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 彼女は立ち止まり、はたと私を見返してきた。「じゃあ最初に来た場所に戻ってきただけってこと? 私が勘違いだとか、余計なこと言ったから――」

「それは違うよ。あのとき聞こえてたのは、この機械の音だけだったもん。ずっと一緒に冒険して、今になってやっと、探し物が現れたんだよ」

「――ほんと?」

「もちろん。小紅と一緒じゃなかったら、ここまで来られなかった」

 彼女は小さく、ややあって強く顔を上下させてから、「どうしてここが時計塔のなかだって分かったの?」

「〈蒐集家〉のお屋敷で模型を見たでしょ? あれと同じだもん」

 時計ばかりを集めた部屋にあったものだ。あまりの精巧さに私は驚き、半ば無意識のうちに細部まで観察していたらしい。その記憶がいま、鮮明に甦ってきたのである。

「このまま上れば、屋上に出られるはず。そこにあるんだよ、私の時計」

 小紅は私の手を強く握って、「今度こそ、見つけられるね」

「絶対。一緒に見つけよう」

 扉が眼前に迫った。私たちは息を合わせて、それを押し開けた。屋上へと歩み出すのと同時に、大気が身を包むのを感じた。風が起き、前髪を揺らす。

 私たちは同時に顔をあげた。足を止め、ぽかんと唇を開いた。

「嘘――なにあれ」

 久方ぶりに目にした〈金魚辻の市〉――その上空に、巨大な影が浮遊していた。

 形状としては円盤、あるいは風船にも近いが、一見した印象は明確に生物である。全体にぶよぶよと柔らかそうで、表層には毛細血管を思わせる紋様が見て取れる。単なる光の具合なのか、あるいは実際に色を変えているのか、氷のように蒼白い箇所と、燃え盛るように赤い箇所とが混在し、波打つように入れ替わっている。

 胴体なのかも頭なのかも判然としないその部位から、彗星の尾のように長々と伸びているのは、おそらく触手だろう。揺れたり靡いたり、絡まったり解けたり――演舞めいた動きに呼応するように、本体もまたふわふわと上下している。

「鬼水母だ」小紅が首を逸らせたまま、ぽつりと発する。「初めて見た」

「なんなの? 怪獣?」

「人間の言葉で説明するなら、確かに怪獣かもしれない。私も大昔、写本で読んだだけだからよくは知らないんだけど。冬の白魔、夏の鬼水母って言うくらいで、有名らしい」

「なんでそんなのが、ここにいるの?」

「分からない。誰かが卵を持ち込んで、ここで孵した? ありえないと思うけど――」

 今のところ鬼水母は、立ち並んだ屋根に影を落としながら、漫然と漂っているばかりである。まだ眠ってでもいるのか、あるいはなにかの機会を伺っているのか。外側から観察するだけでは、ほとんどなにも分からない。

「更紗、小紅」と下方から大声で呼びかけられた。「下りておいで。遠くへ逃げるんだ」

 柵の隙間から見下ろした。黒っぽい着物に、側頭部に張りつけた狐面。〈金魚辻の市〉の主たる八重さんである。

「八重、あいつはなんなの?」と小紅。「いつどうやって現れたわけ?」

 彼女はこちらに向けて大きく手を振りながら、また声を張って、

「私にも分からない。気が付いたらいきなりだ。お前たちはひとまず、どこかへ避難するんだ。らふ――〈らふらん〉か。更紗の時計は? 見つかったの?」

 小紅がぱっと私を振り返り、「そうだ。時計の音は?」

 促され、私は再び聴覚に意識を向けた。小さく規則的な響きが、すぐさま耳に飛び込んでくる。なにかの勘違いであってほしかったが、その出処は明白だった。

「鬼水母から聞こえる」

 数秒後、小紅が目を剥きながら、「嘘でしょ」

「更紗、小紅! すぐ下りてきな」

 八重さんらしからぬ、苛立たしげな大声が響いてくる。小紅は頭を突き出して、

「ちょっと待って、八重。更紗の時計、あいつが持ってるかもしれないの」

「――なんだって?」

「私たちにもよく分からないけど、とにかく取り返さなくちゃ」

「取り返すって、お前――」

 私も八重さんを覗き下ろしながら、腹部に力を込め、

「なにか考えます。少しだけ時間をください。私の――私たちの手で取り戻します。八重さんはどうか、他のお客さんの安全を守ってください」

 言うだけ言ってしまってから、私は小紅に視線を向けた。「で、いいよね」

「当然」と彼女の返答は迷いなかった。「作戦を決めよう」

 顔をあげると同時に、鬼水母の周囲をなにか小さな物体がいくつも飛び回っているのに気付いた。鳥かと思ったが、どうやらそうではないらしい。柵から身を乗り出すようにして見入った。

「あれ――」

 小紅が目を細め、「〈宵金魚〉だ。間違いない」

 赤や白の鮮やかな身を翻しながら、鬼水母のすぐ近くを舞っている。恐ろしくないはずはなかろうに、一匹たりともその場を離れようとしない。

「どういうつもりなんだろ」

 小紅は彼らを目で追いながら、「あいつが時計を持ってるって、たぶん気付いてるんだ。隙を見て奪い取ろうとしてるんだと思う」

「触手で打たれたりしたら、ただじゃ済まないはずなのに」

「金魚は身軽さに自信があるんだよ。私もあるし」

 私は小さく息を洩らした。こうも異様な状況にあってさえ調子を維持できるのは、彼女の美点だ。「隠し持ってるとしたらどこなのか、見当が付いてると思う?」

「たぶん、まだ。正確な位置を把握してるなら、何匹かで気を引いて、もう何匹かがこっそり懐に入り込むとか、そういう動きをする。今は様子見というか、情報集めの段階じゃないかな」

 もっともだ。「〈宵金魚〉たちをいったん、こっちに呼んでみない?」

「全員?」

「とりあえず。方針を定めてから、改めて動いてもらったほうがいいんじゃない?」

「分かった。全員集合ね」

 小紅の合図に応じて、〈宵金魚〉たちがすぐさま方向を転換した。こちらに泳ぎ寄ってくる。目で数えてみると十一匹いた。私たちの頭上あたりに固まって、指示待ちの姿勢を取っている。別れたときと変わらず元気そうなその様子に、私は安堵した。

「みんな、怪我はなさそうだね」

「うん。すぐにでもまた飛ばせる」

 鬼水母の側に目立った動きはない。ただゆったりと呼吸するように、同じ位置で浮き沈みを繰り返しているばかりである。

「やっぱり、追ってはこないね」

「図体が違いすぎるから、そこまで意に介してなかったのかも。あいつもこっちに呼びたかった?」

 私はふるふるとかぶりを振ったが、思いなおして、「でも、ある程度は近づく覚悟をしないと。鬼水母と同じくらいの高さの建物って、〈金魚辻〉だとここしかないよね?」

「そうだね。時計塔は市の象徴だから、いちばん背が高い」

 ふたりとも、とまた八重さんの声。「客たちはみんな避難させた。巴たち一族が先導してくれてる。地下の穴蔵だそうだ」

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