した。かつらは隆を見上げて答える。

「あの手紙を読んで色々話したいことができたのに、隆さんはお店にも来ないし、家も分からないので、駅で待っていれば確実かな、と思ったんです」

「気持ちは嬉しいですけど、かつらさんを危険な目に会わせたくはありません。次から何かあったら私の家に来てください。これから私の家を通ってうまや橋まで特別に送っていきましょう」

「特別、なんですね」

 かつらは寂しげにつぶやいた。

「君のことはいつも思っています。もう少しの辛抱ですから」

 隆はそれだけ言うと歩き出した。


 隆の住む「墨田川館すみだがわかん」という名の簡易宿舎を案内された後、かつらは隆と久し振りに厩橋に向かって歩いていた。

「隆さんの手紙を読んで思ったんです。みんな苦しみを飲み込んで一所懸命生きてるんだなって。その辛い過去を隆さんが打ち明けてくれて本当に嬉しかった反面、私は隆さんの過去を受け止められるのかって」

「私はあの島で起こったことを誰にも話さないつもりでいました。私の過去でかつらさんを苦しめるなんてわがままではないかと、今でも思っています」

 隆はかつらと視線を合わせずに歩き続ける。やはり辛いのだろうとかつらは思った。

「でも私は隆さんが亡霊と呼ばれるなんておかしいと思っていましたから、隆さんのせいではないと分かって安心したんですよ。それに、私にも康史郞にずっと言えないことがあります。いつか話せる日が来ればいいんですが」

「康史郞君は気立てのいい子だから、きっと分かってくれますよ」

 隆はようやくかつらに視線を合わせた。

「ええ。いつかは話さないといけないと思ってますから」

 かつらはつぶやいた。

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