第21話 言葉を逆読みすることによる効果

 これはどういうことかと申しますと、要は、同じ言葉であっても、別の解釈ができるということ。逆に、同じ事実であっても、別の表現ができるということでもあるというのが、ここでの主眼であるということです。

 すでにみのりん小説の感想で、とある文芸部の先輩少女が指摘したことをみのりんが話していた、その言葉をそのように処置して以前の回で述べておりますけれども、まあ、そういうことです。というか、それだけじゃなく、この章の随所でそれを駆使しているだろうと言われれば、まったく、そのとおりねんけどな(わっはっは)。

 それを改めて、ここで示してみましょう。


「描写がありきたりだ」→「ありきたりであれどもすでに文字で表現できている」

~そもそも、小説で何かを表現できない人のほうが大多数であろう。

「どこかで見たような話だ」→「読書をした成果がその作品に表れている」

~きちんと模倣して何かを作り出そうという姿勢はすでに備わっている。

「ありきたりなキャラクターだ」→「キャラクターを動かすことはできている」

=ただし、キャラクターを「立てる」ことがまだ不十分で工夫が必要。

「自己の経験が反映されていない」→「経験にとらわれない文章が書けている」

=それは読書の成果であると言える!

「頭でっかちの作品だ」→「並の読書レベルで表現できる作品ではない!」

~並の人間はせいぜい、テメエの経験したことや周りの連中がどうだこうだ、というレベルのことしか言えないし、まあ、書けんわな。


 ここで引合いに出すのは非常に申し訳ないとは思うが、お許しを。

 元暴走族の予備校講師として一世を風靡した吉野敬介氏の授業は、いわゆる「雑談」が一つの売りになっていたとのことだが、その内容には、かつての仲間たちの話がかなりの割合を占めていたという。

 まあ、そういうのって、「うちわ受け」のノリで、面白く聞けるものなのよね。実際にその通りのことを吉野青年が経験したのか、話を面白おかしく誇張しているのか、そこはわからない。だが、吉野氏の経験をベースにしたその「雑談」が、当時の大学受験生の心をつかんでいたことは、確かです。

 ただ、そういう「雑談」とやらを気に入らないという受講生も一定数いたことは、言うまでもないよ。~予備校は、勉強するところだからね。


 それからもう一つ、例えを。

 「巌(がん?)ちゃん日記」という、司法試験受験生で元漫画家(実際賞もとって連載も一時もったこともあるが、途中で廃業されたらしい)の方が描かれた漫画が、かつてとある司法試験予備校の出版する受験雑誌で掲載されていました。

 これは司法試験受験生の仲間の皆さんをモデルにした、1990年代の司法試験受験生の日常を描いたものでした。以前ネットサーフィンで調べていたら、その作家の方は後に司法試験に合格して、現在は弁護士をされているようです。ちなみにこの方には弟さんがいて、その方は兄である「巌ちゃん」氏が受験生をされていた頃、既に司法試験に合格されていたとか。で、「合格者弟」として、モデルで描かれてもいます。

 この「巌ちゃん」氏の描く漫画、当時司法試験を受験していた人やその周辺の人には、面白がって読まれたようですが(実際単行本も出ていた)、そういう世界を知らない人には、一体全体何だろう、って感じに、なるわな。

 この漫画も、基本的には受験生の皆さん、少なくともその受験雑誌を読む人たちには好意的に迎えられていたが、そんな漫画など掲載するスペースがあるのなら、もっとちゃんとした受験情報をよこせ、と、批判的な声をあげていた人もおられたことは、言うまでもないです(実際、読者の声として掲載されていた)。


 暴走族上がりで予備校の古文講師。

 1990年当時の司法試験受験生と漫画。

 確かにこの組合わせ、今思っても、どちらも、インパクトあるよな・・・。


 吉野講師の授業内の「雑談」、巌ちゃん氏の漫画作品「巌ちゃん日記」、こういった、消費者たる受講生や読者、まあ一言で言って、「受験生」にとっては異世界のような、あるいは同一の世界だけどそこにはいない者にとってはやっぱり一つの「異世界」を、自らの経験に基づいて表現された「作品(あえて言う)」というのは、確かに、受け手の身体経験に訴える何かを持っていることを示す好例と言えましょう。


 そこに来て、みのりん小説。「頭でっかち」と言われたということは、その「身体経験」に訴えることができていないこともさることながら、せっかくの「異世界」へのいざないの訴求力が、一定以上本を、特に小説をはじめとした物語を読んできた先輩少女のような子には、ほとんど感じられず、また、主人公にも感情移入できない、そんな気にさせられたのでしょうな。

 

 まあそのね、相手がどんなことを言おうがほざこうがのたまおうが、その言葉の表面ばかりを見ていては、駄目ということです。要は、ね。


 裏を返せば、・・・、つまり、~ ということです。


 そうした形で別の表現をすることができるのが、言葉というものの特性のひとつ。

 そう考えていくと、我らのみのりんには文章力の基礎はすでにできていると言えますし、小説を書く素養も、私から見れば十分にあると言えます(親馬鹿もかなり混じっているけどさ)。

 でなければ、まなつ君のような「熱烈読者」は出ませんよ、ってこと。


 相手の言葉の真意を、あるいは、その言葉から見える自分自身(もしくは対象となる人やモノなども含む)を分析するには、このように言葉の裏読みという手法が大いに有効であると言えましょうね。

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