第2話 屋上

 今日は早朝からよく働いた。茶畑に実がなっているかチェックする仕事をしたのだ。


 お茶の木には白い花が咲く。

 お茶農家にとって本来この花は大敵だ。実をつけるために養分を吸い取ってしまうからだ。したがって普通の茶畑ならつぼみのうちに剪定するため花を見ることはない。実がなるお茶の木は野良の木だ。


 しかし今年向日葵はあえて一部の花を残した。

 オーガニック化粧品を好む層がお茶の実のオイルを欲しがっていることを知ったからだ。


 例年なら嫌われるお茶の実を、今年はあえて作ってみようか。


 これからの農家はそういうところにも敏感でなければならない。経営の多角化だ。お茶の木を栽培できる地域は地球の温暖化により年々広がっている。もちろん緑茶の味にも自信はあるが、競争が激化している産業で価格を維持するのは並大抵のことではない。


 しかし農家とは日の出とともに活動を始め日の入りとともに活動を終える職業である。秋番茶の収穫を終えて閑散期に入ったお茶農家ならなおさらだ。


 午後三時、早々に日が傾いてきたのを感じた向日葵は、茶畑のある高台から里へ下りてきた。コンビニでおやつとしてチキンとポテト、温かいペットボトルの飲み物を買う。そしてその足で原っぱに向かう。


 戦国時代の駿河国根古屋ねごやの地、今でいうところの沼津市の西のほうに、かつて興国寺城こうこくじじょうという山城があった。戦国時代前期の梟雄北条早雲ほうじょうそううんが若い頃に建てた城だ。

 つわものどもが夢の跡、今は土塁を残して何もない。中腹に穂見神社という小さな祠のような社はあるが、全体としては草木が生い茂る公園みたいな存在で、近所のご老人たちがくつろいでおしゃべりをしたり熱心な北条早雲ファンが記念写真を撮ったりするだけの場所だった。


 駐車場――といってもやはり駐車の目印になる白線もロープもない、もとは城の一部であった平らなところ――に愛車である黄色の国産軽自動車を止める。


 向日葵が運転席から下りると、助手席から夫の椿も下りてきた。今日の彼は黒いハイネックのシャツの上に渋い茶色の長着、スニーカーというラフな恰好で手にコンビニのレジ袋をぶら下げている。ホットスナックの包み紙をそのままごみ箱に入れられるようあえてレジ袋を買ったのである。


 穂見神社の前に木のベンチが置かれている。そこに二人並んで腰かける。ペットボトルのふたを回して開け、口をつける。


「ええ眺めやなあ」


 椿が微笑んだ。


「海が見えるやん」


 自分が褒められたような気がして、向日葵は照れ隠しで笑った。


「ここでならゆっくりできるからね。本当は畑に帰ったほうが標高は高いんだけど――」


 椿と二人でいるとお茶栽培関係者にからかわれるので逃げてきたのだ。田舎の中高年は容赦がない。繊細な椿にあれこれ突っ込んでしょうもない傷をつけてほしくない。


 沼津の街の日が暮れていく。空は見事なグラデーションになる。中天は夜の紺、わずかな雲のかかる層は紫、茜色に輝く雲、オレンジ色の空の端、黄金に輝く海――手前の木々は真っ黒な陰になる。


「ハワイみたい」


 椿が言った。


「ハワイ行ったことあんの?」

「ない。けどラッセンの絵がこんな感じなん。なんやその道の人はラッセン馬鹿にしたはるけど僕は好きやで」

「ラッセン? 画家?」

「後でググり」

「今ググる」


 パーカーのポケットからスマホを出すと、椿に取り上げられた。またパーカーのポケットに押し込まれる。


「後でて言うてるやん」

「なんで?」

「今は夕焼け眺めるのに集中したいやろ」


 ロマンチストだな、と思ったが指摘しなかった。感傷に浸りたい気分なのかもしれない。向日葵は無言で袋からチキンを取り出して食べた。彼が満足するまで眺めさせてやろう。

 椿はそんな向日葵のほうをちらりと見て「すごい油やな」と文句をつけてきた。


「キスする気失せるやん」


 向日葵は顔をしかめた。


「こんなとこでそんなことしたらまたご近所さんに池谷さんちの若夫婦はって言われるら」

「のどかなところやからね」

「日本の首都括弧笑いのご出身の方からしたら刺激が少ないさね」

「日本の首都も幕末で時が止まったし日が暮れたら真っ暗やぞ」


 日が落ちていく。秋の儚い太陽が今わの際に最後の光を放つ。


「……おもしろい?」


 尋ねると「うん」と返ってきた。


「どこもこんなもんじゃないの」

「沼津のありがたみをわかってへん」

「高校の屋上からはもっとすごい景色が見えたよ。沼津の街が一望できるの。寒い中友達とジュース飲みながらおしゃべりしてさ、完全に日が落ちるまで」

「高校かあ」


 椿がぽつりぽつりと言う。


「ひいさんの高校時代に僕はいいひんのやなあ」

「あったりまえでしょ大学で知り合ったんだからさ」

「僕の知らないひいさんがこの世に存在したというのが寂しい」


 ついつい彼の頭を撫でてしまった。可愛くて、いとおしくて、それから少し切ない。


「今度高校も遊びに行こ」

「部外者立ち入りできるん?」

「卒業生だからいいんじゃん? 最悪学園祭に紛れれば入れるよ、地域の知らない人いっぱい出入りするからだいじょうぶ!」

「そういう大雑把なとこ沼津って感じやな」

「どういう意味だ!」




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