堕ちた神父と血の接吻 ― Die Geschichte des Vampirs ―

譚月遊生季

第一章 彷徨の秋

第1話 我が主よ

※あらすじ欄の注意書きをご一読ください



 嗚呼、主よ。

 どうか、私をお赦しください。


 血に濡れた私を。

 罪を犯した私を。

 貴方を疑う私を──




 窓の隙間から差し込む月明かりが、惨劇の跡をまざまざと照らし出す。傭兵らしき男の流した血が、散らばった臓腑ぞうふが、床に赤黒い染みを描いている。

 むせ返るような血臭はどこか心地よく、苛立ちと吐き気が止まらない。


「神は絶対です」


 私は吐き捨てるように、どうにか言葉を絞り出した。


「そして、私にはまだ神罰が下っていない」


 つかつかとテーブルに歩み寄り、赤い液体で満たされたグラスを手に取る。


「……つまり」


 心の中に浮かんだ躊躇いを振り切り、一息にグラスの中身をあおった。果てしなく続く苦難の道のりと、終わることのない悪夢から、目を逸らすように。


「私はまだ、ゆるされています」


 自らに言い聞かせるよう、言葉を紡ぐ。

 闇の底に堕ちそうな心を繋ぎ止めるように、騒ぐ心を紛らわせるように、言葉を連ねる。


「おっと、祈りを忘れていましたね。これは失敬。ああ、いえ、銃を向けられたせいではありませんよ。食事の時間を邪魔されたことも関係ありません。決して。……ただ、祈って差し上げることには感謝してもらいたいものですね」


 死体を踏みつけ足で転がしつつ、私は十字を切り、胸の前で指を組んだ。

 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。

 溢れ出しそうな感情を懸命に押さえ付け、祈りを捧げる。

 闇の向こうから、私を見つめる視線がある。こんなにも汚れた私を、真っ直ぐに見つめる視線。慈しむような、愛おしむような、熱情のこもった……

 ……そんな目で見るな。私は、おまえに愛されるべき存在ではないのだから。


「おい、貴様。何をしている、早く片付けろ」


 思わず語気が荒くなる。……ひそめられた眉に、胸が痛んだ。

 ヴィル。私は決して、おまえが憎いわけではない。けれど、おまえは今日も私のために手を汚した。……いいや、私が汚させた。

 本当ならば、おまえは罪を悔い、贖罪の道へ進んでいたはずだというのに、だ。


「神よ、今日も私を守ってくださり感謝します」


 私の言葉に、ヴィルは耐えかねたように叫んだ。


「いやいやいや、今日も昨日も、何なら一週間前も刺客からまもったのはオレぇ!! オレにも感謝してよ、神父様ぁ」


 地面に座ったまま、ヴィルは私の方に手を伸ばしてくる。節くれだった、生傷だらけの、たくましい手……。

 やめろ。その手で触るな。


「触るな、汚れがうつる」


 私は、汚れている。


「うわ、ひっでぇ!」


 ヴィルは地面に座ったまま、肩をすくめて返す。

 茶色の澄んだ瞳で見上げられ、胸がかきむしられる思いだった。


「感謝っつっても、そこのパン投げ捨てるくらいで良いんで! あ、でも、出来たら齧りかけのがイイですねぇ」

「……ケダモノが」

「いやマジでお願いします腹ペコで死にそうなんですってこの通り!! 靴も全然舐めますから!!」


 座って食べろ、と何度も言ったというのに、彼は毎回慣れないからと床で食事をる。……そのたびに、どれほど過酷な環境で生きてきたのか、身につまされる。


 だが、テーブルマナーを覚えるに越したことはないし、いつまでもこんな生活を続けさせるわけにもいくまい。……いつまでも、私の犠牲にするわけにはいかないのだ。

 とはいえ、今は問答をする気力もない。ずっとひれ伏させているわけにもいかず、テーブルのパンを投げ渡す。


「恵んでやる。これも神のご慈悲だ」

「ええー、神父様のご慈悲じゃねぇのかぁ……」


 私の言葉にがくりと肩を落とし、ヴィルは渋々といった様子でパンに齧り付いた。

 短く切り揃えられた亜麻色の髪。大きな傷のある精悍せいかんな顔立ち……。

 赤黒い舌が、かさついた唇の隙間からちらりと覗く。ぞくりと背筋に悪寒が走り、身体に刻まれた痛みと恥辱が、


 ヴィル。災禍さいかに見舞われた私に手を差し伸べたのは、おまえだけだった。

 ……どれほど祈りを捧げても、どれほど清廉であろうとしても、私に与えられたのは筆舌に尽くしがたい汚辱と苦難であり、絶望だった。


 嗚呼、主よ。どうか、お赦しを。

 私は、貴方の愛ではなく、彼の与える愛に……この、あまりにも罪深い関係に、縋りつこうとしています。


「神様にゃ勝てねぇのかなぁ……」


 その呟きを、反射的に否定した。


「張り合うな。地獄に堕ちろ」

「ええ~?」


 ヴィルは不満げに口を尖らせるが、この感情を認めるわけにはいかない。

 これ以上心が荒れる前に、死体とヴィルに背を向け、礼拝堂の方へ足を向けた。


 扉を閉めた途端、がたがたと身体が震え出す。

 口元を押さえ、こみ上げて来た吐き気を堪える。

 以前は耐えきれず吐いてしまったが、もう、あのような無様を晒すわけにはいかない。


 マッチに火をつけながら、乱れた息を整える。

 燭台の蝋燭に火を灯し、ふらふらと欠けた十字架に歩み寄った。


 心が乱されぬよう、ヴィルの立ち入りは禁じてある。

 祈らねばなるまい。懺悔せねばなるまい。

 赦しを、乞わねばなるまい……。


「……我がMein主よGott……」


 ……もし、貴方が天におわすのならば。真実に、私を見守ってくださっていると言うのなら。

 罰を、与えてください。

 貴方の存在を疑う心に、罪を犯した身体に、どうか──

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