転調

 振り返っても、ミク先輩もルカ姐もこちらを見ていない。

 ルカ姐は私が飲み干したグラスを片付けているし、ミク先輩はコップを唇につけてる。ことり、とカップが音を立てる。静かなバーの店内に、その音が響いた気がした。


「座りなさい。……ねえ、ルカ。ミムに新しいものを出してくれる?」


「……………………」


 ルカ姐がなにも言わずに銀色のシェイカーを取り出した。私は静かに、ミク先輩の有無を言わさぬ言葉に従う。男の人がイスを引こうと近寄るが、私はそれを手で制して、自分でイスを引いて座った。ルカ姐が目配せすると、彼は何処かへ去ってしまった。


「……………………」


 ルカ姐がさっきとは違うカクテルを私に差し出す。

 私はミク先輩を怒らせてしまったんじゃないかって不安になっていた。

 少し緊張してしまって、どうも、とは言ったもののそれに手を出せない。そもそも、帰るつもりだったし。


「あの……、先輩、なにか気に障ったのなら謝ります。でも私は、やりなおせないから、人生だと思ってます」


 きっと先輩は、アイドルをやめたことを後悔していないのか、って意味で、私に聞いたんだと思う。だとすれば、私の返答はこうだ。アイドルには未練はない。今の生活で不満を思っていることなんて、自分の引っ込み思案でネガティブで、自信が持てない性格以外には、これといってない。


 ため息が隣から聞こえた。


「そういうことじゃないの。ホントに、実際に……、あの時代に、17歳だったあの日に戻って、人生をやりなおしたいって思わないかって聞いてるの。……私には、それができるから」


「……………………?」


 理解できなかった。先輩、なに言ってるんだろう、ってしか思わなかった。でもだんだんと、酔いが醒めていくような感じがして、ミク先輩が言った言葉が脳に浸透していくような感覚に襲われる。

 そんな最中に、先輩が言葉を続ける。


「別の時間軸の話をするわね?……あるところに、日本一のアイドルユニットになることを目指している双子がいました。彼らは絶対的なアイドルに対抗心を燃やしていましたが、そのせいでいつの間にか仲が悪くなり、仲違いして解散してしまいました。小さい頃からアイドル活動しかしてこなかった二人は、一人ずつでは生きてはいけませんでした。最後に私に会った二人は、どちらも衰弱しきっていて、見れたものではありませんでした。私は、この二人を救いたいと思い、一人でトップアイドルになるのはやめようと思って、人生をやり直すことにしました」


 こちらも見ずに、ミク先輩がそんなことを話し始める。なんだか、私はそれが……


「あるところに、お酒が大好きな……、自分の命よりも大好きな、英語が堪能な美しい女性がいました。彼女の歌声は、いつだって人々を魅了してやみませんでした。でも、彼女は自分の命よりもお酒が好きだった。そして孤独でした。寂しさを紛らわすようにお酒を飲み続けて、その声も、精神も、自分の身体さえも、失ってしまいました。自分の命さえもね。私は、次は彼女を孤独にさせないように、人生をやり直すことにしました」


 怖かった。淡々とした口調が。それが嘘ではないと思わせる言葉の重さが。温度を感じない、薄い照明が影を落としている表情が。なにも言わずに、グラスを淡々と拭いているルカ姐が。


「あるところに、歌が大好きな緑色の髪をした女の子がいました。彼女は自分の才能を疑っていませんでした。いつだって、彼女はトップアイドルでした。何度人生をやりなおしても、彼女は歌手になることだけは諦めたりはしませんでした。彼女は、記憶をそのままに時間を巻き戻す歌を唄うことができました。その力を使って、彼女は大切な仲間を救ってきました。……でも、一人だけ、救うことができない仲間がいました。……私は、正直に言うと、本当の最初の人生で、アイドルじゃなかった。あなたが、正真正銘のトップアイドルだった。私は、あなたに勝つことはできなかった。でも、あなたがアイドルじゃない未来にだけ、私の夢が叶う未来があった。それが…………、今なの」


 マグカップを両手で撫でながら、ミク先輩はゆっくりと振り向いて、私の目を見つめた。


 潤んでいた。


 少し悲しげで、それでいて、彼女の魅力が如何なく表現されているとしか言いようのない、まるで宝石のような碧眼。その宝石が、私を見つめている。


「……………」


 どのくらい、そうしていただろう。一瞬のようで、永遠のような時間。

 目を伏せたルカ姐が、真っ白い布巾でグラスを磨く音すら聞こえてきそうなくらいの、静寂。

 すべてが、時間さえもゆっくりと流れていそうな緩慢な空間で、私の頭はしっかりと、はっきりとしている。


 微笑むことができたことには、自分でも、驚いた。


 私には分かる。ミク先輩の言っていることが嘘ではないということが。


 私には分かる。彼女がアイドルになれない。歌をみんなに届けられないというその悔しさが。


 私には分かる。自分のプライドと、私の人生を天秤に掛けなければならなかった彼女の苦悩が。


 私には、そういうのが、みんな分かったような気がした。


「ミク先輩が、泣く必要はないと思います」


 私は彼女から視線を外すことはしなかった。はっと、いま気が付いたような表情をして、ミク先輩が慌てて目尻を細い指先で触る。


 それが、私にはなんだか、すごく可愛く思えた。


「なっ……泣いてなんか…………」


 そんな強がりのセリフでさえも。


「私は、今の配信者のリンちゃんとレンくんが好きです。パソコンでいつも視る二人は、いつも輝いているから。私は、今の歌ってるルカ姐が好きです。……お酒を飲んでるルカ姐も。だっていつも、ルカ姐は美人でカッコイイから」


 自然と、私の口が、そんな言葉を紡ぐ。脳から、心から直接、言葉が出ているような感覚を、確かに感じながら。


「私は、スターでいつづけてくれるミク先輩が大好きです。いつだって、ミク先輩はみんなの憧れで、みんなの注目の的で、みんな大好きで…………。ずっと、いつまでも輝き続けてくれてる。そんな貴女が、私は大好きなんです」


 瞳に熱を感じる。声が震えそうになるのを、私はぐっと堪えた。


「そんな……っ、私は、この能力を使って成功を横取りしてるっ、ただ卑怯なだけの……っ!」


 私が首を横に振ると、ミク先輩は言葉を飲み込んだ。首を振った拍子に、なにかがポロリと目尻から落ちた気がした。


「……そして、私はやっと、ちょっとだけだけど、自分自身を好きになることができたような気がします。もう手の届かない、世界一の私のスーパースターに…………、ほんの少し、ほんのちょっとだけでも、畏れられていたことが、ライバルとして見てくれていたことが、私は少しだけ、誇らしいって思います。私は、この気持ちを大切にしたい」


「ねえ、ミク?……だから言ったでしょう?ミムちゃんはそんなこと、絶対に望まないって」


 いつの間にか、ルカ姐も泣いている。声をちょっと震わせながら、ミク先輩に悪戯顔に笑ってそう告げた。


「だってミムちゃんは昔から、自分よりも周りの人を……、ちょっぴり傲慢で、少しだけ不遜な貴女でさえも、すごく大切に考えて、想っていたもの。……そういう、優しい女の子なんだもの」


 そんなことを言いながら、誰よりも優しそうな視線を、私に向ける。私はその声に、微笑みを返して、いまにも泣き出してしまいそうなミク先輩に顔を向けた。


「だから私は、これっぽっちも、人生をやりなおしたいなんて思いません。きっとこれからも、そう思うことはないと思います」


 ミク先輩が目を見開く。


「でも……っ!でも、私はっ!」


 分かってる。分かってるよ、ミク先輩。


「赦します。……私は、ミク先輩を、赦します」


 ミク先輩も、ホントは優しい人だから。だから、罪悪感に押しつぶされそうなんだ。自分の成功が、他人の犠牲の上になっていることを、誰よりもよく知っているから。

 不器用で負けず嫌いな先輩のことだから、きっとそれを、何十回、何百回と、失敗しながら繰り返してきたのだろうから。


「う……うぅ……、ふ、ふぇ……」


 あんなに上品で、キレイで、誰よりも輝いていた彼女の表情が、くしゃりと崩れた。


 言葉は悪いけれど、ちょっと不細工なその表情すら、私にはとても、可愛らしくて仕方がなかった。


 立ち上がって、ぎゅっと抱き寄せてしまうくらいに。


「もう、泣かないで下さい…………。先輩は……、ずっと、今までも…………、これからも、私の憧れなんですからね?」


 きっと私は、この思い出を一生大切にするだろう。


 歳を取って、おばあちゃんになって、ちょっとボケたりしちゃって、自分のことすらよく分からなくなってしまったとしても。


 この思い出を胸に、これからを生きていく。


 生きていける。


 そう、漠然と私は悟った。

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