有明のプロメーテウス

水色鉛筆

第一章 ハーデンベルギア

第1話 黒い海

・I・


 生温い風が少女の髪を撫でる。


 風は夕暮れの港町を越えて、夜の匂いを黒海へと運ぶ。


 セレイラは寂れた廃屋の屋根に腰掛け、懐から小さな望遠鏡を取り出した。

「そろそろ潮時か」

 数キロ先、埠頭に繋がれた黒い帆船が接眼レンズに映る。『任務』は終わった。彼女に残された務めは、一刻もはやく母国レックランド王国に戻ることだけだった。


 セレイラは立ち上がり、大きく伸びをした。手にした酒瓶の液体を口に流し込む。

「——っ!」

 喉がカッと熱くなり、幾千の刺のような刺激が口の中をさす。やがて、追憶のようなかすかな甘さと共に、アルコールが体の隅々にまで行き渡るのを感じた。セレイラは目尻に浮かんだ涙を拭った。いくら飲み慣れているとはいえ、十六歳の体にスピリタスの原液は刺激が強すぎる。それでもセレイラには、どうしても飲まねばならない理由があった。





「おーい」

 誰かの声が聞こえ、彼女は振り返った。廃屋の下、石畳の上に二人の男の姿があった。

「今行きます」

 彼女は男の正体に気づき、とびきり明るい声で返事した。そして物影に隠れ、数秒のうちに変装用のワンピースに早着替えした。念のために、貴重品が詰まったアタッシュケースを煙突の中に隠すことも忘れなかった。


「ごめんなさい、お待たせしてしまって」

「構わんよ。ところで君、そんなとこで何をしている」

 目の前の憲兵は、二人ともマスケット銃を背負っていた。それだけでない。腰元のベルトには予備と思われるリボルバー式の拳銃が提げられている。


(……こりゃ何かあったな)

 六発の弾が詰まった弾倉マガジンに目をやり、彼女は他人事のようにそう思うのだった。


「港を眺めておりましたの。ほら、今日は夕陽がきれいでしょう?」

 セレイラは愛想のいい笑みを浮かべて言った。憲兵の一人が腕を組んだ。

「そうか……ならいいんだが」

「貴方たちこそ、どうされたのですか?私に何か御用?」

 背の高い方の憲兵が後ろから答えた。

「いやなに、気になっただけさ。こんな人気のないところで、どうしたんだろうってな」


 余計なお世話だ。セレイラはそう言いかけて口をつぐんだ。

「そう呆れた顔をしてくれるなよ、お嬢さん。これも仕事だからな。最近、ここらじゃ物騒な噂が流れているって話じゃないか」

 男の声に合わせ、小太りの憲兵は首が外れそうなほど大きく頷いた。

「そうそう。なんでも、黒いフードを被った怪しいのがセヴァストーポリを徘徊しているんだとか何とか。男か女かは分からねえんだとよ」

「お嬢さんも、くれぐれも気を付けろよ。夜は出歩かないほうが身のためだぜ」


 憲兵たちはセレイラの前を通り過ぎた。

 小太りな男は去り際に、

「ちなみにそいつは綺麗な銀色の髪をしているそうだ。見かけたら俺たちに教えてくれ」

そう言い残していった。





 二人の姿が見えなくなると、セレイラは元いた屋上に蝶のように飛び上がった。大急ぎで散らかった屋根を片付ける。もたもたしている暇はない。

「やれやれ、この仕事も楽じゃないな」

 彼女はそうひとりごちて、ドレスのスカートのひだから右手を抜いた。


 手のひらには、たった今得たばかりのが握られていた。


 空が薄青くなってきた。セヴァストーポリの夜は遅い。暗くなるのを待っていては、目当ての船に乗り遅れてしまう。セレイラは動きやすい服装に着替えると、目を閉じて呼吸だけに意識を向けた。

 しばらくすると、誰にも聞こえないようにそっと呟いた。



「……よし。




・II・


 セレイラは人気のない路地を西へ走っていた。整備された街道が一番の近道だが、今はそれどころではなかった。彼女は懐中時計の上蓋を開くと、走りながらため息をついた。


 追ってくるはずのない憲兵から逃げ続けて、すでに二十分。市街を東西に貫く街道の真ん中で、彼女は憲兵に取り囲まれた。いつどこで顔が割れたのか、彼女には知る由もなかった。確かなのは、もはやこの町に安全地帯などないということだけだった。

「——あそこの通りに逃げたぞ!探せ!」

 民家を挟んだ大通りから、男たちの声が聞こえる。セレイラは舌打ちして、目の前に現れた分岐路を右に曲がった。


 ぞっとするような冷気とともに、月明かりが半分になった。コートの肩に最初の雨粒が落ちてからものの数秒で、あたりには雨の匂いが漂っていた。

「こっちは一人殺されてんだ。絶対に逃すんじゃねえぞ!」

 バシャバシャと慌ただしい音を立てながら、憲兵たちが追ってくる。足音から察するに、三十人は下らない。雨は姿を隠すのにうってつけだ。しかし同時に、忍び寄る危険を見落とす確率も高くなる。

 崩れたレンガの山をよけ、無造作に積まれた木箱を飛び越えた時だった。


 得体の知れない大きな力が、彼女の脇腹をどついた。


 セレイラは重力がほぼ二倍になるのを感じながら、背中から地面に衝突した。重金属が擦れ合うような鈍い音がして、頭に星が散った。体が軽くなり、自分が何者かに組み伏せられていたのだと悟る。


「……誰だ」


 彼女は路地に転がったアタッシュケースを拾い上げ、後生大事に抱えた。しかし、そのわずかな隙に、相手はそそくさと立ち上がっていた。


「凄腕のスパイがいるって話、本当だったのね」

 頭上から聞こえてきたのは、どう贔屓目に見ても大人とは思えない女の声だった。起き上がろうとするセレイラの手の甲を、黒い小さなブーツが踏んづける。


「だめ。観念しなさい、


 背中の神経が凍りつくのを感じた。


 ——こいつは誰だ?

 ——憲兵の回し者か?

 ——それとも懸賞金目当てのスリか何かか?

 ——いや、だとしたらどうして、私の名前など知っている?


 一秒ほどの間に、そのようなことが脳裏に湧いてきた。


 セレイラは深呼吸をすると、ブーツを跳ね除けて立ち上がった。憲兵たちは足音とともに遠ざかってゆくようだ。このまま雨が止まなければ、見つかるまで数分の時間稼ぎにはなる。彼女はそう結論づけ、逃走の邪魔をする不埒物を睨んだ。


 小さなな少女だった。セレイラとて小柄な方だが、少女は子供とほとんど見分けがつかないぐらいの背丈だ。ふさふさした柔らかそうな髪に、きめ細やかな肌。背中には、幅広の大きな木箱を背負っている。こんな小娘に邪魔だてされたと思うと、無性に腹が立つ。


「そこをどきな」


 セレイラは朗々とした声で言った。少女は微動だにしない。それどころか、口元にはあざけるような薄ら笑いを浮かべている。

「どいたらどうするつもり?」

 少女は挑発するように言った。


 轟音が響いた。


 白煙が狭い路地に充満した。

 銃声は幾重にもこだまし、やがて残響となって消える。


「オデッサ行きの石炭船。逃げるのさ」

 煙を上げる銃口を少女に向けたまま、セレイラは自分い言い聞かせるように答えた。


「ふーん」

 誰もいないはずの空間から声が聞こえ、彼女はぎょっとした。

 肩越しに振り返ると、額に穴が開いて死んだはずの少女が立っていた。セレイラが目を見開くと、少女はこの状況には不釣り合いなほど無邪気に笑った。


 そして、挑みかかるように言った。

「オデッサには帰さないよ。わたしを倒さない限りはね」


 彼女の言葉が脳に届くよりも早く、セレイラは引き金を絞った。今度は立て続けに二発、少女の眉間と心臓に至近距離だ。

 だが、弾は二発とも当たらなかった。少女は風のように身を躱すと、目にも止まらぬ速さで腰にさした短剣を抜いた。

 雪のように白い髪が、スローモーションさながらにふわりと浮き上がった。

 セレイラは爪先で地面を蹴り、少女から逃れるように飛び出した。


 短剣の切っ先がコートの裾をかすめた。


 先ほどまでの倍の速さで駆けながら、セレイラは混乱した頭を必死に整理していた。あの子供が何者かなど、今はどうでもいい。兎にも角にも、セヴァストーポリの西端にある埠頭までたどり着き、『オデッサ行きの石炭船』に乗り込む。残された時間は一時間だ。


 セレイラの後ろを、白髪の少女が猛追する。

 逃げ道は障害物だらけで、わずかな油断が命取りだ。路地裏には、騒ぎにつられた野次馬たちが群れをなしていた。彼女はそれを飛び越え、ひと息で家々の屋根に躍り出た。


 屋根の上からは、市内の様子が一目で見て取れる。憲兵たちは二手に分かれてセレイラを捜索している。埠頭までは目測で五キロ。彼女が本気で走れば十分とかからない距離だが、今は状況が悪すぎる。


 少女は追撃の手を一向に緩めない。短剣を両手に構えたまま、常人ではあり得ないような速度で迫ってくる。訓練された傭兵のような身体能力だった。

「見つけたぞ!」

 左後方から男の声が飛んだ。憲兵の分隊が、口々に罵声を浴びせてくる。道ゆく人々も異変に気づいたのか、方々でどよめきが起こっている。


 民家の列が途切れ、セレイラは十字路に向かって身を飛び込ませた。空中で身を翻しながら、ピストルの残弾を一掃する。鉄の弾頭は、三人の憲兵の眉間に命中した。十字路の反対側の時計台に音もなく降り立つと、悲鳴にも似た声が上がった。

 セレイラはしばらくすると、少女が追ってこないことに気づいた。さしもの彼女も、馬車五台が並んで通れるほどの大通りは飛び越えられなかったようだ。憲兵たちの姿も後ろへ遠ざかり、彼女は空になったピストルをホルスターに仕舞った。


 足元から伝わる不穏な振動が、セレイラを夢心地から引き剥がした。彼女は今いる屋根が、瓦のほとんど剥がれたボロ屋であることに気づいた。

 が、もう手遅れだった。


(崩れる——!)


 腐りかけた木材の砕ける音がして、彼女の立つ空間だけが歪んだように思えた。次の瞬間、寄棟の屋根が、その下の梁もろとも陥没した。

 足元に現れた巨大な空洞に、セレイラはなすすべもなく吸い込まれていった。

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