MEME~忘らるる君へ~

東北本線

奏音

「なあ、ハープちゃん。……なにか、唄っておくれ」


 目の前で今年89歳になる車イスのおじいさんから、そんなことを言われた。緑内障と白内障で、すこし色が変わったその瞳が私を見つめている。

 職場でのニックネームで呼ばれたものだから、すぐには身体が動かなかった。でも、正直に言うと理由はそれだけじゃない。


 歌。


 たった2文字の言葉なのに、背筋を虫が這っているような、ぞわぞわとした感覚がずっと消えない。

 思い出す、あの日。

 人々の厳しい視線。

 激しい罵声。

 無力な私。

 なにもできない、もどかしさ。


 あの未曾有の大災害からもう10年も経ったのに、今にも膝が震えだしそうになる。


 おじいさんは私の変化に何も気が付いていない。ゆっくりと細い腕が上がり、黒いマイクが私に向かって差し出される。皺だらけの白髪の顔を、私は見ることができなくて、思わず目を逸らしてしまった。

 きっと、悲しい顔をされているに違いない。それも、つらい。


「カイさん。前にもハープちゃん言ってたじゃないか、歌が苦手なんだーって。まーた忘れちゃったのかい?」


 介護用テーブルの向こうから、カイさんより年上で、周りのおじいさんやおばあさんを仕切っている施設最高齢のメイさんが、よく通る声を張り上げた。


「ええ?……そんなこと言ってたかな?」


 カイさんに視線を戻す。恥ずかしそうにニヤけて、


「すまないね。いやはや……、この歳になると忘れっぽくていけない」


 そんなふうに言って白髪を掻いている。


「カイさん……、すみません」


 声が震えないように注意しながら、私はやっとそれだけ返すことができた。


「ふーむ。で、お昼ご飯はいつなのかな?」


 ああ、始まってしまった。カラオケをするって言った時は目を輝かせてマイクを握ってくれたのに。その瞳にあった光が、カイさんの目からどんよりと失われていく。


「あーもう!カイさんっ、しっかりしておくれよっ!お昼ご飯はさっき……」


 いけない、と思うよりも早く、身体が動いていた。二人の間に割って入り、私は顔に笑顔を張り付けて、カイさんに微笑みかける。


「もう少ししたら、ご飯が出てくると思います。それまで、カラオケしましょう?私、カイさんのお歌、お聞きしたいです」


 こういう時に、介護士が大切にしなきゃいけないことは、認知症高齢者の自尊心を傷つけないようにすることだ。私の場合は、どうにか話題を逸らすことにしている。病気の人に、自分は病気だと認識させることほど酷なことはないし、脳の機能の問題で認知症の人は感情を抑えられないことも多い。急に怒り出してメイさんとケンカになってしまったり、逆に泣き出してしまう人だっている。認知症の相手の言動を否定することに、なにも意味はない。

 そんな相手の間違いを指摘したり非難するようなことは、ことに介護の世界では絶対にしてはいけないのだ。


 背後で、メイさんがはっと口を抑えるのが分かる。彼女も認知症ではあるものの、歳相応の物忘れと変わらない程度で、どちらかというとしっかりしているかただから、こんなふうに察してくれるのも分かっていた。アイドルの経験と比べて、10年間の介護経験は、どうやら無駄にはなっていないらしい。


「ああ、そうだったね。いやはや……、この歳になると忘れっぽくていけない。で、ええっと……、なにするんだったっけな」


 デジャブかと思う、カイさんの口癖。しかしこれが出れば、一旦話題はリセットだ。


「……カイさん。ハープちゃんが一緒にカラオケしようってさ」


 メイさんが私の背中から声を上げる。それでようやく、カイさんの瞳に光が戻った。


「おお、そうか。オレもメイさんも歌が大好きだからな。なあメイさん、今日も一緒に唄ってくれるかい?」


「ふふん、もちろんだよ」


 どうにか、午後のレクリエーションを始められそうな雰囲気になった。


 安堵した胸のうち。

 だけど、どこかに棘のような微かな痛みを感じてる。10年前から、ずっと。私がいちばん綺麗だった時。青春を捧げた、あの日々のことを、私はこんな時に思い出す。





 私が何も知らない、何も分からない、なのに世界をぜんぶ知った気になっていた10代の頃。まだ私は高校を出たばかりで、事務所の先輩とよく一緒にテレビやラジオ、黎明期だったネット番組なんかにアイドルとして出演していた。


 そんな時に大震災があって、この国は天井をひっくり返したような大変なことになった。それから、まだ1ヶ月も経っていなかった時期だったと思う。


「ボランティアで唄って踊ってくるなんてどうだ?もちろんギャランティはないが、良いイメージが付くし、テレビやネットなんかが取り上げれば名前も売れるだろう?」


 マネージャーがそんな提案をしてきた。いつも一緒に活動していた先輩は、時期尚早だと言って断ったらしい。


 当時、私は尖っていて、常々、一人のアイドルとして単独でも活躍できるって信じて疑っていなかった。だから私はその話に二つ返事ですぐに喰いついた。


 被災地のことはもちろん、あの怖いくらいの自粛ムードのことなんか、これっぽっちも知らなかった。


 いまなら分かる。

 いま思い返せば、それがいけなかった。

 そんな下心で、そんな軽い気持ちで、動いちゃいけなかったんだ。神様が、そんな薄っぺらな私に、罰を与えたんだって、そう思う。


 空港も特に壊滅的な被害を受けていたから、隣県から車で南下して、私は沿岸の町で、肌の露出が多いフリフリの衣装を着て舞台に立った。舞台と言っても、炊き出しのテントに挟まれて、その奥で人を集めて、簡易なアンプとマイクで唄っていただけ。


 CDが出たばかりのオリジナル曲を2曲、唄い終わった時にそれは起こった。


「おいっ!支援物資がもうないってどういうことだ!歌なんていいから、早く炊き出しをしろよっ!」


 そんな声が向こうのテントから上がった。


「歌だけ唄いに来たってのか!?状況を考えろよっ!この惨状が見えないのかっ!?ここにはなぁ……、この場所には、俺の……、俺の家が…………、俺の…………、か、家族が…………」


 ずっと、見えていたのに、見ないようにしていた。

 ぺしゃんこになった原型のない車がいくつも、錆びたまま放っておかれていた。たくさんのガレキと泥。映画でしか見たことのないような、崩壊した家屋。饐えたようなニオイが、肌に不快な潮風と混ざって鼻を刺激する。海からはけっこう離れているはずなのに、遮蔽物がないから、潮騒の音がうるさいくらいに聞こえていた。


 その声がきっかけだったと思う。

 目が醒めたような思いだった。

 求められていないことに、私はやっと気が付いた。私なんて誰も見ていないし、視線はテントに集まっていた。気が付いてみると、すごく恥ずかしくて、ショックで、頭の中が真っ白になってしまって、なにも考えられなくなった。


「なにがボランティアだ!なにがアイドルだっ!ガレキの片付けも手伝わないのか!?売名だったらよそでやれっ!」


 それでも、まるで伝播するかのように人々の声は増えていって、大きくなって、私を呑みこんでしまいそうで、怖くて、ただ怖くて…………、


「…………っ!」


 私は逃げた。

 事務所が借りたレンタカーに涙を流しながら走って、逃げて、隠れて、泣きじゃくって。


 どうやって帰って来たのか、今となっては、いや、当時もそうだったかな。もう思い出すことはできない。


 ネットニュースにもならなかった。いや、きっとネットニュースになっていたら、大炎上していただろう。もしかしたら、事務所が動いてくれたのかもしれない。でも、そんなことはどうでも良かった。


 私はこれを機に、芸能活動をやめた。引退会見や引退ライブなんかもしたくなかった。もう、マイクを手に取ることさえイヤだった。もう誰も、私の歌で笑顔になってくれない。そんな確信が、私の心に深く、深く深く、棲みついてしまっていた。

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