巡音
いや、1杯2,000円以上もするカクテルってなんだよ?
あ、ごめんなさい。あまりの値段に、ちょっと素が出ちゃった。
ミク先輩との待ち合わせ場所は、最近3軒目がオープンしたバーの『Rip Release』1号店だった。歩きながら飲食店評価サイトで調べてみたらこれだ。ミク先輩のことだから、きっと奢ってくれるに違いないんだけれど、月の稼ぎが歌姫と比べればミジンコの涙ほどの私には、敷居が200mくらい高い。
一度、家に帰ってから来ればよかった。黒いミュールと白いロングスカートに黒いブラウス。その上に1万円もしない深緑色のコートを羽織った私は、どこからどう見ても庶民そのもの。まあ、家に帰ったとて大きく変わりはしないのだけれど。
視力に影響しそうなくらいネオンが眩しい大通りをコツコツ歩いて、目が回りそうになるくらい人が行き交う交差点を渡る。通りを逸れたはずなのに、まだ人々はその量を加減しない。車や通りが発する騒音に、だんだん気分が悪くなってきた。
目当てのお店にやっと到着する。
高級店ってなんでこう、庶民を寄せ付けないような雰囲気にお店をするのかな。
真っ黒な外装。怖いくらいに四角い建物。威厳のありそうなツヤのある木製の古めかしいドア。やってるんだかやってないんだか分からない、微かに光を発している小さな窓。そして、本日貸し切りの文字。
「は?」
本日貸し切りの文字。
「……え?」
目を擦ってみても、その英語の筆記体みたいなオシャレな文字は変わらなかった。
ああ、そっか。ミクさんとの約束は、きっと今日じゃなかったんだ。あの人も女優で歌姫で、それで忙しいから、きっと間違えて伝えちゃったんだろう。よく考えればそうだよ。今日の午後に連絡があって、今日の夜から一緒に食事なんて、大物芸能人でスーパースターの彼女が、そんなワガママなことするわけないじゃん。
踵を返そうと足に力をこめた時だった。
木製のドアが開いて、中から小綺麗なワイシャツを着た給仕姿の男の人が頭を下げながら出てきた。
「奏音ミム様ですね?お待ちしておりました。オーナーが中でお待ちです。……どうぞ」
ドアの前で深々と頭を下げながら、右手をドアの中へと向けている。私は不意をつかれて、道の真ん中で身体のバランスを保つのに必死になってしまった。慌てて居住まいを正して、案内に従う。
そうそう。そうだった。
ミク先輩は昔から誰よりもワガママだった。ワガママ選手権があったら、世界一になれるくらいの人。つまり、この店を今日、貸し切りにしたのも彼女だろう。本当にすごいことをする人だ。そして、それができる人でもある。少しだけ恐怖を感じるくらいだった。
ちょっと待って。……オーナー?
あえて照明を抑えた、少し暗い廊下を抜けると、カウンターとテーブルがいくつか置かれた、広くはない、それでいて無駄の一切ない店内に到着した。
「あら、久しぶりじゃない。いらっしゃいませ」
「嘘でしょ……、
艶々した薄桃色の髪。
ルカ
「あら、貴女が来るっていうんだもの。私がいたら、おかしい?」
英語を
彼女の歌声が、全米を魅了したのは7年前のこと。その半年前に、アメリカのテレビのオーディション番組の1回戦で、審査員にビルボード1位を取るって啖呵を切った映像は、今でもたまに日本のテレビで放送されている。
それを、彼女は有言実行した。
日本で初めての、ビルボードアルバムチャート1位達成者だ。
「おかしくは、ないですけど……、び、びっくりしちゃって…………」
拠点は基本的にアメリカだから、年に1回、数日くらいしか日本には帰らないと聞いている。いつも帰ってくるとマスコミが騒ぐっていうのに、今回はそれがなかった。秘密裏に帰国したのだろうか。私のために?いやいや、ミク先輩のためはあっても私に会うためってことはないだろう。
「あなたに会えるってミクが言うから、内緒で帰ってきちゃった」
数秒間、立ち尽くしてしまった。ルカ姐からの「嘘だけどね」を、私はしばらく待っていたのだけれど、ついぞその言葉は彼女から出てこなかった。
長めの間に、姐さんが首を微かに傾ける。それさえもまるで映画かドラマのような仕草に見えて、私はさらに委縮してしまう。
「ご、ごめんなさいっ。ちょ、ちょっと、住む世界が違うっていうか、なんていうか……。どうすればいいか分からなくなっちゃって」
「うん。早くここに座ればいいと思う」
給仕の男の人が、ルカ姐のまえの高いイスを音もなく引いた。私はまるで自分の物じゃないように見える足を、なんとか動かしてそちらに向かい、バトル漫画の白いマントくらい重く感じる上着を男の人に預けて、どうにか腰掛けることができた。
「……懐かしい。もう10年前かしら?二人ともお金がなかったから、ツナ缶をアテにして、社員用アパートでよく呑んだわよね?あなたよく酔っぱらって、ミクちゃんのグチ言ってたの、覚えてる?」
その話題はやめましょう。二人とも10代だったような気がします。何回も社員さんに見つかって怒られたことも全部、私は覚えています。私はいつもジュースみたいなお酒だったけど、姐さんはずっと日本酒だったことも。
「覚えてますよ。……ルカ姐、ツナ缶が大好きでしたもんね?」
「え?今でも好きよ?」
瞬間。
遠い昔の思い出が、まるで目の前に広がったような感覚が襲った。
バーテンダーのテクニックとでも言うのだろうか。
いや、もともとルカ姐とはウマが合うというか、あまり芸歴も変わらないすぐ上の先輩だったから、話しやすかったんだっけ。
ちょっとだけ二人で見つめ合う時間があって、示し合わせたように二人で声を出して笑う。
姐さんが手元のマドラーを回転させると、いつの間にかグラスにはキレイな色のカクテルが出来上がっていて、彼女はそれを私の目の前、一枚樹のカウンターに静かに置いた。ルカ姐と同じ髪の色をした、引き込まれそうなくらいに可愛いカクテルだった。
「あの……、私って今日、なんでミク先輩に呼ばれたんでしょう?」
その質問に、ルカ姐の背後で威圧感を出しながらたくさん並ぶお酒に向かって、静かに踵を返してお酒を選びながら、
「さあ、なんでかな?私は、ミムちゃんが来なかったら、この店を貸し切りにさせるつもりもなかったけど」
なんて、早口で呟くように答えて、
「ふふ、医者に止められてるから久しぶりのお酒なの。ねえ、ミムちゃん?マッカランと響、どっちがいいと思う?」
なんて、あからさまに話題を変えてきた。
そういや、ミク先輩とルカ姐さんって、あんまり仲が良くなかったように記憶してる。私が事務所に入る前は、一緒に活動してたり、二人でキスしてるのを見たって噂が出るくらい仲が良かったって聞いたことあるけど、私が入ってからはそうじゃなかった。同じ空間に一緒にいても、二人ともあまり話そうとしてなかった。なのにどちらかが必ず、どちらかのためにお茶を持って来たり、お菓子をお互い、何も言わずに目の前に置いておいたりしていて、変な関係だな、と思った記憶がある。
「ごめんなさい。お酒のことは……、よく分からなくて」
「いいのよ。ミムちゃんが選んでくれたってことに意味があるんだから。……どっち?」
「じゃあ、仮面ライダーみたいな名前の方で」
「……うんっ。私もそうしようと思ってた」
両手で撫でるように小さな瓶を持って振り返ったルカ姐の顔は、10年前とぜんぜん変わらない、気高くて、美しくて、最高に綺麗な、お人形さんなんかよりずっとずっと可愛い、観るものを魅了する最高の微笑みだった。
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