第26話 対価

 今は静岡という安住の地で平和な暮らしを送っているが、永遠に今の生活が続くとは思っていない。自分は平気な顔をしてこの状況に甘えていていい人間ではない。恵まれた生を無言で享受していてもいい人間ではないのだ。そのためには多くの物事を犠牲にしてきたし多くの人間を傷つけてきた。特に実家の人間には迷惑をかけたどころの話ではない。あれだけ家督を継ぐことを望まれていたのに無言で婿養子に入ってしまった。向日葵ではない相手との無理な契約結婚を強いてきた実母とは和解できないだろうが、せめて乳母ぐらいには報いたほうがいいのではないか。


 ずっといつかどこかでけじめをつけたいと思っていた。向日葵は何もがんばらなくていいと言ってくれている。けれど自分自身がすっきりしない。何にも考えることなく向日葵に膝枕でもしてもらって死ぬまで安穏と暮らせたらどんなにいいだろう。自分の性格を呪う。


 どこかで何らかのけじめをつけて次のステップに進みたい。


 向日葵が入浴している間に、離れのリビングに敷いた布団の上で膝を抱えて丸くなる。

 右手にはスマホを握り締めている。


 叱られるかもしれない。怒られるかもしれない。呆れられるかもしれない。わらわれるかもしれない。恥さらしと罵られるところを想像する。帰ってこいと言われても帰ってくるなと言われても地獄だ。


 だが、そろそろ、信じてもいいのではないか。


 LINEの画面を開く。

 この一年間、互いにメッセージを送らずにいた育ての母佐和子さわこの名前をタップする。

 去年の向日葵と結婚する直前、婚約者と会いたくなくて家出まがいのことをした時、佐和子の「今どこにいるんですか」というメッセージの後丸一日置いて「京都駅です」と返信したのが残っていた。これが京都駅を利用した最後の日の話だ。これを最後に自分は京都から逃げた。佐和子はどんな思いでこのやり取りをしたのだろう。


 怖かった。


 もし、母親に告げ口されたらどうしよう。


 向日葵の、無理はしなくてもいいよ、という言葉がこだまする。信じられないのなら信じなくてもいいと、その時が来るまで放っておいていいと言ってくれた声が頭の中に反響する。


 でも、今がその時のような気がする。


 佐和子はもとをただせば父親の愛人だ。佐和子と父親の間にはひとり異母弟がいる。彼女はその実の息子を犠牲にしてまで自分を守ってくれていた。弟には申し訳なく思うので、単純に肯定することはできない。けれど自分が何においても大切にされてきたのは否定できない事実ではないのか。


 震える手で、メッセージを打った。


『お元気ですか? 僕は元気です。今は向日葵さんと向日葵さんのご家族と静岡で暮らしています。こちらは暖かくて空気がよく、風邪をひくこともなくなりました。

最近料理に凝っていて、向日葵さんのお母さんに実家で食べていた京都の料理を作ってみてはどうかと提案されました。佐和子さんのおすすめの料理があったらレシピを教えてください。』


 これだけの内容なのに吐きそうだ。


 しばらくの間送信後の画面を見つめていた。どんな返信が来るのかと思うと緊張した。


「椿くん?」


 はっと気づくと、向日葵が目の前で膝立ちをしていた。


「お風呂空いたよ。もう椿くんで最後だから浴槽のお湯抜いて軽く掃除してほしいんだけど」

「そう……」


 向日葵の手が、スマホを握ったままの椿の手を、ぎゅ、と握る。


「何か嫌なことあった?」


 意図して息を吸い、吐いた。


「佐和子さんにLINEを送ったんや。僕は元気で静岡で暮らしてます、って。ほんまそれだけなんやけど緊張した」

「そっか」

「でも大丈夫。何かあってもひいさんが守ってくれはるんやろ」


 向日葵が抱き締めてくれた。


「とりあえずお風呂入ってくる。片付けなあかん」

「片付けはどうでもいいんだけどお湯が冷めちゃうからね」


 立ち上がろうとした、その時だった。

 スマホが震えた。


 おそるおそる、LINEを開いた。

 佐和子からだった。


『ご連絡ありがとうございます。ずっと心配していました。ご無事のようで嬉しいです。健康でいてくださるというのなら他に何も望むことはありません。』

『本当に連絡をありがとうございます。』

『あなたから連絡があったことは奥様には秘密にしておきます。』

『レシピの件、承知しました。いくつかまとめて明日お送りします。』

『またご連絡ください。本当に心配しています。いつもあなたのことを思っています。一日たりともあなたのことを忘れたことはありません。』


 言葉にならなくて、スマホをそのまま向日葵に差し出した。向日葵が「見ていいの?」と言いながら受け取る。


「ああ、よかったね。椿くん、京都の家の人は誰も味方してくれないって言ってたもんね。ひっかかってたことがひとつ消えたね」


 彼女は天使のように微笑んだ。


「何か写真を送ってあげたらどうかな。こっちに来てからの椿くんがどんな様子なのか見たいかもしれないじゃん」


 そう言いながらスマホを返してくる。


 椿はアルバムを開いて自分で撮った写真を眺めた。何を送ったら喜ぶだろうか。


 佐和子に喜んでほしかった。


 スクロールして、去年の今頃の写真を探した。

 ややして、目的の写真が出てきた。

 向日葵と撮ったウエディングフォトだ。白いドレスに身を包んで嬉しそうに笑う向日葵の隣に、白いタキシードを着た自分がいる。

 この写真を撮った時、自分は幸せだった。今もずっと幸せだが、この写真にはそれを収めた気がしていた。


 送信した。


 すぐに既読がつき、返事が返ってきた。


『ありがとうございます。』

『あなたの幸せが私の幸せです。』

『向日葵さんにも心から感謝します。』


 椿は少し泣いた。





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