第15話  奇跡の雫

「お世話になりました」

「あら、私は美波さんの新しいおばあちゃんですから何も遠慮はいりませんよ」

「……じゃあ次は敬語はなしで」

 久保田さんは楽しそうに笑った。この人はちょっとしたことでも楽しくなったりうれしくなったりする人なんだなと改めて思った。

「バス停まで車で送りますよ」

「歩けます。よく知った道だから」

 お気を付けて、と声をかけられて振り向く。そこに見送ってくれる人がいることがありがたい。


 バス停までの道は両側が田んぼの細い道で、自転車で走るには最高だったけど、日差しを遮るものがない中、歩くのはしんどかった。

 まだ青い稲穂は頭を垂れようとしていて、微かな風にもやわらかくそよいだ。緑の海の中をひとり、歩く。

 この時間に出れば約束の時間には間に合うはず。そう思ってもつい早足になる。

 電車に乗ってからもなんだか夢心地で、揺れる度に雲の上にいるような気持ちになる。


 よくよく考えてみたらうちに帰る暇はないから、手持ちの服を着るしかなかった。寝る前に久美と念入りにLINEで話し合ったのは全部無駄になった。

 薄手のワンピースに麻紺のカーディガン。よそ行きとして選んできたものだから大丈夫だとは思うけど、駅のトイレの姿見でチェックする。

 ワンピースのスカートのお尻にシワは無い。

 大丈夫、のはず。


「美波ちゃん」

「ごめん、待たせちゃった?」

「いや、来たところ。よく考えると田舎に行ってたなら荷物があるんだよな。ロッカーのある所まで持たせて」

 いいよ、と言ったのにさっと奪われてにっこり笑われる。行こう、と歩くその足の運び方がああ、男の子なんだなと改めて感じさせる。

「そのワンピースかわいいね。いや、服から褒めるって良くないよな。服を含めて美波ちゃんがかわいいというか。いつも制服姿しか見てないから」

「ありがとう」

 そんなやり取りにものすごく意識してしまって、そんなにほつれていない髪が顔にかからないように、というふりをして何度も耳に髪をかけた。制服の時は校則で後ろにひとつにぎゅっと結んでしまう髪を今日は上半分だけアップにしてみた。うなじに汗をかいてしまう。


「観たい映画があるの?」

「全然! 全然ないの!」

「なのになんで映画なの?」

「……他にいいところが思い付かなかったから」

 ぷっ、と瑛太くんは笑った。

 意地悪だなと思う。

「行きたいところはないの?」

「うーん」

「たとえばさ、海とか。動物園は暑いかな。あ、プラネタリウムとか」


「……あの、瑛太くんはこういうのに慣れてますか?」

 バカなことを聞いてると思った。まだそんなことを言っていい仲じゃない。わたしたちは知り合ったばかりで、すべてはこれからなのに。

「慣れてるってことはないと思うけど、共学だからグループで遊びに行ったりはするし」

「グループ」

「そう、何人かで。美波ちゃんのとこは女の子だけだからそういうのないだろうけど。そうだよね、慣れてないよね。ましてやふたりきりなんだし」


 その言葉にしゅんとなる。

 女子校に進んだのは、お寺で暮らしてきたわたしが世の中に馴染むには時間がかかるだろうという両親の配慮だった。

 それに関してはおばあちゃんも何も言わなかった。だからわたしは安心していた。

 だけど、世の中をよく知るためには外を向かなくちゃいけなかったのかもしれない。外の世界には当然、男の人がいる。いつだって行った先で男子と女子に分かれるわけじゃない。

「瑛太くんはふたりきりになるのはわたしでいいの?」

「もう一度ちゃんと言った方がいいの?」

 そう言われてみると、別に今の状況に不満はなかった。だってわたしの隣に瑛太くんがいる。これは大切なことだ。

 わたしはずっと男の子をよく知ろうとしなかった。だけど今、この世にいる誰よりも瑛太くんのことを知りたい。


「あの……。ふたりで会えればどこでも良かったの」

 彼の目が優しく笑った。

「友だちがね、映画は顔を見て話せないから損だよって言ってたんだけど、わたし、全然、思いつかなくて」

 ほっとする。変なことを言ったかもしれないと思ったからだ。

「俺もおんなじ気持ち。夢みたいだな。美波ちゃんと話をできる日が来るなんて思ってもみなかった。この間までの美波ちゃんはすごい遠いところにいて手が届かなかったんだよ」

「そんなことないよ」

「本当だよ。その証拠に何度も同じ電車に乗ってるのに俺の顔も知らなかったでしょう? 奇跡だ」

 奇跡って大袈裟な、なんて思わなかった。奇跡でも起こらなければ流されてしまう世の中でわたしたちは知り合ったんだ。

「瑛太くんはわたしを知ってたの?」

「知ってたよ。同じ車両だとうれしかった」

 絶望と諦観。

 その中にキラリと光った奇跡という名の小石を取りこぼさないように、彼の口からこぼれ落ちる言葉をゆっくりとすくい上げた。


「じゃあ決まり。今日はお互いをよく知るための日にしよう。お昼を食べて、ギリギリ二時間粘って、その後デザートとお茶して、そこでも二時間粘ろう」

「四時間もあるよ!?」

「いいじゃん。四時間かけたってきっと、美波ちゃんの全部は知ることができないと思うもん。お店はサイゼとマックにすれば安上がりだし。あ、門限は?」

「特に決まりはないけど、暗くなったら心配するかも。……友だちと出かけますって行ってきたけど」

 瑛太くんは頭をかいて少し照れた顔をした。どの辺に照れたのかわかりかねて、顔にクエスチョンマークが出てしまう。

「美波ちゃんのお父さんとお母さんに嫌われないようにしないとね。どんなに遅くなっても六時までには帰ろう」

 帰りの話はわたしをしゅんとさせた。それが思い切り顔に出ていたのかもしれない。

「大丈夫。六時までまだまだある。四時間喋っても余りはあるよ」

「そうだね」

 子供みたいな自分が恥ずかしかった。


 四時間のデート。期限付き。

 それまで地球が壊れるまでのタイマーしか持ち合わせていなかったわたしに、新しいわくわくするタイマーが与えられた。

 たった四時間のはずなのに、すごく長いような、もったいないくらい短いような。

 ふっと隣を見ると瑛太くんもわたしを見たところだった。案外、同じことを考えていたのかもしれない。

「サイゼ、この辺、ある?」

「うん。友だちと行くから場所わかるよ」

 平行に並んで歩いてると肩が触れ合いそうで、触れない。うわっと思っても触れない。もちろん身長差もあるんだけど、それ以上に本当はわたしが彼に触れてみたいんだと思った。そしてそう思ったら、心の中に不思議な暖かい波紋が広がった。

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