3.


 朝。太陽がまだ地平線から登り切らぬ内から、ミルファは野営地を片付け、ラマダンに跨り出発した。

 空の青さが深まっていく中で、彼女は一つの砂山に向かって歩いていた。しかし、ラマダンは、彼女の進もうとしている道のやや左側をちらちらと眺めている。


「あっちに何かあるの?」


 一度立ち止まらせて、ミルファがラマダンの顔を窺うと、彼はまた左側をじっと眺めている。

 ミルファは顎に手を当てて、じっと考え込んだ。


「……道順からは外れてしまうけれど、正午から元の道に戻ろうとすれば、予定通りに着けるね」


 そして顔を上げ、手綱をラマダンが気にする方へと向ける。


「行ってみましょう。私も、気になってきたから」


 ラマダンは嬉しそうに「ブルルン」と返事をして、彼女たちは斜め左へと進み始めた。






   ⦿






 正午近くに、ラマダンは一つの砂山の頂に辿り着いた。そこから下を見たミルファは、はっと息を呑んだ。

 砂山の裾には、一つの天幕が張られていた。外側には、一人の少年が立っている。


 その少年は、北の大陸出身なのか、白い肌で金髪だった。頬には、横向きの傷があり、腰には、反りのない剣を下げている。

 ミルファと目が合った少年は、一瞬だけ安堵したが、すぐに警戒の表情に変わった。


 ミルファも、そんな彼にどうすればいいのかを悩んだが、天幕の中のものが僅かに見え、その気持ちを吹き飛ばした。

 それは、白い足だった。体勢は、仰向けなのだろう。


 ぴくりとも動かない足を目にして、ミルファは迷わず、真っ直ぐにラマダンを駆り、山を滑るほどの速度で降りた。

 突然、目の前まで来た彼女に、驚く少年をよそに、ミルファは、天幕の中を覗く。


 銀髪を長い三つ編みにした少女が、そこにはいた。目を閉じているが、胸は浅く、早く、動いている。

 ミルファはラマダンから跳び下り、少女に駆け寄った。呼吸を診て、脈を取り、汗の出方を観察する。


「脱水症状ね」

「大丈夫……なんでしょうか?」


 黒い洋袴をぎゅっと握りしめた少年に、ミルファはそう断言した。泣き出しそうな彼を安心させるために、ミルファは力強く頷く。


「ええ。症状は軽いから、水を飲ませれば……」


 立ち上がったミルファは、天幕の外に立つラマダンの所まで行き、荷物の中から呼びの水袋を取り出し、少年に手渡した。


「これを、無理をさせないように、少しずつあげてみて」

「ありがとうございます」


 礼を言った少年は、仰向けの少女の唇を濡らすように、僅かに水袋を傾ける。

 ミルファは、食料の入った袋から、手につまめるほどの小さな白い結晶を取り出した。


「水の後は、これをあげてね」

「それは……」

「塩の結晶。これで、汗となって外へ出た塩分を補うの」


 少し動くようになった少女の口元へ、少年は塩の結晶を入れた。それからまた少しずつ、水を与える。ミルファは、少女へ向かって、団扇で風を仰いでいた。

 しばらくして、少女は目を開けた。少年の方を見て微笑み、ミルファに気付くと、体を起こそうとする。ミルファは、無理をしないようにとそれを止めた。


「……失礼な体勢ですみません。お陰様で、助かりました」

「いいえ。困った時はお互い様だから」


 ミルファは本心からの言葉を言い、微笑みを返した。

 少女も上半身を起こせるほど回復した後、ミルファは彼らに小玉西瓜を振る舞おうとした。しかし、ミルファにこれ以上負担をかけたくないと、彼らはそれを固辞した。


「気にしないで。飲食物は、旅の日程の倍以上持ってきているから。これくらい平気よ」


 そう言って、ミルファはナイフで西瓜を三等分にしてから渡し、見たことのない果物に戸惑う二人に、食べ方を教えてあげた。

彼らの文化圏にはないらしい、直接嚙り付くという作法に驚いていたが、二人ともおいしそうに目を細めながら、水気の多い赤い果肉を頬張っていた。残った皮は、ラマダンにあげた。


「私はミルファ。この子はラマダン。あなたたちは?」

「私は、ジェーンと言います」

「アルベルトです」


 ラマダンが西瓜の皮を食べている間、彼らは自己紹介をした。


「あなた達、ここの言葉がすごく上手いけれど、北の出身よね?」

「え、ええ。そうです」


 ジェーンの肯定はぎこちないものだったが、ミルファは別の理由で眉を顰めた。


「言葉がちゃんとしていても、砂漠を横断するなら、もっとちゃんと調べて準備しないとだめよ」

「すみません。ご迷惑をおかけして……」

「それは良いけれど、でも、その恰好は本当に危険よ」


 ミルファは二人の服を指差したが、ジェーンもアルベルトも短めの上着の袖を不思議そうに眺めている。


「熱いから、涼しくしたいという気持ちは分かるけれど、砂漠で一番恐ろしいのは日光なの。あまり、肌を太陽にさらけ出すと危ないわよ」

「そうなんですか……。確かに、ミルファさんは長袖ですね……」

「布とかを巻くといいわ。でも、ずっと太陽にさらけ出していた割には、あまり焼けてないわね……そういう体質なの?」

「……ええ、そうですね」


 首を捻るミルファに、ジェーンは苦笑を浮かべている。その後ろでは、アルベルトが表情を硬くしていた。

 ミルファが、二人の反応を計りかねていると、ラマダンが、突然後ろから頬擦りしてきた。振り返ると、西瓜の皮を食べ終えたようだった。


「おいしかった?」


 そう尋ねながら、ミルファは甘えるラマダンの耳の後ろを掻く。

 そこへ、意を決したように、ジェーンが「あの」と話しかけてきた。


「色々お世話になったところ、申し訳ないのですが……」

「どうしたの?」

「ミルファさんの地図を、書き写してもらえませんか?」


 すると、ミルファは困ったように眉を顰めた。

 彼女の忌憚ない反応に、ジェーンは赤くなって、小さくなる。


「図々しいことは百も承知です。でも、私達は地図を無くしてしまい……」

「そうしたいのは山々だけど、実は私も、地図を持っていないの」

「えっ?」「はっ?」


 すまなさそうなミルファの告白に、ジェーンも顔を上げ、今まで黙って成り行きを見守っていたアルベルトと同時に声を上げた。


「私達一族は、方向感覚と距離の目測には自信があって、どんなに長い旅でも、地図を必要としていないのね……」

「そ、そうなのですか……」

「一番良いのは、私があなたたちを、近くの町まで送ることだけど……」

「そこまでしてもらう必要はありません! ミルファさんの備蓄を圧迫させてしまいます」


 慌てて首を振るジェーンを安心させるように、ミルファは晴れやかに笑って見せた。


「その点は大丈夫よ。三人とラマダンの分と計算しても、余るくらいの食糧があるから」


 確かにそう言い切ったものの、彼女の顔色は、みるみる曇り出した。


「……ただ、私達が向かっているのは、町の方ではないから……」


 不安そうな色を濃くするジェーンと、像のように座ったまま動かないアルベルトをよそに、ミルファは顎に手を当てて、じっと計算を始めた。


「……旅商人のルートまで二人を送る? そうしたら、日数がとても間に合わない……。商人がいつ通るかも分からないし……」

「あのっ!」


 突然、ジェーンから大きな声で話しかけられて、ミルファはびくっと小さく飛び跳ねた。


「ミルファさんが向かおうとしているのは、どんな場所なんですか?」

「うん……。正直に話すと、私達一族以外の人には、あまり知られたくない場所なのよ……」


 バツの悪そうな顔をしたミルファに、ジェーンは「それなら」と、左手首にしていた金の腕輪を取った。そして、ミルファにそれを差し出した。

 瞬間、アルベルトが血相を変えて、腰を浮かせた。このまま、剣を抜いてしまいそうなほどの緊張感を漲らせる。


「いけません、それは!」

「いいの。これで」


 波紋のない砂地のように静かな口調で、ジェーンはアルベルトを止めた。彼は、納得していない様子ながら、渋々座り直す。

 二人のやり取りを、ぽかんとした表情でミルファは眺めていた。そんな彼女に、ジェーンは掌の上の腕輪をなぞりながら語る。


「私達のことを信用できないのなら、この腕輪を送ります。私の家に代々伝わる、純金製のものです。こちらでの価値は分かりませんが、恐らく、何棟もの家が建つはずです」


 ジェーンは、深々と頭を下げた。背後で、アルベルトがぎりっと奥歯を噛んだ音がする。

 ミルファは、ジェーンのこれまでの立ち振る舞いやアルベルトとの関係を見て、彼女がただならぬ高貴な身分の人ではないかと推測していたが、これで確証に至った。ミルファも彼女に敬意を示し、恭しく腕輪を受け取り、自分の手首に付けた。


「分かった。私の予定は変えずに、あなたたちを連れて、聖地に向かうわ」


 腹を決めたミルファの行動は早かった。天幕を片付け、ラマダンに積み、出発の準備を整える。

 ラマダンの背中には、ジェーンが乗ることになった。彼女は遠慮したが、脱水を起こした彼女をこのまま歩かせるわけにはいかない。アルベルトの強い勧めもあり、ジェーンはラマダンに跨り、その隣でミルファが手綱を引き、後ろからアルベルトが追う形となった。


 太陽は天頂を下り始めていた。予定よりも数時間遅れるが、満月の日には聖地に辿り着けそうだと、ミルファは二人に語った。

 いつの間にか、白一色になっていた砂漠の上を、彼女たちは進み続けた。右を見ても左を見ても果てはなく、時々風が強く吹き抜けるだけだった。それでも、ミルファは目的地へと、真っ直ぐにラマダンを導く。


 日暮れ、三人は休むことにした。ラマダンが立つ場所を一つの辺として、三角を描くような形で、二つの天幕を張る。真ん中では焚火をしていた。

 海の魚を干したものを炙りながら、ミルファはそっとジェーンとアルベルトを観察した。二人して、遠く西の向こうへと沈んでいく、真っ赤な太陽を眺めている。砂漠渡りという心強い案内人を得ても、二人の目から不安は過ぎ去っていなかった。


 三人でパンと干し魚を食べる頃には、辺りは暗くなっていた。

 雲一つない夜空に、当然浮かんでいる楕円型の月を、ジェーンは不思議そうに見上げていた。


「ここの月は、変わった形をしていますね」

「大気の関係で、ここ三十日間、あんなふうに歪んで見えるの。この砂漠だけの現象らしいわ。私達は、この月が歪む季節を、『長月』と呼んでいるの」

「美しい響きですね」


 ジェーンが微笑と共に褒めてくれたのを、ミルファは新鮮な気持ちで聞いていた。自分たちが、当たり前のように使っている言葉を、美しいかどうかなんて観点で考えたことはなかった。

 ――長月の季節に、砂漠渡り達は聖地を目指す。幼い頃から聞かされてきた言い伝えを、ミルファは心の中で暗唱する。初めて、この一文が、詩のようだと感じられた。








































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