第8話 金木犀
池谷本家から数百メートルのところに分家の人々が住んでいる。向日葵の祖父の弟、向日葵にとって大叔父に当たる人の家らしい。そこも姓は池谷なので、互いに自宅のある地区名で呼び合っている。
その分家に大きな白い犬がいる。世界最大級の犬種グレートピレニーズだ。メスで、名前をベリーという。
犬は体が大きいほうがおとなしいという俗説がある。その例にたがわずベリーもおとなしくて温厚だ。人間が好きで誰にでもしっぽを振るが、自分がけた外れに大きい犬なのは認識しており、急に跳びかかることはない。
ある時椿が分家の嫁――といっても椿の姑である向日葵の母よりひと回り年上の女性――と運動不足解消とセロトニンの生成のために散歩を心掛けているという話をしたところ、ついでにうちのベリーも散歩させてくれないかと言われた。ベリーはもともと彼女の息子――向日葵にとってはまたいとこ――が飼い始めた犬だが、その息子が東京で就職してしまって帰ってこず、毎日散歩で苦労しているという。
夕方一時間四キロ弱の散歩道だ。
これで一回千円出すと言われたので、椿はのった。学生のバイトよりはちょっといい時給、一日たったの一時間、夕飯の準備の前の暇な時間帯、健康づくり、話題づくり、基本的には室内飼いのベリーは糞尿は自宅のペットシートの上でするので椿が処理をする必要はない。いい仕事だ。
というわけでここ一ヵ月ほど不定期でベリーの散歩をしているのだが、本日それに向日葵がついてきた。
二人と一匹で歩く夕暮れの田舎道、暮れゆく太陽に乾いた風――なんと平和で幸福な情景だろう。
歩きながら向日葵が近所の家々を紹介してくれる。ここで生まれ育った彼女にとってこの辺の古い家はみんな自分を可愛がってくれるじいさんばあさんの家だ。新築のアパートや戸建ては把握していないらしいが、それは彼女が中学卒業とともに行動範囲が広くなって逆に近所を歩かなくなったためである。
「あっ、花咲いてる。白くてちっちゃな花いっぱい、可愛いねえ」
ひとの家のブロック塀を乗り越えて咲く木の花を幼女のように指さす。そんな彼女が可愛くて愛しくて椿は微笑んだ。
「イチゴノキやな」
「いちご?」
「食べるいちごはバラ科で、イチゴノキはツヅジ科なんや。野いちごみたいな実がなるからイチゴノキなんやて」
「よく知ってるね」
「実家の庭に植えられてたしね」
無駄に広い庭には病弱で屋敷の外に出られなかった椿少年のために造園業者がいろんな樹木を植えては丁寧に解説してくれていたのだ。
向日葵がまた別の家の木を指さす。生垣に白い花が咲いている。小さな花が群生するイチゴノキとは異なり、大きな白い花が点々としている。
「あれも知ってる?」
「あれは
「これが山茶花かあ。名前はよく聞くけど実物認識するの初めてだな」
「こういう生垣に使うのはたいだい山茶花か椿やな。両方ツバキ科なんやけど。冬も葉が緑でつややかなのはだいたいツバキ科やねんな」
「ふうん。椿くんも冬生まれだもんね」
「僕が生まれた時庭に真っ赤な椿が咲いとったってみんな言うてはったよ」
ふふと小さく笑う。
「ちなみに椿の花言葉は『完全なる美しさ』らしいで」
「それ自分で言ってて恥ずかしくない?」
「よかったー反応してもろて。スルーされたら百万倍恥ずかしかったわ」
「向日葵の花言葉って何だろ。アホっぽい言葉だったらやだな……子供の頃よく能天気な名前だなってからかわれてたんだよね……」
椿はあえて「何やろね」とごまかした。『あなただけを見つめている』『あなたはすばらしい』『あなたを愛している』――まっすぐ太陽に向かって咲く向日葵の花言葉は情熱的で、太陽への愛と尊崇のまなざしを表現するものが多い。何度太陽になりたいと思ったことか。向日葵の花言葉は彼女の愛を独占したい自分の願望のように思えて羞恥を呼び起こした。
「秋の花、秋の花かあ……」
住宅地を抜けて田んぼの真ん中に出る。この季節の田んぼは何にも植えられておらず乾燥している。
「そういえばこの辺金木犀って見ないな。小学校には咲いてたと思うんだけど、うちの近所だとどこに植えられてるかな」
「植えられてたら匂うからすぐわかるやろ、思い当たらないってことは近所にはないんやろ」
「椿くんちにはあった?」
椿は苦笑した。
「臭くて臭くてかなわんとおもて抜いてもろた」
ベリーが舌を出しながら機嫌良さそうに歩いている。彼女は一日一時間のいっときだけ椿が自分の仮の主人になることをよくわかっていて椿の足元を離れない。
花咲く平和な秋の夕暮れ、空気は爽やかで濃密な臭いはどこからも漂ってこない。
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