第4話 死への不安について


 家の中の状況は日に日に悪くなった。

 トイレの始末をしてくれないから、匂いがひどい。

 ごはんの量も足りていない。私は食事にありつけない日もあった。


 私は部屋の隅でうずくまって過ごすことが増えた。力が湧かなかったのだ。

 体も汚いし、部屋も臭うし、とにかく不快だった。


 ある日、悪徳ブリーダーは姿を消した。

 私たちは部屋の中に閉じ込められた。

 ごはんと水が出なくなった。

 暑かった。


 漠然と、「このまま放っておかれるのではないか?」という予感が胸をよぎる。


 放っておかれると、当然、みんな飢えて死んでしまう。


 なんという悲惨な事態だ。


「クゥン」


 ──こんな弱った状態では、なかなか頭もはたらかない。ただ、死について考えるようになっていた。


 誰もが迎える死。

 自分だけのものであり、絶対に確実に訪れるものである。


 この死というものを自覚した時、人間は真に生きるということができるのだという。

 

 人間には本来的に、死への不安が備わっているが、普段はこれを隠蔽して暮らしている。常日頃、死に怯えて過ごすということはない。


 この、不安を隠蔽する態度を除いて、死そのものを見つめること──自分自身に固有なものである死を自覚することで、人間は本来的な存在性を獲得できる。

 自分自身の存在を確固としたものにできるし、ともすれば、よりよく生きようとすることにも繋がる。


 さて、今の私には、現実的に切迫した問題として、死への恐怖がある。


 尋常でなくお腹が空いているし、動くのが億劫だし、頭がクラクラする。呼吸が浅く、舌はだらりと垂れ、喉が渇いている。周囲も清潔ではないから、病気にかかるかもしれない。


 こういう時、自分の存在だとか、よりよく生きようだとか、そんな思考ができるものだろうか?


 答えは──そうしようとすれば、可能である。


 尊厳ある人間として最後まで生きようという姿勢は、やろうと思えば維持できる。だが、実際それをやるかどうかには、個体差があるようだ。


 これにはまず、他の犬が果たして人間かどうかという問題が絡んでくる。これはもちろんイヌがヒトかどうかなどという愚問ではない。犬が考えるものとして実存するかどうかという問いだ。

 だがこれは証明不可能なことであるような気がしてきたので、ここでは仮に人間であるという前提でもって話を進めようと思う。


 私には仲の良いきょうだいが二匹いる。私よりも少し先輩の犬と、私と同じ時期に生まれた末っ子の犬だ。


 先輩犬は、かなり気丈なたちの犬らしかった。私よりもいくらか元気である。それは、私よりも大きくて体が丈夫だからという面もあるだろうが、性格的な面も大きいと私は見ている。


 先輩犬は生命力が強い。生きようという意志が未だに衰えていない。現状を嘆いてはいるが、どういうわけだかまだ希望を捨ててはいないのだ。よく周囲を嗅ぎ回っており、食べ物を探し当てることがある。


 対照的に末っ子犬は、気弱なたちのようだった。もうだめだということを分かっていて、特に動こうとしない。床に突っ伏して、虚ろな目をしている。私が励ましに行っても、無気力に鼻を鳴らすだけである。


 私はというと、希望を持ち続けようとは思うものの、なかなかうまくいかないでいる。ひとまず、眠って過ごすことで、なるべく体力を温存しようと思っている。やはり、よりよく生きたいとどこかで思っている。

 どうせ死ぬのになぜそんなことをするのか、と言われると少々困る。だが、最後まで尊厳のある存在でありたいと思うのは、犬としても自然なことだと思うのだ。

 ……これも、死というものが自分自身に固有のものだという事実と、関連しているのだろうか。自分だけのものだから、大切にしたいのだ。


 そんなことをモヤモヤと考えていると、ガタンと大きくて不吉な音がした。

 複数の知らない人の匂いが漂ってくる。私は警戒して、全身の毛を逆立てた。


 知らない人たちが、ドタドタと廊下を歩いてこちらへやってくる。バーンッと部屋のドアが開けられて、サモエドたちはこぞってパニックに陥った。もちろん私もだ。おとなの犬たちに守ってもらうようにして、部屋の隅まで避難する。


 そこで改めて落ち着いて見てみると、知らない人たちは、そろいの制服のようなものを着ていた。

 私はウーッと小さく呻いた。


 飢えて死ぬよりはましな死に方ができそうだが、いずれにせよろくなものではない。


 彼らは保健所の人間であった。


 私たちはなすすべもなく捕獲され、檻に入れられ、トラックに積まれて、ユラユラガタゴト運ばれていった。荷台はとても暑くて、私たちはみな舌を出していた。


 こうして着いた先で、私たちの奇妙な生活が始まった。


 きょうだいたちは別々の檻に入れられた。番号のついたフダが檻の前につけられた。水とエサが定期的に出た。けもの臭い場所だったが、悪徳ブリーダーの家よりはぐっと清潔だった。


 そして、似た境遇の犬たちが、定期的に姿を消すのだった。


 檻は古くからいたものから順番になっている。自分のとなりのものが出て行ったら、次は自分の番だという死刑宣告になるのだった。

 なんとも恐ろしい場所だった。


 はじめは状況が理解できていなかった新参者の犬たちも、すぐに何が行われているのかを悟った。


 それからは、保健所の中の空気は、異様なものとなっていった。

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