閑話 『夢』
「なんで、『夢子』って名前なのって? ふふー、それはね。夢みたいに素敵な人生を送ってほしいから、『夢子』にしたんだよぉ」
優しい声だ。
もうほとんど輪郭がぼんやりしているけれど、それでもかろうじて母の声だと分かる、懐かしい声。
でもこの声を聞くと嫌でも分かってしまう。自分が今見ているのは幻で、現実ではない、夢の世界なのだと。
声を遠ざけるように意識が浮上していく。顔もおぼろげな母が私の方を見ている気がした。
◇
小学3年生の時に父と母が離婚した。
きっかけは分からない。ただ、離婚した直後から母の男遊びが激しくなったことだけはよく覚えている。
私が家にいようといなかろうと母は見知らぬ男を家に上げた。それは2日連続で同じ人かと思えば、3日後には全く別の人間になっていることもあった。
離婚してから、母は私にめっきり興味が無くなった。
欲しい物があったら許容の範囲内で買ってくれたり、話し相手になってくれていた母は全ての時間と金を自分のためだけに使う様になっていた。
母はだんだん家を空けることが増えていった。
それでも私は母のことを信じていた。今は家にいてくれないけれど、いつか帰ってきてくれると。だがそれは私が勝手に抱いていた理想に過ぎなかった。
ある日突然、母が家に帰ってきた。
私は母が帰ってきてくれたことが嬉しくて上機嫌で母に話しかけたが、母は私の話など全く聞いていなかった。
一心不乱に箪笥にしまっていた通帳やジュエリー類をかき集めていたのだ。
私はそこでやっと、母がどこかへ行こうとしていることが分かった。
私は母に残ってほしくて駄々をこねたが、母は心底面倒くさそうな顔をしながら私を適当にあしらっていた。
耐えきれず母に抱きついた私を、母はなんの躊躇もなく着き飛ばした。
床にぶつかり縮こまる私を無視して、母は乱暴に玄関の扉を閉めた。母はそのまま帰ることはなかった。
「夢子、いい? 女は男のアクセサリーなんだよ。男の横で綺麗に着飾って生きていくのが一番、賢い生き方なんだよ」
玄関の扉が閉まる直前、母が吐き捨てるように言った言葉。
この時の記憶は酷くぼんやりしているのに、この言葉だけは何故かしっかり覚えている。今でも耳の奥にこびりついている。
◇
母に捨てられた私は親戚を頼ることになった。
母のことを嫌っていた母の両親は私を引き取ることに消極的だった。
他の親族も皆渋い顔をしているだけで首を立てには振ってくれなかった。母の妹も最初は私を引き取ることを拒否していたが、結局、私は母の妹家族に引き取られることになった。
というのも彼女の旦那が勝手に引き取ることを決めたらしい。
そんな状態で引き取られたからか、母の妹(私からすると義母ということになる。)と彼女たちの1人娘である義妹には引き取られてからずっと嫌われていた。
私を庇ってくれるのは引き取ることを決めた義父だけだった。
桂木の家に来てから私は空気のような扱いを受けていた。
それでもなんとか耐えてこられたのは味方になってくれる義父がいたからなのかもしれない。
でもそれも長くは続かなかった。
私が中学生に上がる際、義母は私の部屋にカギを取り付けた。
その時は理由が全く分からなかったが、「部屋にいるときと部屋から出るときは必ずかけるように」と強く念押ししてきた。
普段まともにコミュニケーションを取ろうとしない義母が直接こんなことをいうなんて、と驚いた。
義母の不可解な行動の
中学生になってからは、母のようにはなるまいと家にいても学校にいてもずっと勉強ばかりをしていた。
中学校も小学校と同じ学区域にあるため、同級生も小学校の時から変わらない。私の複雑な家庭事情は知れ渡っているらしく、率先して話しかけてくる人なんて誰もいなかった。
家でも学校でも空気みたいに扱われていて、そのことから逃げるように私は勉強ばかりしていた。
そんな生活のなかで、家に帰るのが嫌になったことが何度かあった。
その日も丁度そんな気分になってしまった日で、学校が閉まるぎりぎりの時間まで教室で勉強し、帰りも真っ直ぐ帰らず公園でぶらぶらと時間を潰していた。
気付いたら午後10時。
流石に補導されて義母に迷惑をかけるのも気が引けてとぼとぼと帰っていると、閑静な住宅街に男女の言い争う声が聞こえてきた。
どうやら音は桂木家から漏れてきているようだ。
なるべく音を立てずに鍵を開けて家に入る。
リビングではなく、2階から義母の甲高い声が聞こえる。しかも階段のすぐ近くからだ。そこの位置にある部屋は私の部屋なのに、義母と義父の声がするなんておかしい。
何だか嫌な予感がして、階段の死角から様子をうかがうことにした。
「前もそうだった!! あの女と不倫したかと思えば今度はその娘!? 頭おかしいんじゃないの!!」
「いや、俺は不倫なんか……落ち着いてくれよ、そんなつもりは……」
「どんなつもりだったのよ!! ここの部屋の鍵はあの子と私が持ってるスペアの鍵しかなかったのに!!! それ以外の鍵を作って入っているんでしょ!!」
「……」
「何か言いなさいよ!!! 自分の娘と同年代の子の部屋に入ってなにしようとしてたのよ!!!」
何かを強くたたく音、何かが割れる音、色んな音が響いているはずなのに何も耳に入ってこない。
嫌な汗が背中を伝う。
なんで、義父が、私の部屋に?
「あの子が、喜久子さんに似てるのが悪いんだ……!」
「やっぱり、あの女じゃないの!!! だから嫌だったのよ!!! あんな子引き取るだなんて!!」
「うるさい!!!! 元はといえばお前が!!」
声が一段と大きくなる。
どうすればいいのか分からず、階段下で息をひそめているとリビングから義妹が出てきた。
「うわー、帰ってきてた。てかまだあれ続いてんのかよ」
なんと言っていいか分からず、気まずそうにしている私に義妹は舌打ちをする。
「あんたとなんか話したくなかったけどさー。流石にこれは同情するわ。あんなクソジジイに夜這い未遂されてさあ!!」
同情する、と言っている割にはそんな節はどこにも感じられない。
義妹はニタニタと下品に笑いながら私を見ている。
「いやー、流石親子! 親子不倫なんて新しすぎて逆にびっくりだわ。マジウケるんですけど〜。でもあのクソジジイはほんっと生理的に無理だわ。お母さん早く離婚しないかな~」
苦虫を嚙み潰したような表情の私を見て、義妹は心底楽しそうに笑う。
私が嫌がりそうなことを故意に言っていることが表情から分かった。
何とか言い返そうと言葉を考えている私の耳に、パトカーのサイレンの音が入ってきた。
「あ。来た来た。10分前に通報したのに来るの遅すぎじゃね?」
サイレンの音が近づいてきて、家の前で止まる。
義妹が玄関を開けるとそこに2人の警察官が立っていた。
義妹は警察に簡単に事情を説明すると階段の上を指さした。
義妹の説明を聞くとすぐに警察官たちは階段を上る。あんなに近くからパトカーの音が聞こえてきていたはずなのに義父も義母も全く気が付いていないようで、警察が視界に入るまで彼らはずっと口論をしていた。
警察官が二言ほど彼らに話したところでやっと怒鳴り声が止んだ。
直後、1人の警察官に先導されて義父と義母が階段から降りてくる。
義父は私と義妹を交互に、義母は義妹だけをそれぞれ絶望しきった眼差しで見ていた。
まさか実の娘に通報されるとは露にも思っていなかったのだろう。
私は義父の視線から逃げるように下を向く。
途中、視界に入った義妹は何が楽しいのだろうか、依然として品のない笑みを浮かべていた。
次の日の早朝、義母も義父も何事もなかったかのように家に戻ってきた。
それでも家族間の溝は修復不可能なところまで来てしまったようで、家庭内で会話は一切発生しなくなっていた。
時たま義母と義妹が業務的な話をしていることもあったが頻度は以前よりも少なくなっていた。
事件の3日後、義父は記入済みの離婚届を食卓机に置くと、荷物をまとめて実家に帰っていった。
義母とは1度だけ、高校進学の際に話をした。
どうしても高校には進学したかったから土下座するぐらいの勢いで頼みこんだ。
成績優秀者は学費免除になる高校で、寮制のところを探して持って行ったのが功をそうしたのか、すんなりとOKをもらえた。(もちろん、入試費用や初期費用はのちに返すことが条件だったが。)疲労の色が濃くなった彼女の顔には「やっと厄介払いができる」と安堵の表情がにじみ出ていた。
やっとこの家から解放される。
心の底から救われるような気持ちだった。
中学校の卒業式の日に引っ越し業者を手配し、私はそのまま高校の寮へと引っ越した。
◇
高校生になってからの生活は初めて体験することの連続だった。
「初めまして。笹森結衣っていいます! よろしく!」
「は、初めまして。桂木、夢子、です。」
「夢子って可愛い名前〜! いいなぁ〜。あ、私のことは結衣でいいからね!」
入学式で隣の席になったのがきっかけで友達になった。
同年代の子とまともに話したことがなかったから、ちゃんと話せているか心配だった。
つまらない奴だと思われて嫌われてしまったらどうしよう、という私の心配は杞憂に終わった。
彼女は学校生活の部活動以外の時間のほとんどを私と過ごしてくれた。
昼休みに他愛無いことで笑い合ったり、お昼ご飯を一緒に食べたり。些細なことだけれど、彼女と過ごす時間は全てが輝いて見えた。
結衣は部活、私はバイトと放課後はお互い予定が合わないので休みの日を使って遊びに行った。
話題作の映画を見に行って、帰りにクレープをシェアしながら映画の評論をしたり、朝から晩までカラオケで歌い通したり。
結衣の友達と遊園地に行ったこともあった。
「初めて遊園地に来た」というと彼女たちは私を天然記念物を見るような目で見た。「楽しまないと絶対損だよ!」と、私が乗りたい乗り物にとことん付き合ってくれた。
今まで出来なかったことが当たり前のようにできる環境が嬉しくて仕方なかった。
もちろん成績優秀者の特待生制度で入学したので勉強も怠ることはなかった。
今までと変わることのないと思っていた勉強でも変化があった。
テストでも模試でも、結果を結衣達と報告し合う様になった。分からない問題を教えてあげることもあった。
一人ぼっちで勉強をしてきた私には友人と切磋琢磨し勉学に励むというのは漫画の世界だけだと思っていたから何もかもが新鮮できらきら輝いていた。
桂木の家から遠く離れたこの学校では、私の家庭環境を知る人は誰もいない。
今まで空気のように扱われてきた私が初めて、『人間らしく』生活できたのだ。
夢のような時間だった。
楽しさと驚きが詰まった高校三年間はあっという間に過ぎていった。
高校三年生の受験シーズンになり、部活を引退した結衣とバイトを控えめにし始めた私は一緒に過ごす時間がより一層多くなっていた。
結衣とは志望校も志望学科も一緒だったので自ずと話す内容も大学の話が増えていた。
「やっぱり、サークルにも入りたいな〜。うーん、でもバイトもしなくちゃだしな。やることめっちゃ増えるね」
「体一つじゃ足りなくなっちゃいそう」
「だよね〜。あと髪の毛! 染めたい! めっちゃ明るい茶髪にしたいんだよねぇ」
「大学デビューってやつ?」
「そ! そ! 夢子もデビューしちゃいなよぉ! 可愛い顔してるんだしさあ~」
「うーん、茶髪とか似合うのかな?」
「絶対似合うから! やっちゃいなよ! あー、でも一番したいのは恋愛かなぁ! ここ女子高だし、出会いはほぼ0%だったしぃ~」
「確かに。学園祭でも出会いほぼ0だしね。結衣はどんな人がタイプなの?」
「大人で優しい人、とか? キャー! 恥ずかしー!」
「意外なタイプ」
「えー! なんだとぉー! じゃあじゃあ、夢子のタイプは?」
「うーん。私を受け入れてくれる人、かな。」
「さっすが夢子。奥が深いね。哲人だわ」
「そんなことないよ」
「でも受け入れてくれる、って大事だよねぇ。分かる。あ! そうだ! この際だから、今まで打ち明けられていなかった話をして、お互いを受け入れるってどーかな!?」
結衣が突拍子もないことを言い始めた。彼女はいつもそうだ。
でもとても魅力的な誘いだった。
高校生になってから楽しいことがたくさんあったけれど、心の奥底で中学生までの嫌な記憶が足を引っ張ることがあった。
ここでは誰も私の事情を知らない。
こんな話をしてしまえば、また前のような扱いをされてしまうのではないかという恐怖があって話せなかった。
結衣と志望校は一緒だけれど同じ学校に行けるかも分からない。ここで話す機会を失えば二度と私の過去を打ち明けられない気がしていた。
「……いいよ」
「じゃ! 夢子から、どーぞ!」
結衣に洗いざらい話した。
最初はどんな話聞けるのかわくわくした様子だったのに、だんだん元気が無くなっていった。
学校行事に家族が全く参加していなかった理由を今まで、『家が遠いから』としていたのだが、それも全部嘘だと分かったのだろう。彼女は自分のことのように苦しそうな顔をしていた。
話し終わるころには結衣はボロボロ泣いていた。
引かれる覚悟はしていたけれど、泣かれるとは思っていなかったので面食らってしまった。子供のように泣く彼女にハンカチを貸し、彼女が落ち着くまで背中を撫でてやった。
私はこの時、結衣の反応を見てホッとした。
嫌われるかもしれない、と覚悟を決めたのに、彼女は私の為に泣いてくれた。彼女が私の親友で良かった。
自分をずっと偽って過ごしていたような気がしていたから、やっと喉のつっかかりが無くなったと感じていた。
でもこれは間違いだった。
打ち明けずにいたら、この後自分があんなに傷つくことはなかったはずなのに。
『後悔先に立たず』
やった後悔としなかった後悔ならばどちらの方が正しかったのか。
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