グレイス編 4

 F-16戦闘機二機が攻撃可能な状態で空中に待機していた。目標の施設は冷戦期の軍の建物なので、対地攻撃用の装備をさせている。

 別働隊による地上制圧が失敗した場合の保険と聞いている。基地から航空機の指揮している中佐は、攻撃命令が下らないことを祈っていた。

 問題の施設のある場所、リトルアークの町の避難は十分ではなかった。市民にはガス漏れと言って避難させているが、この短時間では間に合わないだろう。

 空軍の精密爆撃なら近隣への被害は最小限に抑えることができるが、多少の被害は避けられない。それに、問題はその後だ。

 これはあの時と同じだ。ガイアの一件を経験している中佐にとっては他人事ではない。

 当時パイロットだった中佐が投下した一発の爆弾により拡散した「何か」の被害は、半径数十キロに及んだ。これもその時と同じなら、施設の破壊は妥当な方法とは思えない。

 その時は化学薬品工場の爆発事故として隠蔽することに成功し、拡散も止まった。その前例を知りながら、このリトルアーク一つを犠牲にしてでも事態を収束しようとしている。

 あれが再びこの地上に現れた。中佐が知る限りでは三度目。あんなものが三つ。気づけば来年は一九九九年。まるでこの世の終わりのようだ。

「ラスボス級が三体も同時に現れたようなもんだ。そうだろ?」

 中佐は部下にそう漏らすが、よく意味がわからないというジェスチャーを返された。残念なことに、ビデオゲームを趣味にしている者はここにはいない。

 一度目の時は爆撃によって被害を食い止め、封印に成功した。二度目については情報が少ない。噂話程度だが、かなり人死にが出たと言われている。

 三度目は隕石メテオライトから生まれたと緊急の報告があった。やはり、あれらは宇宙からもたらされた遺産なのだ。さしずめ今回はMLDといったところだろうか。

 ガイアの時はGLD、シリウスの時はSLDという通称が使われていた。MLDがどんな特性を持っているかは知らない。他のLDだってよくわかっていない。だが、前者二つと同類だとしたら無害ということは考えられない。

 接触者はすでにカウンター化している恐れもある。その人物の抹殺命令も出ている。若い捜査官とのことだった。

 LD技術は禁忌であり、利用すべきものではない。抹消すべきものだ。それが中佐の見解で、軍上層部にもそういう意見があるから攻撃の許可が出た。

 LDの利用を主張した者も過去にはいた。その理屈もわからないではない。

「対抗するためには、同一の存在を手に入れるしかない、か?」

 ガイアの後のアルカディア宇宙ステーション計画もそのためだったと聞いている。

 だがステーションのミッションで手に入ったシリウスは、結局はガイア以上の猛毒を振りまく存在だった。事故があったらしく、その後の行方はわからない。

 完全な形で無害な遺産を手に入れ、それをコントロールして宇宙からの脅威に対抗する。馬鹿げた考えに思える。だが、叶うなら今回は無害であってほしい。そんなものが存在するかさえわからないが、もうあんな死の町を生み出すのはごめんだった。

 どうかMLDは大人しい存在であってほしい。地上部隊だけで沈静化できれば、あんな惨劇を繰り返さずに済むのだから。

「中佐、地上部隊による制圧は失敗とのことです」

 入った報告により、無情にも空爆の実施が決定した。

 


 グレイスが目を覚ました時、抵抗らしい抵抗を見せていなかった柩が立ち上がっていた。倉庫部屋が震えるほどのエネルギーを放っている。

 拘束が全て解けていた。見れば、粉々に砕けた拘束具の残骸が散らばっている。その場に立つ柩から白い放電が広がり、部屋中をまばゆく照らしていた。

 立っている様子や表情から、臨戦態勢という言葉がしっくり来た。グレイスは柩が戦うところを何度か目にしている。その時に似ているが、これまでのどれよりも力強く見えた。

 しかし、その目線はグレイスを見てはいなかった。戦おうとしている相手は部屋の外にいるのだとグレイスは察した。

 それに呼応するように、グレイスの脳に警告の声が発せられた。

『影響力Cの現実干渉を検知。同一クラスター由来です。違反認定、対象への実力行使を許可します』

 あの時と同じ声がグレイスの頭の中に聞こえた。音声と同時に意味がインプットされ、直接理解させられているような感覚だ。

 柩が何か力を使おうとしている。それに呼応するように、グレイスの中のものが反応しているのだ。

 あの夜、グレイスの額には何かが埋め込まれた。それは傷を塞いではくれたが、グレイスの体に異常をもたらしている。

「何を……!?」

 グレイスは叫んだ。これまでの柩と比べても尋常ではない状態だ。なぜこんな事になっていて、何をするつもりなのか。

 柩はグレイスの問いを無視し、右手を扉にかざした。

 次の言葉をかけるよりも早く、柩の人差し指から球状の黒いものが現れた。それは音もなく目にもとまらない速さで扉に向かって発射された。

 黒球は鋼鉄製の扉にあっさりと小さな穴を開け、貫通していった。グレイスは驚き、言葉を失う。

 扉の向こうから騒ぎ声がする。球が貫通していった先は正門の方向のはずだ。

 何を狙った? どんな被害が出たのか? グレイスがすべきなのはただ見ている事ではない。

「何をしているんですか!」

 柩の前に回り込み、グレイスは言った。柩がしたことを思えば恐怖で足が震えたが、ここはなんとしても対話しなければならない。

「こっちに来る。どいて」

 柩は短く答えた。話を聞きそうな雰囲気になかった柩だったが、グレイスを前にするといくらか気勢を失って見えた。

「聞けません! 何をしようとしているんですか!」

 反論するグレイスの背後に、何人もの足音が聞こえた。誰かこの場所に駆けつけてきている。

 パロットやアルバートの顔が浮かび、グレイスは危機感を抱いた。今ここに近づくのは危険だ。警告しなければ、と振り返るグレイスの目の前で扉が破られた。

 だが、そこにいたのは調査部スタッフではなかった。武装した兵士数名が乗り込んできたのだ。

 銃口は全てこちらを向いていた。柩だけでなく、グレイスにも向けられている。

 軍の特殊部隊の装備だった。二人とも抹殺される、と瞬時に理解した。グレイスの視野と感覚が広がっていなかった頃なら、相手の姿を確認する間もなく死んでいただろう。

「もう。邪魔だよカタブツ!」

 背後から柩の声がする。グレイスは柩に押しのけられ、壁に投げ飛ばされた。先頭の兵士が発砲し、柩の左肩に弾丸が命中する。

 柩はひるむことなく距離をつめ、兵士が持っていた軍用小銃の銃口を手の甲でそらした。同時に、すばやく相手の銃のマガジンリリースボタンを押して弾倉を切り離し、コッキングレバーを引いて排莢させた。

 残弾を失った小銃は射撃ができなくなる。武器が使えなくなったのを見て後方の兵士がカバーしようと動いたが、柩はそのまま先頭の兵士に足払いをかけた。目隠しをすると同時に柩の体勢が低くなり、後続の兵士の射撃は外れる。倉庫部屋の硬い外壁が銃弾をはじき、部屋の中を跳弾が飛び交った。

 呆けている後続の兵士に向け、柩は掌で押すような動作をした。見えない巨大な掌に押されるように兵士は部屋の外に弾き飛ばされ、衝撃で気を失ったのか動かなくなる。

 視覚と認知が広がっているグレイスから見ても目にもとまらない早さだった。しかも、全く無駄のない体術であった。左肩に被弾した傷がもうふさがっている所は人間離れしているが、動きは人体を熟知している者にしか思えない。

「あなたは、これがわかっていて……?」

 グレイスは壁から立ち上がりながら問いかけた。襲撃を予知していたかのような対応。拘束をといたのもこれが理由だったのだ。

 柩はわずかにグレイスを振り向く。キャップのつばの隙間で目が合った。

 その隙に、投げ飛ばされて倒れていた最初の兵士が手榴弾のピンを抜いてその場に転がした。

 もろともに爆破するつもりだ。グレイスは戦慄した。しかし柩はすぐに手榴弾を拾い、両手で挟むように持つ。どうするのだろう。

 その時、またあの声が聞こえてくる。

『影響力Cの現実干渉を検知。同一クラスター由来です。度重なる違反を確認。対象への実力行使を強く推奨します』

 グレイスの頭に先ほどと同じ文言が詠じられた。柩の掌から黒い球が生まれ、先程より大きな球となって手に持っていた手榴弾を飲み込んでいくのが見える。

 この警告は柩が力を使う時に浮かぶことはわかってきた。ちょっとした重力の発生程度ではない、何か致命的に危険な能力を使っている時だ。

 グレイスの中に聞こえる声が柩の行動を止めるように促しているのが伝わってくる。危機感をかき立てていた。しかし、グレイスは目の前で起きている現象に注目してしまう。

 さっきの極小の黒球も、今生み出されているこれも、重力干渉をめいっぱい強力にしたものだ。グレイスに備わった新しい感覚がそれを気付かせる。

 手榴弾は鈍く低い音を立てて黒球の中で爆発し、その被害を外に撒き散らすことなく終わった。黒球が発生してから三秒ほどの間に起きた出来事であった。

 柩の注意が一瞬緩んだのを見て、倒れていた兵士は起き上がり部屋を出ていこうとした。そこに現れたアルバート捜査官の左ストレートが見事に命中し、兵士は一発で気絶してその場に倒れてしまった。

 アルバート捜査官は「これでよかったのだろうか」という顔をしてグレイスを見た。それでいいのかどうか、グレイスにわかるはずもない。

 部屋の外に出てみる。柩が最初に狙った正門のあたりに、武器を失った兵士数名が倒れていた。死んではいないようだが戦闘不能になっている。

 アルバートによれば、救援を装って施設にやってきた特殊部隊が侵入してきたとのことだった。最初の黒球でいきなりの迎撃を受けて戦力が半減したものの、生き残りはまっすぐにこの部屋だけを狙ってきたらしい。

 そのおかげというべきか、スタッフへの人的被害はなかった。パロットやディズも面食らってはいたが、無事のようだ。

 狙いは自分と柩だったようだ。それは疑いようがないだろう。

 兵士たちは正式に知られることのない極秘部隊のようだが、軍の正規部隊らしかった。正式な命令で動いていて、先日の襲撃者とは関係なさそうだ。

 なぜ急にそんな事になったのか。思い当たるのは……。

「州兵の要請をしたのは私です……」

 震えた声でディズが言った。封鎖の状況や危険の喚起を行ったのはディズだ。その報告が研究所や軍上層部、あるいは政府にこのような判断をさせる要因になった可能性がある。

「どう見てもただの州兵じゃねーよ、こいつらは」

 そんな問題ではないが、パロットはディズにフォローを入れている。

「外部と連絡をとったほうがいいでしょう。ディズは研究所に。私は局に連絡してみます」

 ホールに出て皆が状況を確かめていた時。端末を手にとってコールしようとしていると、柩が一点を見つめ続けているのに気づいた。倉庫部屋にいた時と同じように、何もない壁を見ている。

 まさか兵士の増援が来るのだろうかと思っていると、柩の視線はもっと上空を見ていることに気づく。

「ジェットエンジンの音がする……」

 パロットも柩の様子に気づいたらしく、周囲に気を配りながら言った。耳を澄ますと、壊れた正門の方から確かにジェット機の音が接近してくるのが聞こえた。それも、民間機ではなく戦闘機の音だ。

「まさかそんな……」

 特殊部隊を送り込むだけでは飽き足らず、空爆まで行う事があるだろうか。たった今目にした柩の力を思えば、ありえないことではないのか。

 グレイスは戦慄した。ここに鉄の雨が降り注ごうとしているのだ。

「後ろに隠れたまえ、グレイス。他の人も」

 柩が抑揚のない声で言った。その場にいた誰もが従いたくなるような、有無を言わさない支配者のような冷たい声だった。

 かぶっていたキャップをはずしてグレイスのほうに放り、柩は迫りくるジェット戦闘機の音の方に向き合う。

 コンクリートの壁に覆われていて空は見えない。しかし、吹き抜けの二階の窓から翼端灯らしき赤と緑の光が見えた。

 拡張されたグレイスの視覚が相手の姿を捉える。空軍に配備されているマルチロール機だ。胴体や翼の下に精密誘導爆弾や対地攻撃用のミサイルを搭載することができる。

 この施設にアプローチしてきている。間違いなくやる気だった。柩はこれを察知していたのだ。

 接近してきていた戦闘機がすっと進路を変えた。発射炎が見えない。自立誘導型の対地爆弾だ。風切り音だけがかすかに聞こえる。

 同時に、またあの警告がグレイスの頭を走った。

『危険。影響力Bの現実干渉を検知。同一クラスター由来です。制限解除。阻止、もしくは退避行動をしてください』

 柩が何かしようとしている。これまでよりも強くグレイスの頭に声が響いた。

 それだけでなく、グレイスの肌も直接それを感じていた。柩を中心に力場が嵐のように渦巻いている。

『危険、退避してください……』

 声は繰り返しグレイスに警鐘を鳴らす。神経が逆撫でされるような感触だった。

 柩の姿を目視する。パーカーだと思っていた柩の衣装の一部がほどけ、足元までを覆うドレスのような衣装に変化していた。

 頭の声に言われなくてもグレイスにはわかった。柩の前方、視線の先の一点。局所的に、まるで現実ではないかのような異常な空間が生まれようとしている。もしも領域を限定していなければこの現実が壊れて引き裂けてしまうような。グレイス以外の人間にもその異常性が感じ取れたらしく、目の前にいる柩から数歩後ずさる。

 広がったドレス状の衣装は何かの機能を発揮している。おそらくは周囲への認知を拡大している。周囲のあらゆる変化をとらえ、それを柩に伝えている。その情報の流れが感じ取れた。

 そして接近する風切り音がすぐ近くまで迫った時。蓄えられていた力が発動した。

 誘導爆弾が外壁に衝突した瞬間、時間が止まったようにその空間が閉じ込められた。薄暗い球体を形成している。その中で、砕けた外壁の間から紡錘型の爆弾が姿を見せた。

 すでに信管が作動し、爆弾は爆発の段階に入っていた。しかしその変化は緩慢で、物理法則を歪められた空間の中で爆速を遅らされていた。

 柩の干渉により外側から封じ込められ、爆発は小規模かつ緩慢に収まっていく。あとひと押しすれば時間が停止しそうなほどの金縛り状態だ。

 やがて外圧と内圧が拮抗し、砕け散るように異常空間が消滅した。余波がその場所から周囲に広がり、コンクリート造の建物を激しく揺らし、デスクなどの設備をなぎ倒した。

 少し遅れて、壊れた施設の外壁が床に次々に落ちてきた。砂煙が舞い上がり、焦げ臭い匂いが広がった。

 十分に速度を落とされて弱められたからこそこの程度で済んだのだ。よく見えなかったが、おそらく五〇〇ポンド以上の誘導爆弾。この施設をまるごと破壊できたはずだ。それが眼前で爆発したのに誰も怪我をしていないというのは奇跡だった。

 それを、ここに立っている少女が一人で行ったのだ。グレイスは言葉を失った。

 これで終わりならよかったが、戦闘機は一度施設の上空を通過、反転して戻ってくる気配だった。

 今度は誘導爆弾ではなく空対地ミサイルを使うかもしれない。そんなものを打ち込まれても耐えられるのだろうか?

 グレイスが次の事態に警戒していると、反転接近していたはずの戦闘機の音が遠ざかっていくのが聞こえた。同時に、グレイスの端末に着信がある。

 ダリアからのテキストメールだった。それによると、軍による攻撃命令はギリギリのところで解除になったということだった。

「ギリギリではないですよ……」

 一発落とされているのだ。荒れ果てたオフィスの中を見て、グレイスは胸をなでおろした。



 爆撃の件は上が軍に抗議するつもりらしい。このオフィスの場所は極秘なのに、こうも何度も危険に晒されると全く安全に感じられない。

 パロットとアルバート、それに生き延びた一五人のスタッフたちは、損壊して脆くなった施設の警備に当たっている。ディズは今回のことがこたえたのか、施設の奥で倒れるように眠ってしまった。

 爆撃ですっかり影が薄くなっているが、その前日に何者かに襲撃も受けている。捜査官であるグレイスとしては、本来はそちらのほうが勘案するべき事であった。

『内部犯の可能性は捨てきれないですね。身内を疑いたくはないんですけど』

 電話での相談で、ダリアはその可能性を話した。襲撃者についてはまだ進展がない。だが、情報が漏れていることは気がかりだった。

「ダリアが連れてきた一五人はどうなんですか。怪しいのでは?」

『うーん……それはちょっと考えにくいんですよね。でも、一応資料を送るので必要があれば使ってください』

 ダリアが大丈夫というなら、調べても何も出てこないのだろう。シークレットサービス時代の人脈で連れてきた者たちのはずだ。

 身内の三人を疑わなければならないというのはグレイスには苦痛だった。しかし、捜査官として考えないわけにはいかない可能性だ。

『まだ単独犯を支持してるんです? 街で変な人に尾行されていたと報告にありましたけど』

「……そうですね。単独犯というのは思い違いかもしれません」

 グレイスはこの一連の襲撃は単独犯である可能性が高いと思っている。そのことはダリアにも何度か伝え、報告書にも記載してあった。

 答えが出ないので、忙しそうなダリアとの電話を切った。

 まだ仕事は多い。オフィスはひどい有様で、あの有能な一五人のスタッフでも整理が追いついていない。

 この程度で済んで良かったとも言える。危機一髪だった。空爆中止は、ディズが送った柩の体組織のサンプルを分析したところ毒素はなく無害であることが確認されたためであった。人体とは反応しない分子で構成されていたらしい。

 それならば対話を求めたほうがいい、という判断が正式に上の方でなされたようだ。柩がくれた一本の髪の毛がなければ、今頃もっと徹底的に空爆を受けていたかもしれない。

 もっと上の人間か専門家が柩との対話のためにやってくるかと思っていたが、準備が整わないらしい。引き続き調査部で預かるようにとの指示があった。

 しばらくしてディズが目覚めてきたので、柩について最低限のことを調べようと相談した。研究所もそれを望んでいるらしい。

 柩はいつのまにか二階の吹き抜けに移動しており、次々と本を手にとってはぱらぱらと見ていた。

「ここの本は抜けている巻が多い」

 元は市の図書館だったとはいえ、残されている書物は一部のみである。床に散らばっていたものを本棚に戻してはあるが、きちんと整理されたわけではない。抜けている巻が多くても不思議ではないだろう。

 その上、今回の爆撃の余波で焼損したものもある。柩は不満そうだ。でも、おとなしく施設には留まってくれている。

「身体検査させてくれませんか?」

 グレイスは単刀直入に頼むことにした。搦手で頼み事をできるほど器用ではないし、断られれば仕方がないという気持ちだった。

「うん、いいよ」

 本棚に本を戻しながら柩は言った。あっさりと了承されたので、グレイスは少し安心した。

「いい自己紹介になるし、きみのおでこを精密検査した時のショックが和らぐかもしれない」

 しかし、その次の言葉で安心は吹き飛んでしまった。

 襲撃のあった夜、撃たれた直後に額に違和感があったのを思い出す。今は消えているが、あれ以来グレイスの体は少し様子がおかしいのだ。

 柩は自分のことを宇宙人だと言っていた。ふざけているようにしか見えなかったが、あれを見た後では……でも、こうして対面している印象では地球上の人間だ。結局、彼女はどちらなのだろうか。

 ディズの元に柩を連れていき、精密検査を行える医務室に入れた。柩はグレイス相手には饒舌だったが、ディズとパロット相手だと一言も言葉を交わそうとはしなかった。ただじっと目を見て、微笑みもせず佇んでいるだけだ。

 しかし二人の言葉は理解できるらしく、ここに立って、ここに横たわって……といったディズの指示には従ってくれていた。

 柩は何度かグレイスを助けてくれた。それに、先程は他のスタッフの命も守ろうとしてくれていたように見えた。確かに、彼女とは対話するのが一番いい手ではないだろうか。グレイスはその思いを強めていた。

 レントゲン写真や採血(血液は存在した)が上がってきて、それを見たディズは言葉を失っていた。

「構造自体はほぼ人間と同じです。両手と脊髄、胸部の神経組織が異常な点以外は。それよりも、血液と細胞が普通のものではありませんでした」

 それが、柩を調べたディズの簡潔なまとめだった。

 柩の神経は発達しており、前に説明があったMLDで出来ていると思われる。それだけなら、神経組織を人工物に置き換えただけの可能性がある。ずっと進んだ科学力でしかなし得ない事だが、医学的に説明できない身体構造ではない。

 しかし、血液や細胞もMLD、あるいはそれに似た素材で構成されていた。これは、同じ異常でも意味が全く違ってくる。

 一見すると人間の体のように見え、そのように機能している。しかし構造的には人間だとしても、血液や体組織全体が人間のものとは全く違うということだ。

 この少女には細胞はある。だがタンパク質はない。核酸もない。

 ダリアの言う「前例」では、細胞自体は普通の人間と変わらなかったという。だが、これはどう見ても普通の人間ではない。

「結論は? ディズはどう考えていますか」

「人間を模倣した機械です。細胞ほど小さな機械の集合体、人型のコンピューターです」

 人間ではない。ディズが出したその結論に、グレイスは少なからずショックを受けた。言葉を交わしたのもあり、人であると思いたかったからだ。

 柩との会話はとても自然だった。少なくとも根幹にあるのは人間であり、そこに超能力や機械を植え付けられたものだと考えていた。

 もしかするとグレイスがそうであるように。グレイスも額に何かを埋め込まれてから、妙な感覚や能力を身に着けている。柩もそれの延長の可能性があると思っていた。

 宇宙人だというふざけた返答も、心のどこかで冗談だろうと期待していた。だが、これでは信じざるをえない。

「このMLDは活性化した状態のもの?」

 グレイスは質問する。LD、リンカーデバイスについては概要を聞いたくらいだ。その場にあるだけでコンピューターとして機能し通信機能を持つ材質、ということだったか。

「そうです……純度の高いLDが活性状態で存在しています。現状作れるLDはこれほどの性能は持っていません。せいぜい簡単なプログラムを動かして電気回路を形成したり素材を分解できる程度ですから」

「それだけでもすごい素材のように思えますね」

「MLDは地球上のLDのはるか先を行くものです。人間かそれ以上の知能を持ちつつ、自在に形状を変えて細胞や筋組織、内蔵器官を再現しています」

 驚くべきことだった。地球上の生物の基本はタンパク質や核酸であり、それによって分裂や代謝を実現して生命活動を展開する。それに似た機能を完全に別のもので代替しているということは、地球上のどの生命体とも異なる全く別の生命体だということになる。

「ナノマシンみたいなもんか」

 パロットが横から口を挟んだ。

「そのものと言ってもいいですね」

 ディズは答える。医学分野や一部機械分野でナノマシンという言葉が使われていることはグレイスも知っていた。そもそもLDもナノマシンの一種と言えるかもしれないが、MLDはもっと生物的だった。

「どうやって活性化したかわかりませんが……完全なLDがこれほどのものとは。私もびっくりしてます」

 実際にこうして活動している所を見ると、専門家のディズでも驚くことらしい。やはり狙われるのに十分な理由がMLDにはある。それを狙ってくる連中がいることも頷ける。こんな万能の物質が実用化できれば、あらゆる科学分野で革命が起きる。

 その実例が柩の肉体やグレイスの携帯端末の変貌、ということになる。隕石の回収の重要性が改めて見えてきた。その重大さに、グレイスは若干気が遠くなった。

「彼女は現地物質……要するに食事を必要としていました。それが活性化の条件なのでは?」

 グレイスは柩の言葉を思い出して言った。活性化の条件の参考になるだろうか。

「食事……プルトニウムとか核融合的エネルギーとか、そういったものですか?」

「いえ、ホットドッグとチョコドーナツでした」

 それを伝えると、ディズは余計に頭を抱えてしまった。

「力を使いすぎた。まだこの体を長時間維持するのは難しいよ」

 柩はグレイスを向いて話した。どことなく眠そうな顔をしている。

 グレイスは、目の前の少女ともっとたくさん話がしたいと思った。聞きたいことも、確認したいことも山程あるのだ。

 柩の体が完成されたLDでできていることは理解した。だが、それだけではただの材料のはずだ。そこに入っているソフトウェアの部分、彼女の人格や姿はどこから来たのか。次はそのことが気になる。

「その前にグレイスの検査です」

 ディズは早口で言った。忘れていたが、グレイスの体にも少し異常がある。額の異物感は消えているが、撃たれた直後は何か埋め込まれたような感覚があった。

 すっかり放置してしまったが、それも無視できないことだ。グレイスは、さっきまで柩が寝かされていた装置にそのままなすすべもなく横たえられた。



 柩の体組織を慎重に調べたが、毒性もなく、むやみに拡散している様子も見られないということだった。仮に彼女の肉体が本気で拡散を試みた場合は地球上の技術で封印するのは無理ではないか……とディズは言っていた。

 恐ろしい話だ。ただ、ディズの分析によればMLDの活性化がどんどん停滞しているらしく、柩本人が言う「力を使いすぎた」という言葉の通りらしい。この様子だと、柩の体が地球を侵食していくことはない。

 一方で、グレイスの額にあるMLDも調べられた。こちらについては活性化とは呼べない状況だが、微弱な電流が検知された。

 その微弱な電流によってグレイスの脳の機能や視力を補っているかもしれない。例の声が聞こえている時なら、もっと違うデータが取れるかもしれないと思う。

 もう一つ。グレイスの頭脳は弾丸を受たはずだが、損壊はほぼ回復している。何らかの治療が行われたのは間違いないとのことだ。

 やはり、柩には人命を救おうという意思があるのではないだろうか。そうする理由は何だろう。

 検査を終えたグレイスは柩を探した。相変わらず施設の中を徘徊し、観察しているようだ。

「なぜディズやルーシーとは話さないんですか?」

 グレイスは本をぱらぱらとめくっている柩に話しかけた。いつのまにか二階の本棚に移動している。

 ななめ読みにしか見えない読み方だが、柩なら本の内容を読み取ることは造作もないだろう。飛来する弾丸を感知したり、動体視力は人間よりも高いようだ。

「私にもルールがあると言っただろう。きみは特別なんだよ」

 柩は繰り返しルールという言葉を使って答える。

「あなたがよく言うルールとは具体的には何なんですか」

「この地球上のテクノロジーや文化に影響を及ぼしすぎないことだよ、グレイス」

 柩はグレイスに向き直って話した。まっすぐな目線で、はじめて柩が真剣に話しているように感じられた。

 その物言いは、改めて自分が地球外からやってきたという事を認めるものでもあった。

「……それでも、皆を助けたじゃないですか。私のことも」

 ディズの検査で、グレイスの体内にはMLDがあることがわかった。それだけではない。グレイスが使っている端末からもMLDが見つかり、あの端末の形状の変化にも説明がついた。

 非活性化したMLDは人体と反応しない無害な黒光沢の物体となり、その時に形成した形状を維持し続ける。損壊したグレイスの頭部の中にもある。変貌した携帯端末の外装もそうだ。

 得体の知れない存在から頭に異物を埋め込まれたという事実はやはり怖い。こうして会話が通じる相手でなければ今すぐに医者にかかって、どんなリスクがあっても摘出を試みたに違いない。

 だが、死にかけていたグレイスを助けてくれたというのも事実だ。だからこそ、その意図を知りたいのだ。

「命は……」

 答える柩の言葉は弱くなり、足元はおぼつかなくなっていた。眠そうな表情で、ふらつく体が危なっかしい。

「……特別……だから」

 言いながら、柩の体は倒れていく。

 グレイスはとっさに柩を受け止めようとした。その瞬間、柩の体が消失する。そして楔形のオブジェクトだけがその場に残され、本棚の前の床に転がった。



 真っ白に周囲を照らす日光の中、歩くグレイスの姿を見て疾走していくプレーリードッグが見えた。かすかに地面に砂煙を残し、地面のどこかへと消えていった。

 そんなに必死で逃げなくても何もしない。柩もそういう気分で弱い人類のことを見ているのかも、と思うと気が滅入る。宇宙人から見た人類はそういうものかもしれない。

 この一帯に落ちた隕石を探していた。それぞれ専用の探知機を持たされ、反応がある方位を探っている。

 新たな回収任務を命じられ、遠く南西にあるサウスラーク砂漠に飛ばされた。長時間のフライトの後に干からびた硬い地面の上で石拾いという苦行に誰もが閉口していたが、もくもくと探索を続けている。

 この探知機はとても便利で、アルバートや一般警官の力を借りなくても回収物を見分けることができた。

 探知機はディズが手配したものだそうで、ダリアから渡された。こんな便利なものがあるなら早く提供してほしかったと思う。今までは簡易的な金属探知機しか持たされていなかったので、くまなく現場を調べる必要があり大変だった。

 小石一つ一つを持ち上げて回収物を見分けていたら、このエリアの捜索に何週間もかかるだろう。今回は研究所が盗難さわぎでごたごたしているので、市街地専門のはずの調査部にお呼びがかかった。

 こちらはこちらで新しいオフィスが襲撃や空爆されるという事態になっているのだが、それよりも研究所の事情の方が優先されるらしい。釈然としないが、ダリアによればオフィスの警備は数倍に増強しているとのことだ。また得体のしれないスタッフを集めてきているのだろう。

 今回は回収作業にアルバートの関与が不要なので、彼女には周辺の警戒を担当してもらっている。

 アルバートは車から出ず、襲撃があった場合は即座に反撃できるようにしている。さっき見たところではスナイパーライフルまで持ってきていた。そういった監視任務は得意とのことで、よけいにアルバートの謎が深まる。この寡黙な先輩の過去は一体どういうものなのだろうか。

 複数のセンサーやカメラで死角を作らないようにしつつ、アルバートだけ車内で待機している。それもダリアの指示だった。

 もっと人数がいればこんな回りくどいことはしなくてもいいのだが、回収スタッフだけは本当に限られている。ダリアにとって本当に信頼のおけるスタッフは三人だけということなのだろう。

 パロットとグレイスで破片を拾い、回収は順調に進んでいた。遠くにいるパロット捜査官も同じように作業し、たまに地面から何かを拾っている。

 特殊隕石の落着は頻度が下がってきている。宇宙観測情報からも、この隕石群はもうすぐ落ち着くだろうと予想されている。こんな任務もそれまでの間、とグレイスは考えていたのだが、最近は少し様子が変わってきている。今もアルバートが警戒しているように、この回収物を取り巻く事情は考えていたより危険のようだ。

 フラグメント、LD、ナノマシン……言い方はいろいろあるが、これはただの隕石ではない。回収が済んでも、仕事は終わらないかもしれない。柩を通してそれを思い知った。使い方次第では、現代の戦闘機を退けるような兵器にもなってしまう。グレイスはそれを目の当たりにしてしまった。

 その時の反動なのか、活動の限界が来て非活性状態になった柩は姿を消した。MLDの粒子になって、楔の中へと消えていった。それ以来姿を見せていない。

 グレイスは、この場所にも持ち込んでいる楔形隕石に目をやった。持ち運びがしやすいように腰につけられるケースをディズが作ってくれたので、そこに収納して肌身離さずに持ち歩いている。

 柩の体がLDなら、楔の存在は何なのだろうか。専門家であるディズの仮説は聞かされていた。

 柩の肉体がMLDであるように、これもまた高密度のMLDの集合体かもしれない。非常に硬く傷がつけられないのでサンプルをとることができない。電子顕微鏡でもその正体がわからない。柩以上に謎の物体かもしれない。だがディズの見立てでは、膨大な情報が記録されている記憶媒体の可能性があるという。

 MLDがハードウェアなら、そこに入れるソフトウェアが必要というグレイスの考えは正しいらしい。もしもこれが記憶媒体ということなら、人間のような何かを生み出し会話をさせるのに必要な情報量を持っていることになる。

 現在、ディズが論文を作成している。ならこの楔は研究室に残してきたほうがよかったと思うのだが、柩が覚醒した場合にコミュニケーションがとれるのはグレイスだけという理由で、常に持ち歩くようにダリアから命令があった。

 この物体のことは何もわからない。会話から情報を引き出すことは正式に許可された。そんなコンタクトがグレイスでいいのかと思ってしまうが、現状では柩はグレイス以外とは話したがらないのも事実だ。本人の口からもそう聞いた。その話の途中で消えてしまったので、理由まで詳しく聞くことはできなかった。

 バカらしいとは思ったものの、また実体化してくれないかと思ってホットドッグに楔を突き刺すのを試してもみた。しかし、楔形の石はホットドッグを食べなかった。ディズに猛烈に叱られただけであった。

 MLDが活性状態になるには現地の物質が必要、というのは柩の言動からわかっていた。一ドル五〇セントのホットドッグでMLDが活性化するのなら安く済んだのだが、そううまくはいかないらしい。

「結局、あなたは何なんですか?」

 グレイスは物言わぬ石に話しかけた。答えが返ってくるとは思っていない。

 元はこんな小さなものからあれほどの力を発揮したのだから、沈黙してしまうのはわかる気がする。彼女の力なら自分だけ逃げることも可能だったように思えるが、その場にいた人間全てを無傷で守ってくれた。動けなくなる代償があるにも関わらず。

 そんな事を考えていたタイミングで端末に着信があった。今連絡してくるとしたらダリアくらいだと思ったが、着信表示は「綺柩」と表示されている。

 登録した覚えはなかった。グレイスは通話に出る。

『アロハ。今ハワイから電話しているよ』

「……冗談か本当かわからないことはやめてください。大丈夫なんですか?」

 突然パワーダウンして楔の姿に戻ってしまった時は二度と会えないことも覚悟していた。しかし、電話口の柩の声は明るい。

『心配してくれたのかね』

「……心配くらいします。本当はどこにいるんです。近くですか?」

『相変わらずきみの腰に張り付いている。本当は胸にぶらさげてくれたほうが幸せなんだけど。結構着痩せしているね? きみは』

 グレイスは腰の隕石楔に触れた。外見上の変化はないが、本当にこの中にいるのだろうか。軽口とはいえ、また声が聞けて正直安心していた。

 だが、グレイスの安心に反して柩は体調の不良を口にする。

『ずいぶん弱っているんだよ。微弱な電波を発するのが精一杯だ。周りもよく見えない。きみは砂まみれな所にいるね。海?』

「残念ながら砂漠の真ん中です……」

 目もないのにいったいどうやって周囲を見ているのだろうか。灼熱の砂漠よりは海岸の方がよかったが、海に落ちた隕石を回収するのは大変だろうからこの方がいいのかもしれない。

 柩は体を使わず、電波だけ端末に送っているようだ。肉体が休眠状態でも、この端末を介すれば会話が可能ということだろう。その程度でも反応が見られるようになって少し安心した。

「何の用事でしょうか。申し訳ありませんが、買い物は行けそうにない場所です」

 グレイスは一拍置いてから話す。一番近い町でも車で一時間の荒野にいるので、何か要求されてもすぐには応じられない。

『今は食べる元気はない。周囲に人も監視もいなそうだから、そろそろ聞かせてほしいと思ってね』

 グレイスに構わず、柩が話を進めた。

「聞かせるって何をです?」

『犯人だよ。襲撃者の正体。疑ってるんだろう? 内部犯の可能性』

 柩は、グレイスが予想していなかった話題を口にした。

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