不満もあるし後悔もある。だけど、それも悪くない。

 碓氷峠を走っていた信越本線は、実に明治時代に開通した路線であった。当時最大の生糸を長野県や群馬県から東京・横浜まで大量輸送することに貢献してきた路線だそうで、実に百四年にも渡って物資や乗客を運び続けたそうだ。


 廃線のきっかけは、七瀬さんの語った通り長野新幹線の開通によってだそうだ。


 横川駅に到着すると、当時のレールが遊歩道として残されていた。曰く、この遊歩道はアプトの道と呼ばれているそうだ。

 遊歩道の左手には、レールがあった。七瀬さん曰く、この線路にはまだトロッコが走っているらしい。


「よく調べているね」


 思わず思ったことを口にした。


「興味があったからね」


 七瀬さんは楽しそうに語っていた。

 遊歩道の道は、結構な急こう配になっていた。少し歩いただけで、重力に反しているせいで体がいつもより重く感じて、この後の長い道のりを思うと、とても気分が滅入った。


「おおっ」


 それでも成り行きでしばらく歩くと、右手にレンガ造りの建物が見えてきた。随分と歴史のありそうな建物だった。


「これは何?」


 俺は博識な七瀬さんに尋ねた。


「かつての変電所よ。明治時代の建物ね」


「へえ」


 そりゃあ凄い。

 これを見ただけでここに来た甲斐があった気がしてきていた。


「よし、後十二キロくらいね。頑張りましょう」


 ただ、距離を聞いて再び俺の気持ちは滅入った。


「それにしても、この急こう配はいつまで続くんだい。こんなのずっとは耐えられないよ」


 思わず弱音を吐いた。


「残念ながら、碓氷峠は片こう配な山であることで有名よ」


「と言うと?」


「軽井沢まで、ずっと登り道」


 俺は絶望した。軽はずみの行動は、今後は避けよう。


 ただまあ、晴れた日の廃線巡りは、左右の緑いっぱいの景色も相まって、中々新鮮な景色が広がっていた。盆地で暑い地元の気候に比べても、標高が高いからか幾分か暑さはマシだった。


 更に急こう配の道を昇って行くと、峠の湯という温泉施設に俺達は立ち寄った。日帰り温泉を楽しめる施設だそうだが、七瀬さんが温泉に興味がなかったせいで温泉に浸かることは叶わなかった。その代わり、そこで食べた釜飯はとても美味しくて、これだけでここに来た甲斐があった気がしてきていた。

 そう思うのが今日二度目であることに気付き、俺は頭を抱えた。順調に思考が偏りつつある。


「そろそろ見えるはずよ」


「何が?」


 荒れた息で、俺は尋ねた。


「トンネルよ。これからいくつかのトンネルをくぐるんだけど、そのトンネルが建てられたのが百十年くらい前なのよ」


「ほう。つまり、歴史的遺構なわけだね」


「そういうこと」


 そうして更にしばらく歩いて、眼前にトンネルを捉えた。

 トンネルをくぐってみると、中はレンガ造りになっていた。真夏な外と違って、気温も一気に低下した。


「すっげー」


 まあ確かに、この景色を見れただけでここに来れた甲斐が述べ三度目。


 トンネルをいくつかくぐると、これまたレンガ造りの橋が見えた。


「これは?」


「通称、めがね橋。日本最大のレンガ造りの橋よ。国指定重要文化財に指定されています」


「なるほどー」


 四つのアーチを架けたレンガ造りの橋の下を覗くと、国道を飛ばし屋らしき車が幾台か猛スピードで峠を攻めている様子が見て取れた。

 そういえば碓氷峠といえば、昔見ていた車のアニメで登場していたような気がするな。


「さ、そろそろ行きましょうか」


「うん」


 再び廃線巡りに戻ると、疲れこそ感じているものの、意外とこの旅を楽しんでいる自分の存在に気付かされた。


 寒いトンネルを通って、七瀬さん曰く旧熊ノ平駅に辿り着いた。


「ここは、線路の間に遊歩道があるんだね」


「そうね。線路は錆びているけれど、架線はしっかりと現存しているし、当時の姿が目に浮かぶような気がする」


 詩人染みたことを言う七瀬さんは、相変わらずいつもの彼女らしくなくて、俺は苦笑していた。


 旧熊ノ平駅を歩いて行くと、真正面に再びトンネルが見て取れた。


「ん?」


 しかし、俺は異変に気付いた。

 そのトンネルまでの道には、柵が掛かっていたのだ。さらには、遠くに望めるトンネルの前にも注意書きのされた看板が置かれている。


 あれではまるで、あそこは進入禁止とでも言っているようではないか。


「さ、国道に降りましょうか」


「えっ!?」


 七瀬さんの言葉に、俺は驚きの声を上げてしまった。本当にここから廃線巡りを止めるのかよ。


「あそこは立ち入り禁止だから。廃線ウォークって企画があると入れるようになるんだけど、あたし達はそんな企画に応募してきたわけじゃないからね」


「……なんで別の日を選んだのさ」


「だって、夏休み初日に行きたくなったんだもの」


 ウキウキの七瀬さんに、俺は今日何度目かのため息を吐かされた。


 柵を伝って歩いた先に、国道へと続く階段が伸びていた。下りの階段を進みながら、俺はといえば折角乗ってきた気持ちが滅入り始めていて、どうにも歩調は緩まってしまっていた。


「そんなに目に見えて不貞腐れないでよ」


「と言われてもなあ……」


「大丈夫。国道からも廃線の道は見れるから。案外、国道から見る景色の方が新鮮で面白いかもしれないわよ」


「それは向こうの景色を見てから言うべきだ」


 片一方だけを体験して知った気になるなんて、おかしなことだ。


「そうね。じゃあまた今度、一緒に行きましょう」


「え?」


「そうすれば、互いにどちらの景色が良かったのかの共有も出来るじゃない?」


「……まあ」


 上手く言い包められた気がするのは何故だろう。

 ……まあ、とりあえず。


「今度は、軽井沢方面から行こう」


「どうして?」


「この峠は、片こう配なんだろう?」


「……そうだね」


 七瀬さんは微笑んだ。


「ありがとう」


 そして、お礼を口にした。


 何に対するお礼なのかはわからなかった。

 だけど、思えばこういう一つの約束を通じて、俺達の将来の疎遠が解消されるきっかけになったりするかもしれない。


 たくさんの場所に一緒に行って。

 たくさんの思い出を共有して。


 たくさんの時間を、共にして。


 そうやって互いのことをもっと深く知り合えば、俺達の未来は将来の夢のように寂しいものにならないのではなかろうか。


 こうやって約束をしていくことで俺達の関係が豊かになっていくのなら、これほど嬉しいことはないのではないだろうか。



 だけど、まずはその第一歩として。


「七瀬さん、君はどうして変わろうと思ったの?」


 俺は彼女のことをもっと知るべく。

 彼女の心をもっと知るべく。


 そう、尋ねた。




「鳳先生の言っていた言葉、覚えている?」




 七瀬さんは遠くを見ながら言った。


「なんだっけ」




「自分は今の人生に不満もないし、後悔もないって言っていたじゃない」


「ああ、そうだったね」


 そんな彼の人生が羨ましいと思い、そうなっていく俺のこれからの人生が、嬉しくもあった。




「あたしはね、今の自分の人生に、不満もあるし後悔もある」


「……え」


「何驚いているのよ」


 七瀬さんは目を丸めた俺を見て、笑っていた。


「普通そういうものでしょう、人生って。仮に昔は出来なかったことが出来るようになったとして、そうしたらあなたはそこで満足するの? 普通、じゃあ次はあれ出来ないかなって思うものじゃない?


 結局そうやって、不満は一生解消されることなんてないのが人生なんだとあたしは思うの」


「俺は自分がどこまで出来るかは把握しているから」


「あなた、本当に達観しているわね。そうやって達観して、状況をよく分析して、上手く線引きしているのね。

 多分、それがあなたの凄いところ。


 そして、あたしの駄目なところ」


「駄目なところ?」


「あたし、諦めが悪いの。出来ないことをいつまでも必死に追いかけて、気付いたら出来ないままで時間だけが過ぎることなんてしょっちゅうなの。


 そんな自分の駄目なところを、あたしはこの前の鳳先生の言葉だったり色々があったりして、ふと気付かされた。


 そうしてもっと後悔した。

 どうしてもっと時間を有効に使わなかったんだろうって。何度も何度も後悔して。


 自分の好きなように生きてみようと思ったら、途端に視界が広がった。今まで見えてこなかった物だったり、景色だったりが……突然目の前に広がったの」


「それは……」


 なんだか途方のない話で、俺は呆然としながら続けた。


「良い体験をしたね」


「そうでしょう?」


「うん。……うん。凄いよ、羨ましい」


「本当かなあ」


 七瀬さんは笑っていた。多分、俺の言葉を全て納得していないのだろう。まあ、それは正しい。俺も今、自分の言葉がどこまで自分の気持ちを露わに出来ていたかと言われると、凄い疑問符だったから。


「あ、ほら。あそこにトンネルが見えるよ」


「え」


 しばし思考でぼんやりとしていると、七瀬さんが林の向こうを指さしていた。そこには確かに、先ほどまで歩いていた廃線の跡があり、トンネルがあった。林の向こうにあるトンネルは、まるで心霊スポットのような先の見えない暗さと、そして神秘的な何かを感じさせた。


 気付くと俺は、吸い込まれるように一歩、二歩とトンネルの方に歩き近寄っていた。もう少し傍で見たいと思っていた。


 轟音が遠くから響いた。


「危ないっ!」


「うおっ」


 突然手を引かれた。冷たい手だった。そして、目の前を猛スピードの車が通り過ぎていった。


「ぐえ」


 引っ張られた拍子に、俺はガードレールに頭を打ち付けた。ゴーンという重低音がやまびこになって辺りに響いた。


「……あ」


 そして俺は、痛む頭を押さえながら、真下から聞こえる吐息と驚きの声に気付いた。




 手を引かれた拍子に、俺は七瀬さんを押し倒して、上に覆いかぶさるように倒れていた。




 脳がフリーズした。

 もう何も考えられなくて、先ほど見ていた神秘的なトンネルに吸い込まれたように、俺は七瀬さんの潤んだ瞳に吸い込まれそうになって……。


「ご、ごめん!」


 寸でで気を取り戻して、七瀬さんから飛び退いた。


「お、起きれる?」


 高鳴る心臓を無視して、俺は七瀬さんに手を伸ばした。


「……うん」


 伸ばした手を掴まれると、再び心臓が高鳴った。

 七瀬さんを起こした後も、しばらく無言で俺達は立ち止まっていた。


「い、行こうか。このままだと日が暮れる」


 ただずっとこのままにしているわけにもいかないと思い出して、俺は七瀬さんに声をかけた。


 しばらく俺達は、どこか浮足立った空気のまま国道を歩いた。


 たくさんの上り坂のカーブを登りながら、暑さのせいなのか。先ほどの失態のせいなのか、とにかく俺は、ずっと頬が熱くてたまらなかった。

 この空間がむず痒くてたまらなかった。


「頭、痛む?」


 唐突に、七瀬さんに声をかけられた。


 振り返ると、七瀬さんは心配そうに上目遣いでこちらを見ていた。


「そ、そうでもない」


「なら良かった。綺麗なやまびこが鳴っていたから、もしかしたらたんこぶになっているかもって思って」


「し、心配ないさ」


 取り留めのない会話だと言うのに、どうにも気が急いた。


「本当、ちょっと見せて?」


 そーっと手を伸ばす七瀬さんに、


「だ、大丈夫だって」


 俺は、条件反射で手をはじいていた。


「あ、ごめん……」


 年甲斐にもなく慌てふためいてしまって、途端に俺は強烈な申し訳なさに襲われていた。俯いて自罰的な言葉を、頭の中で何度も吐いていた。


 しばらくそうして、ふと七瀬さんの顔を覗いた。






 七瀬さんは笑っていた。






「古田君。さっきのあたしの話、覚えている?」


「えぇと。これからするのは、廃線巡りよ」


「戻りすぎ。もっと最近」


「もしかしたらたんこぶになっているかもって思って」


「……戻らなすぎ」


 七瀬さんは、呆れたように目を細めて、続けた。


「あたし、諦めが悪いんだ。そして、そのせいでたくさん時間を無駄にしてきた。おかげで、この人生に不満もあれば後悔もある」


「……ああ」


「だけど、それに気付いたおかげで、あたしは自分の世界が広がったの。誰かを誘って、他県にまで廃線巡りに繰り出すくらいにね」


「……うん」


「……多分、妥協することをあたしは知ったんだ。自分には出来ることの限界があって、それ以上を望むことはどこまで行っても難しいってことをさ。

 だから、諦めることにしたんだ。たくさんのこと」


 自嘲気味に微笑んで、七瀬さんは続けた。


「だけど……だけどね? これだけは、諦めたくないんだ」


「……何を、諦めたくないの?」




「あたしね、好きな人がいるの」


 七瀬さんは、何故だか涙を流していた。




「その人とは高校一年から同じクラスで……」


 泣きながら、想い人への思いを打ち明けていった。


「その人は、いつも達観していて。全然あたしなんか気に留めていなくて……」


 その誰かに対する愚痴。


「しかもすぐに他の女の子に優しくするし……」


 その誰かに対する怒り。


「でも、突然市役所で責められそうなあたしを庇ってくれたりして……」


 その誰かに対する思い出。


 愚痴もあれば怒りもある。多分楽しかった思い出も嬉しかった思い出も。


 そうやって彼女の心を満たして、彼女が……隣を歩いて行きたいと思った人。


 その人は……。


「好きよ、古田君」


 泣きながら微笑む七瀬さんは、どこか儚げに見えた。


「この気持ち、多分五年経っても十年経っても……三十年経っても変わらない。そう思ったんだ」

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