第3話 瀬奈

 太田に送ってもらって、やってきた準は真っ直ぐに廊下の瀬奈の部屋の前の皮張りのソファへ歩いて行き、ソファにぐったりと体を投げ出した。

「だいぶお疲れのようですね。大丈夫ですか?」

準は壁に貼ってある瀬奈の写真を食い入るように見つめている。準は重症だ。

「ここのところ、毎日終電だから……。そのうち、過労死するんじゃないかと思っちゃうよ。瀬奈に会えるのだけが楽しみで。瀬奈には彼女なんかよりずっと癒されるよ」

「もしかして、それを彼女さんに?」

「そうなんだよ、言ったらさ、電話も出てくれなくなっちゃって……。相手はウサギなのにね。でも、もういいんだ。瀬奈がいるから」

準はあと一歩。準に対してはなんとも感じない。

「瀬奈は人気がありますから。同じことを言う人が結構いますよ」

「ほんと?」

準の顔が泣きそうになる。

「僕はこの後、また会社に戻って仕事なんだよ。こんなに不規則では、とても瀬奈を引き取ることは出来ない……」

「そういう方のために、このお店はあるのです。仕事の途中でも、会社に行く前でも、いつでも予約を取って、瀬奈に会いに来てあげてくださいね」

「瀬奈は僕が来ると、鼻をつんつんして、手を舐めてくるんだよね。他の人にも同じことをするのかな」

「お客様のいる部屋を覗くことはしませんし、瀬奈が個体識別しているかどうかは私にはわかりません」

わざと突き放すように答えると、明らかにがっかりしたように準は肩を落とした。わかりやすい。

「でも、自分から近寄ってきて、舐めてくるようであれば、それは準さんに懐いているということではないでしょうか」

準の顔がぱっと輝く。

「やっぱりそうだよね? ウサギの愛情表現というのを調べたら、そう書いてあった!」

「準さんは瀬奈に愛されているようですね」

準は満足そうに頷いた。


 瀬奈の部屋のドアが開き、黒い瀬奈を抱いた細っそりとした女性が出てきた。さっきまでぐったりしていた準が、ぱっと立ち上がった。止める間もなく、走り寄り女性から瀬奈を奪い、頬ずりしている。

「瀬奈逢いたかった……」

女性が何か言おうとする前に、

「申し訳ございません。お支払いはこちらです」

と廊下から連れ出し、会計場所まで誘導した。準の姿が見えなくなると、女性は文句を言った。

「何なの、今の子?」

「瀬奈に恋い焦がれているお客様でして、大変失礼いたしました。次回は別のうさぎになさいますか?」

否定的な言葉が出そうな気配がしたため、無料チケットを差し出した。

「心愛様だけ特別に。来月限定の無料券を差し上げます。よろしければ、次回またお越しください」

「ふぅん、忙しいいから来れるかどうかわからないけど、取りあえず貰っておく」

心愛はチケットを突き返すことなく、バッグにしまった。これで来月の来店は確実だ。心愛は今人気が出始めている女優で、影響力も大きい。準は芸能人が目の前にいても気づかなかったほど、瀬奈しか見ていなかった。そもそも忙しすぎて、人気女優の顔を知らないのかもしれないが……。


「それにしても、このお店、変わっている。どこにあるのかわからないなんて」

「誰でも来ることができるお店なんて、詰まらなくありませんか? 当店は心愛様のように選ばれたお客様しか来店出来ないのです。そういうわけですので心愛様、帰りも行きと同じように、目隠しをお願いいたします」

「まぁ、普通の動物カフェと違って、セレブ感があるわよね」

「有難うございます」

来店時に電源を切り預かったスマホと一緒にすっぽりかぶる目隠しを手渡す。もちろん、送迎前にロケーション履歴はオフにしてもらう。

選ばれたお客というところが効いたのか心愛は素直に目隠しをした。

「心愛様、お帰りです」


 嫌な予感がしたので、心愛を送迎専門の店員にまかせると、すぐに廊下に戻った。準が顔から血を流して廊下に立っている。

「準さん! いかがなさいました?」

「瀬奈に噛まれた……」

「大丈夫ですか。傷を見せて下さい! 酷いようなら病院へ行きましょう。まずは瀬奈をこちらへ、すぐに手当てをしますから」

「大丈夫。瀬奈はさっきの人から、きっと嫌な目に合わされたから、興奮して、間違って僕を噛んでしまったんだ。瀬奈、もう大丈夫だよ。僕がそばにいるよ」

「準さん、瀬奈に血が付きます。いったん、消毒しましょう」

瀬奈に血が付くと聞くと、準は大人しく瀬奈を渡してきた。瀬奈を彼女がリラックスできる匂いのついたケージにいったん収めてから、準の鼻の手当てをする。幸い甘噛みだったようで、消毒してバンドエイドを貼るだけで済みそうだ。わざと鼻にばってん印にバンドエイドを貼ってやったが、気にしていないのか、気づいていないのか……。


 瀬奈が落ち着いたのを見計らって、瀬奈の香りを人間には嗅ぎ取れないほど薄めた、瀬奈の部屋へ準を案内した。瀬奈は気分屋だから、触られたくないときに無理に触ると噛む。準はいつまでたってもそれがわからない。きっと周りの人間に対しても、同じように振る舞うのではないか、と思ってしまう。

「瀬奈、驚かせちゃったかな、ごめんよ。もう、あんな目には合わせないから。僕の黒い天使」

ドアを閉めるときに、準が瀬奈に語りかける声が聞こえた。

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