白夜の国のアリス

芦屋 道庵

クリスマスツリー


 客に引き渡されたのはイヴの夜だった。目に見えぬ鎖につながれ、かれて行く。待ち受ける運命を思うと、足が震えた。

 ベイエリアにそびえ立つホテルのロビーにはクリスマスツリーが飾られ、きらびやかな電飾が人々の目を楽しませていた。恋人たちが、家族連れが笑顔でスマホを構えている。笑顔、笑顔、笑顔、そして笑い声。三階まで吹き抜けの広大な空間に幸せが満ち溢れていた。

 私はツリーの天辺てっぺんにある大きな金色の星を見上げた。すべての人々を祝福する神の恵みのように、私にも光が降り注ぐ。

 私も祝福されているのだろうか。これからの一生で祝福を受けることなどあるのだろうか。ぼんやりと思いながら立ち尽くしていた。


 私には愛する彼がいた。大学進学のため北陸から上京してすぐに母方の親戚が結婚し、その宴席で十歳年上のビジネスマンに出会った。外資系の経営コンサルト会社勤務。長身で、仕立ての良い礼服を完璧に着こなしていた。茶の革靴はピカピカに磨き込まれ、寸分の隙も無い。柑橘系かんきつけいの微かな香り。隣り合った私にさりげなく気を遣い、的確に話題を合わせてくる。テーブルマナーがよくわからず困っていると、そっと助けてくれた。同年代男子のギラついた感じが苦手だった私は、大人の優しさと余裕にも言われぬ魅力を感じた。素敵な人だなあ。もっと話がしたくて、宴が果てる頃、バンジージャンプに挑むような覚悟で連絡先を交換してください、と言った。たぶん顔が真っ赤になり、最後は小声になっていたと思う。彼は笑いながらそれに応じてくれた。

 しばらくして、彼の会社近くで待ち合わせをした。春風が吹く中、彼はビシッとしたスーツ姿がいかにも戦闘服という感じ。私は、学校帰りのボーダー柄のカットソーとゆるいデニムスカート。あまりの格差に心底落ち込んだ。しまった。周りにはおしゃれな大人のカップルばかり。良く見てもせいぜい妹だよなあ。私といても、つまらないだろうな。そう思ったら泣きたくなった。そんな私を元気づけるかのように、彼はトラットリアへ連れて行ってくれた。

「アンティパストは生ハムでいい?ピザとパスタ、どっちがいい?」

「ピザがいいです」

「じゃ、マルゲリータにする?」

「六種類のチーズっていうのを食べてみたいです」

「よし、俺はパスタ、ぺぺロンチーノにして二人でシェアしよう。サラダと、あとでドルチェも頼もうね」

「はい、うれしいです。あ、でも……」

「どうしたの?」

「今日、あんまりお金が」

「大丈夫、ご馳走するよ」

「でも……」

「ま、今日のところは社会人の顔を立ててよ。飲み物はどうする?」

 それからいろいろな話をした。趣味のこと、学校の授業のこと、好きなファッションのこと、音楽のこと、北陸の実家のこと。

「何か特技はある?」

「えーっ、と。特に上手というわけじゃないんですけど、生け花は小さい頃からやっています」

「ほんと?すごいね」

「実家が料亭をやっていて一応旧家だったから、お花と、着物の着付けは習ったんです」

「そういえば、和風美人って感じがするね」

「美人、じゃないです」

「今はかわいいって感じだけど、二十歳くらいになったらすごい美人になるんじゃない?」

「そんなことないです」

「そうだ、今度うちに来て花を生けてよ」

 え、男の人の部屋に行くの?そこで花を生けて見せるなんて恥ずかしすぎる。でも彼は私に興味を持ってくれている、そう思うだけでたまらなくうれしかった。気が付けばすっかりリラックスして笑っている自分がいた。実際、彼は私の気分をアゲる天才だった。小柄で幼く見える私は、それまで女性として扱われたこともなく、恋愛についての経験値はほぼゼロだった。そんな私が大人の男性に優しくされて夢見心地ゆめみごこちになるのは、ごく自然なことだった。

「動物とか、好きかな?」

「はい、大好きです」

「じゃ、今度は水族館に行こうか」

 夢中でコクコク頷く。もう処女っぽさ丸出しだ。きっと彼もそう感じていたと思う。

 朝からいろいろな水槽やアトラクションを見た。彼と手が繋げてうれしかった。

「トンネル水槽、とってもキレイでしたね。頭の上を魚が泳いでて」

「夢の世界だよねえ。あれ、もしかしてここ初めてだったの?」

「ええ、連れて来てくれる人もいなかったので」

 ちょっとねた顔をしてみせた。

「楽しい水族館でしょ?」 

「はい」

 それって、誰かと来たってことだよね。胸がチクリとした。

「この前、姪っ子を連れて来たんだ」

「姪御さん?」

「姉貴の子で、いま三歳。可愛いんだ」

 私より?嫉妬してしまった。

「クラゲの水槽を不思議そうに見ていたよ」

「分かるような気がします」 

 もう姪っ子はいいから。

「君は、何が好きだった?」

 やっと私の方に戻って来た。

「イルカショーみたいに派手なのより、ほっこり系がいいですね」

「ペンギンとか?」

「あ、ペンギン好きです。そうだ、あとコツメカワウソが可愛かったな」

「カワウソか……」

「あのチョロチョロしてる感じがたまりません」

 彼はちょっと複雑な顔をした。

「カワウソって、ある意味人間に一番近い動物なんだよね」

「一番近い、って手先が器用なところですか?」

「いや、もっと深いところ」

 なんだろう、深いところって。

「まあ、やめとくよ」

「え、なんでですか?」

「君の夢、壊すかもしれないから」

「そうなんですか……?」

 よく分からないけど、言いたくないんだろう。その時は、深く気に留めなかった。


「そろそろ俺の部屋に遊びに来ない?前に言ったように花を生けて見せてよ」

 ほんとに生け花を見てくれるんだ。

「下手ですけど。いいんですか?」

「うん、頼むよ」

 はい、喜んで。

「あの、お花はどこに置きますか?」

「ダイニングテーブルが結構大きいから、その上に置きたい」

「じゃ、花器は大きすぎないほうがいいですね。テーブルはどんな色ですか?」

「アイボリー、かな」

「わかりました。頑張って考えます」

 次の週末、待ち合わせてアレンジメント用の花と花器を買った。自分の手で好きな人の部屋を飾る。その花を二人で選ぶ。なんて楽しいんだろう。初めて彼の部屋に入り、すごい緊張感を味わった。花を生ける私を、彼がじっと見ている。でも、距離が少し縮まったような気がした。

 それからの私は辛抱強い彼に見守られ、ゆっくりゆっくり成長することができた。人としても、女の子としても。私が嫌がることを、彼は決してしなかった。

「大人の女にはいつでもなれる。でも今の君にはいましか会えない。だから急がないで」

 それでも、早く彼に追いつきたい、彼と並んで歩いて行きたいという思いは、日に日に強くなった。優しくキスされたり、髪や肩に触れられたりする心地よさに、もっとその先を知りたくなる。

 合鍵をもらい、学校帰りに夕食を作りに行くようになった。彼のご飯を作っている。そして二人で食べている。頬が熱く、目が潤むような気がした。ただ、未成年だから、という理由でアルコールは飲ませてもらえなかった。子供扱いされているようで、内心不満だった。二人並んで、映画のDVDを観た。それでも、日付が変わる前には、しっかり私の部屋まで送られた。帰りたくないのに。もどかしさで胸が一杯だった。

 ある週末、彼が半日出勤している間に、白いバラのアレンジメントを作り、テーブルの上に飾った。彼の帰りを待つ間、頭の中に自分の心臓の音が響いていた。

「ただいま」

「お帰りなさい」 

 彼は花に気付いて、足を止めた。

「ああ、すごくきれいだ」

「ありがとう」 

 精一杯の笑みを浮かべる私。さあ、今日こそ気持ちを伝えよう。

「あの……」

「ん?」

「白いバラの花言葉、知ってますか?」

 彼はちょっと考え、そして言った。

「確か、純潔、だったような」

「その通りです。でも他にもあるんです」

「他に?」

 勇気を出しなさい、自分の背中を押す。

「私はあなたにふさわしい」

 彼の目をじっと見る。彼もまっすぐに見つめ返してくれた。

 その日、自分から望んで体を重ねた。すごく疲れてぐったりしたけど、心から嬉しかった。そして初めてその部屋に泊まった。

 彼と満ち足りた日々を過ごし、二十歳を超えてなんとなく将来を意識し始めた頃、ベイフロントホテルでクリスマスディナーを楽しんだ後、そのまま宿泊しようと提案された。

「その時、すごく大事な話があるから」

 真剣な眼差しを向け、両手を握ってくる。プロポーズかな?期待で胸が高鳴った。まだ二十歳になったばかりでかなり早いが、学生結婚になったとしても人柄も生活力も申し分のない彼となら、将来に何の不安も感じなかった。


 マーマレードのような幸せに浸っていた十二月の第二土曜日、前夜泊まった彼のマンションで私は目覚めた。彼がシャワーを浴びている間に朝食の準備をしよう。コーヒーメーカーをセットし、キッチンに行く前に、ソファで一息つく。昨夜寝不足になったので、思わずあくびを嚙み殺し、そのままウトウトしてしまった。携帯の着信音で起こされ、見知らぬ番号だったが出てみると、女性のきれいな声で、しかし衝撃的な内容が告げられた。

 実家の老舗料亭が破産し、父は心労で倒れ入院したという。話は急を要するので至急出て来て欲しいと言われた。とにかく早く、迎えに行くからと言われて、マンションの場所を伝えると、たまたま近くにいるので下まで降りて来て、と急かされる。後で考えれば、予め仕組まれたことだったと思うが、その時は動顛して深く考えずに行動してしまった。そこそこ裕福な家に育ち、上京後は優しい彼に守られて生きて来た私は、絶対的に世間知らずだった。コンシェルジュが座るエントランスを走り抜け、表に出ると黒いワンボックスカーが停まっていた。かたわらには先程の声の主と思われる秘書風の美しい女性が立っていた。

 彼女は私の名を確認し、車に乗るよう促した。何も言わずに出てきたので彼に連絡しようとすると制止された。

「止しなさい。彼に迷惑をかけたくないでしょ」

 優しそうに見えた表情がいつの間にか冷酷になっていて、初めて恐怖を覚えた。ワンボックスカーの後部座席の窓は黒いカーテンで覆われ、外は全く見えない。

「さっきは言わなかったけど、あなたのご両親、首を吊ったのよ。保険金と、料亭や土地を全部売った分を合わせても借金が四千二百万円残るってわけ。どうする?」

 私の髪を撫でてニヤリと笑う。

「借りたお金は、あなたが返さなきゃね。大丈夫、あなたならできる。顔もかわいいし、肌もきれい」


 どのくらい走っただろう。私は事務所らしきところに連れて行かれた。部屋中に煙草の匂いが染みついている。黒光りする大きなデスクの向こうにスーツを着た初老の男が座っていた。そこは、いわゆる「闇金」というところらしかった。

「大変だったね、お嬢さん。まあ、今後のことをじっくり考えよう」

 氷室と名乗る男は、一見穏やかそうな雰囲気が逆に怖い。ここは、いわゆる「闇金」というところらしかった。

「座って」

 応接室なような部屋に通され革張りのソファに座ると、体が深く沈み込み、まるで拘束されたように動けなくなった。

「驚いたか?」

「はい、まだ信じられなくて……」

「じゃ、確認するんだな。玲、電話を掛けてやれ」

 氷室は、私を連れて来た女に命じた。電話の相手は実家の近くに住む叔父で、玲の話はすべて事実であると知らされた。助けてやりたいが、大したことはできないとも言われた。

「というわけで、これからお嬢さんひとりで四千二百万を返済することになる」

「そんな……」

 頭の中が真っ白だった。全身の震えが止まらない。

「そうだ、イケメンの彼氏がいるんだっけ。たすけて、って頼んでみろよ」

「嫌だ、そんなことできないっ」

 必死で叫んだ。彼ならきっと助けてくれるだろう。そう信じていた。でも、彼に迷惑をかけるなんて、彼の将来に傷をつけるなんて、絶対にできない。

「ま、そう言わずに掛けてみろよ」

 玲がスマホを操作する。彼が出たところでスピーカーモードに切り替わった。玲が事情を話している。

「……というわけなんですよ。愛する女性が泣いてますよ。助けてあげたいと思いませんか?」

 しばらくの沈黙の後、彼は言った。

「いえ、別にそんな深い付き合いではないんです。私には関係無いので、もう掛けてこないでもらえますか?迷惑なんで」

 それだけ言うと、彼は電話を切った。ソファに沈み込んだ私に覆いかぶさるように玲が絡んでくる。

「だってさ。あーあ、捨てられちゃったね。可哀そうに。でも、なんかちょっと意外」

 その瞬間、不思議とそんなに悲しさを感じなかった。別に彼が裏切ったわけじゃない。愛されていると勝手に勘違いしただけだ。上京して舞い上って、ウサギのように跳ね回る幸運を追いかけて、深い穴に落ち込んだ。ばかみたい。

「で、ここからが大事なんだけど、返す方法はいくつかあるの。まず保険金で返すことができるわよ」

 玲が私の目をのぞき込む。

「あなたは別に何もしなくていい。こっちで保険金を掛けて、半年くらい経ったら自然死みたいにかせてあげる。大丈夫、苦しまないように優しくするから」

 ククッと笑う。

「あと臓器を売るのもいいわね。あなたのように若くて健康な子の臓器なら、すごく高く売れるわ。角膜、心臓、肺、肝臓、腎臓、小腸、子宮。この世からあなたが消え失せても、臓器はずっと生き続けるのよ。素敵だと思わない?あら、泣いてるの?かわいそうに」

「私、やっぱり死ぬんですか……?」

 やけに楽しげに玲が答える。

「死にたくない?もちろん、生きる方法もあるわ。非合法のアダルト動画に出演するとか。でも、ヤツら鬼畜だからね、ほとんどの子が一年以内に心も体もボロボロにされちゃうみたい」

「怖い…」

 もはや絶望しか残っていないではないか。腰から下が崩れて落ちていくようだった。もったいぶった口調で玲が畳みかけてくる。

「あとね、ほんとはこれが一番のおすすめ。あなたをお客様のところに派遣するの。会員制の秘密倶楽部ひみつくらぶがあって、あなたのような子をお客様のところにデリバリーしているのよ。派遣中はお客様には一切逆えないし、外出もできない。でも運が良ければ、四千二百万円くらいなら割と早く返せるかもね。会員は俱楽部で厳選しているわ。みんな社会的な立場があるから暴力を振るったりはしないはずよ。預かってる子が死んだり、訴えられたりしたら身の破滅になっちゃうからね」

 生きる方法があるの?今まで死ぬしかないと思っていたところに、かすかな光が見えたような気がした。

「借金を返し終わったら、あなたは自由になれる。ただし、これから目にすることを喋ったら命の保証は無いけど。どう?やってみない?」

 巧妙な誘導だった。生き残るためには選択肢は無いと思った。

「はい」

「あなたを倶楽部に引き渡すけど、ほんとにいいのね?」

 泣きながら頷く。

「じゃ、契約が成立するまで倶楽部の収容施設キャンプに入ってもらうわ。逃げられても困るからね。いま住んでる部屋の解約と大学の退学手続きはこちらでやっておくから」

 いったん自分の部屋へと連れて行かれ、着替えなどをキャリーケースに詰め込んだ。上京以来暮らした部屋ともこれでお別れだ。何度も何度も室内を見廻して、小さな思い出をいくつも再発見した。私を見捨てた彼だけど、その彼のものが残っているのを見ると涙が溢れた。玲に促され外に出て、背中でドアが閉まる音を聞いた。退路は完全に断たれたのだ。そして私は収容施設キャンプへと送られた。

 それは山間にある一見リゾートホテル風の建物で、フロントのような場所に屈強な男が二人座っていた。監視役なのだろう。二階に上ると、廊下の片側にはドアが並んでいた。後で分かったことだがそれぞれ個室になっていて、私のような「商品」が何人か収容されていた。「商品」の中には少年もいるようで、廊下からの声や物音でそれを感じることができたが、そんな需要があることを初めて知った。「商品」同志が顔を合わせることを防ぐため、同時に廊下に出ないよう管理されていた。それぞれの部屋にはユニットバスとトイレがあり、空調も完備されていた。加湿器や空気清浄機まで置かれていた。部屋全体は柔らかい暖色系の色で統一され、ストレスがかからぬよう考られていた。与えられる食事は温かく、不味くはなかった。しかしもちろん、これら一定の配慮は好意や愛情によるものではなく「品質管理」が目的だ。窓はワイヤー入りの曇りガラスで外は見えず、扉は施錠されていた。室内にはテレビやラジオは無く、スマホも取り上げられ、外とは完全に遮断された。

 何日たったのだろう。時間の感覚が麻痺してぼーっとしていると、扉が開いて、別室に連れて行かれた。そこは壁一面が鏡になり、エステの施術台や美容室にあるような椅子があった。服を脱いで施術台に上がるよう命じられ、顔と全身に念入りなケアが施された。それが終わると玲が現れた。

 ハイブランドに身を包んだ玲が、全裸の私をあらゆる角度から凝視する。下腹部に目をやり、

「ちょっと濃い目ね。でも透き通るような白い肌に漆黒の繁みって、なかなか煽情的せんじょうてきよ」

 何も言えず、身を縮めた。

「なーんだ、元気だしてよ。胸だってこんなに形が良くて、先っぽは可愛いピンクじゃない。処女喪失して、少し色づき始めたって感じで、とっても美味しそう。お客様が見たら大喜びよ。お金が稼げる体に生まれて良かったわね」

 玲は「商談成立」を確信したのか、満面の笑みを浮かべている。

「じゃ、これを着けて」

 レースをふんだんに使った白いランジェリーを着用するよう命じられた。入念なメイクとヘアセットが施された後、部屋の中央に鏡に向かって立たされた。鏡はマジックミラーで、その向こうでは数名の会員が、私の体に入札していると聞かされた。

 その後、私は部屋に戻された。しばらくして玲が入って来た。

 契約が成立したこと、明日の夕方に客に引き渡すと告げられた。期間は三カ月、契約料は四千五百万円だった。

「ここの会員は目玉が飛び出るほど高収入なの。このくらいは珍しくないわ。それでもあなたは幸運なほうね」

 玲が言った。

「契約料は倶楽部の取り分とは別だから、契約満了と同時に借金は完済。自由になれるのよ。もうここに戻ることもないわ。もちろん、お客様に中途解約されなければの話だけどね。大丈夫よ、お客様、あなたをすごく気に入ったみたいで食い入るように見つめていたから」

 いったいどんな目で見られていたのだろう。ぞわりと嫌悪感が走る。

「どんな男性だと思う?楽しみでしょう?肌が荒れたりしないように今夜はよく眠るのよ」

 その部屋で過ごす最後の夜、私は一睡もできなかった。どんな男なんだろう?動物のように扱われるの?大体話が旨すぎるじゃない。私は三カ月も生きていられるのだろうか。今更ながら、壁やカーペットの小さな染みが、過去にこの部屋にいた「商品」たちの涙や苦悩の跡に見えてくる。泣き叫んだり、うつ状態になったり、そんな影がうごめくような気がした。

 ふと幸せだった日を思った。しかし、不思議なことに彼の顔が浮かんでこない。名前もわからない。見捨てられたショックのせいか、彼やその背景がすっぽりと空白になっていた。もし最後に少しでも優しくされていたら、思い出が愛しすぎて諦められなかったかも。涙が枯れ果てるまで号泣し、死を望んだかもしれない。でも彼に捨てられた私は、これからを生き抜くしかないのだ。そう思えたのがせめてもの幸せだった。悲しすぎる幸せだけど。

 朝が来て、食事をする気にもなれず、出発までなにもせず時間を過ごした。命じられてシャワーを浴び、用意された服に着替えた。ワインレッドが美しいワンピース。今まで着ていた服は下着まで、すべて置いていくよう命じられた。これからは身に着けるものさえ管理されるのだ。そして私はあの黒いワンボックスカーの、閉ざされた後部座席に乗せられた。玲が同乗している。

「今日はクリスマスイヴね。みんなとっても楽しそうよ。あなたは気の毒だったわね。でもお客様も、イヴの夜を楽しむアイテムとしてあなたを取り寄せたのかも。いま着ている服もランジェリーも靴も、全部お客様からのプレゼント。良く似合っているわ。一枚一枚脱がされていく光景が想像できる」

 イヴ?そんなに日にちが過ぎていたのか。それにしても、やはり私は「商品」なのだと改めて実感させられた。「商品」ならそれでもいい。なまじ人間として扱われる方が、逆に辛い気がする。ただ、モノとして三カ月間壊されないよう願うだけだ。

「ただ、ちょっと変わった人でね」

 変わった人?たちまち恐怖が走る。

「普通なら、あなたを入れる場所にデリバリーして引き渡すの。それが一番目立たないからね。でも今回は、引き渡し場所にベイフロントホテルのロビーを指定してきたのよ。それもツリーの前だって。クリスマス気分を盛り上げたいのかしら?意味は良くわからないけど、あちらの希望なら仕方ないわ。あ、分かっていると思うけど、変な気を起こして騒いだりしないでね。絶対に逃がさないから。余計なことをしたら臓器市場行きよ」

 ベイフロントホテル?あまりの偶然に気が遠くなった。本当ならその日、彼とディナーを楽しむはずの場所だった。そして甘い幸福な一夜を過ごすと思っていたのに。


 その男に引き渡されたのはイブの夜だった。ベイフロントにそびえ立つホテルのロビーには巨大なクリスマスツリーが飾られ、その光が私にも降り注いでいた。

 

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