25

「ごめんね、狭いね」

「でも落ち着く。巴のところで酔って眠ったとき、悪い夢からいい夢に変わったって話をしたでしょう? いい夢って――更紗が出てきた夢だったんだよ」

 思いがけないその告白に、心臓が跳ね上がった。私は慎重に、

「どんな夢だった?」

「びいどろの玉に入った金魚の私を、更紗が家に連れ帰ってくれるの。私はすごく嬉しくて、思いっきり鰭を張って泳ぐ。そうやって遊んでるうちに眠くなってきて、底で居眠りする。眠っているあいだ、私は今の私になる夢を見てる。夢の世界でもいつの間にか更紗が隣にいて、私は自分はなんて幸せな金魚なんだろうって思ってる。そういう夢」

 幸せ、という言葉を本当に久方ぶりに聞いたような気がした。自分が幸せ者だと、最後に口に出して表明したのはいつだったろうと考えて、ひょっとすると〈らふらん〉の腕時計を手に入れたときまで遡らなければならないのではないか、と思い至った。小さな喜びや楽しみはむろん、それ以降にもいくつもあったはずなのに。

「まだ夢が続いてるんじゃないかって思う。こうやって一緒に冒険して、林檎のお菓子食べて、笑って――そういう全部が、こうだったらいいのにっていう、軒先に吊るされた金魚のままの私の夢なんじゃないかって」

「じゃあ私は幻?」

「知らない世界から急にやってきた人だから、幻みたいに思えることもある。更紗にとっての私もそうじゃない?」

 小さく頷いた。「そうかも」

「だけど、そうだとしても別にいい。今こうしてる私は幸せだって、精いっぱいの勇気を奮い起こして生きてるんだって言えるから。私にとって初めてのこと。なによりも価値があること」

 どう応じてよいものか咄嗟には判断できず、それでも胸の内に生じた熱をどうにかしたくて、私は小紅の肩に触れた。「その――ありがとう」

 彼女はなにも言わず、そっと身を寄せてきた。小さいけれど確かな感触。その温もり。

「小紅は――」少し迷ってから、私は囁き声で訊ねた。「どうして〈金魚辻の市〉に来たの?」

「探し物があったの。この姿になってから、ずっと探してた。本当に長いこと、必死で探し回ってた」

「私と会ったのは、その途中?」

「うん。でも、もういいんだ。どうしてそれを探してるのか、手に入れてどうしたいのか、自分でもよく分からなくなってたから。本当だよ。後悔なんか、なにもしてない」

 私は彼女の髪に指先で触れながら、ゆっくりと言葉を探した。

「じゃあ次は、小紅の探し物を一緒に探そう。またふたりで冒険しようよ。ね」

 自分では選び抜いた科白のつもりだったが、返事はなかった。小紅は眦にうっすらと涙を湛えたまま、小さく寝息を立てているばかりだった。

「いつも先に寝ちゃうんだから」

 なにを知っているわけでもないのに、私はつい、そう呟いた。ただ言ってみたかっただけなのかもしれない。頬を緩ませたまま、薄い毛布を引き上げる。

 枕に頭を下ろす前に、眠っている小紅を改めて見つめた。そっと顔を近づけ、額に一瞬だけ唇を当てる。

 おやすみ、と囁こうとしたが上手くいかず、私はそのまま彼女に背を向けて、布団の奥に潜り込んだ。もう眠れるわけがない、と半ば捨て鉢な気分で自分の心音を聞いていたが、やがて舞い戻ってきた疲労が意識に靄をかけた。瞼が落ちる。

 そのまま死んだように眠りこけた。はたと目を覚ますと、小紅はまだ傍らで横たわっていた。できるだけ静かに布団から抜け出し、窓を開けて外を確かめる。出航直後となにも変わることのない、黒々たる水面。

 何気なくかしらを巡らせて驚いた。船の前方に、暖色の灯りが無数に瞬いているのが目に入ったからである。赤や黄色が主体となっている点では〈宵金魚〉たちの生み出す光にも似ているが、こちらはより色味が深く、昏い。静かな熾火のような色だ。

「お目覚めですね」とどこからか九曜さんの声が響いてきた。「そろそろお声かけしようかと思っていました。いまご覧になっているのが、〈祭火隧道〉の入口です」

「あそこに、私の時計が?」

「詳細な事情は存じ上げません。おふたりを送り届けた時点で、僕の仕事は完了します。それ以上のことはいっさい、期待なさらないでください。むろん一族の者として、地の底からお祈りはしていますが」

 私は小さく笑い、「あとどの程度で到着しますか」

「二十分ほどで。お連れの方を起こされたほうがいいかもしれませんね」

 私は窓から離れ、小紅の横に屈みこんで体を軽く揺すった。ん、と短い声を洩らし、彼女は目を開けた。起き上がり、右手で額に触れる。次いで私に向き直りながら、

「おはよう。もう着いたの?」

「もうすぐ着くって。仕度しないと」

 睡眠中に着崩れてしまったのであろう着物を、小紅が寝ぼけ眼で整えているあいだ、私はそっぽを向いて荷物を確認するふりをしていた。やがて船がゆるゆると速度を落としはじめる。

「まもなくです。完全に停まったら、灯りの見える方向へと下りてください」

「お世話になりました。お父さんによろしく伝えてください」

「必ず。それと最後にひとつ、我儘を言ってもよろしいでしょうか」

 私は首を傾げつつ、「どんなことですか?」

「あの林檎のお菓子をもう一度、水に投げ入れてほしいのです。船賃を取らないとお約束した手前、たいへん申し訳ないのですが」

 小紅はくすくす笑いの発作に襲われたらしく、口許を掌で覆った。「あれ、美味しいよね」

「絶品です。八重さんの砂糖菓子に勝るとも劣らない」

「同感。私も気に入ってるから、一枚だけだよ」

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