微笑んでクレテイル?

哘 未依/夜桜 和奏

微笑んでクレテイル?


 ボクの一日は寝ることから始まる。まぁ、一日と言っても二十四時間の午前0時を始まりとした場合なのだけど。


 だけど、今日は違った。ボクの一日は寝醒めることから始まった。


 床から跳ね起き、胸に掛けていた毛布を床に落とす。口の中には鉄の味が広がっている。床に落とした毛布をきれいにたたみ、口をゆすぐ。そして朝ごはんの支度。今日の献立はご飯に味噌汁、鮭。なるべく音をたてないように、そして全速力で作り食器に載せる。

 作り終えたら、机に綺麗に配膳する。


「よしっと」


 並べ終えたら、玄関からの風が肌寒い廊下で着古したパジャマを脱ぐ。上下とも脱いだら備え付けの鏡と睨めっこ。背中までくまなくチェックをする。


「ん、今日は大丈夫そうだね」


 ブラを胸につけ、綺麗にかけられている制服をハンガーから取り、しわが出来ないように丁寧に着ていく。長袖のスクールシャツにネイビーとホワイトのチェック柄のスカート、紺色の靴下。最後にレッドベースでネイビーの斜線の入ったネクタイを締める。

 終わったら下の引き出しからスクールバッグと数学と現代文、日本史の教科書、ノート、筆箱を取り出し、スクールバッグの中に詰める。


 これで準備完了。


 でも…なんか……。あれ、いつもと何かが違うと感じる。いつもと違うことは、えっと。

 深い思考に沈みそうになるが、考えるよりも動く方が効率的。ボクは頭が悪いから、考えるのは苦手なんだ。


 息を止めながら、静かに扉を開ける。そこにはありえない光景が広がっていた。頭の中に疑問符を浮かべながらも、ゆっくりと物音立てずに扉から離れる。


「どうしたのかな」


 いつもだったら起きているはずの両親が、二人そろって寝息を立てながら気持ちよさそうに寝ていた。

 

 ボクは思う。習慣とは時に人を苦しめる。嬉しいはずが、動悸を感じる。不安に囚われてしまいそうになる。それは十中八九、習慣のせいだ。でも、ボクには悩んでいる時間なんてない。


 いつもと違う状況に戸惑いながらも時間まで待ち、下膳されていない食器を横目に見ながら、冷めたご飯を胃に流し込んだ。


 二人とも一向に起きてくる気配は無く、仕方がないので食器をラップで包み、メッセージとともに机の上に置いておく。

 

『大変申し訳ございません。私、那季里なきりは先にご飯をいただきました。もし、ご飯を食べていただける場合はラップをさせていただきましたので、一度温めてお召し上がりください。帰ってきてから罰を受けさせていただきます。なので、どうか、どうか、学校には連絡をしないでください。よろしくお願いします。』


 ボクは底が擦り切れているローファーを履き、教科書などを詰めたスクールバックを肩に掛け、音をたてないように息を殺しながらそっと玄関から外に出る。

 

 気を抜いてはダメ、と心の中で何度も唱えながら学校へ歩き出す。


 不思議なことは続くものだ。今日は学校への道すがら、誰一人としてボクに目を向ける人はいなかった。


 そのまま何事もなく、学校に着いた。教室はいつも通りにぎやか。入るときにおはようございますとは言うものの、いつもと同じで周りの声にかき消されてしまう、と思っていた。


「「「おはよ」う」ございまーすっ」


 数人がボクの方をしっかりと向いて返事をしてくれた。いつもはあり得ない状況にボクは恥ずかしくなって、顔を伏せ気味にしながら自席に座った。


 授業は用意した通りの教材で進む。ボクは常に完璧でなくてはならない。だから、当てられても完璧に答えるし、テストはいつも満点で一番。家で勉強する時間はないから、授業時間が唯一のボクの勉強時間。先生の内容を理解しながら、同時に予習を行う。


 午前中の授業が終わると二時間の昼休み。ボクの学校は昼休みに関しては自由だ。どこで食べてもいいし、何をしていてもいい。だからボクはいつも目立たない中庭の木に囲まれて周りからはあまり見えることのないベンチで一人過ごす。


 お昼ご飯。それはボクの人生の中で一番関わりのない言葉。中学校に進学し、給食という制度がなくなったその日からボクには関係のないこと。


 ボクがいつものようにベンチに授業開始時間までと座っていると、背後から明るい女子達の声が聞こえてきた。


「あれ、なきりんじゃん」

「あっ、ほんとだね、那季里さんだ」

「なきりんやっぱ可愛い」


 な、なきりん? 誰の名前? と、頭の中で意味のない思考をメビウスの輪のように永遠と繰り返してると、口もとに生暖かい息がふっと吹きかけられた。


「ぁんっ」


 ボクの口から今までに出したことのないような声が漏れてしまった。


「あー、なきりん。かわぁいい」


 三人の中で息を吹きかけてきた、銀髪で制服の上にピンクのパーカーを可愛く着こなした女子がにやにや顔でさらに覗き込んでくる。


「ボ、ボクから離れろー」


 恥ずかしくなって、もう耐えられなくて、つい叫んでしまった。瞬間的に口を両手で押さえる。そして、そのまま少し心をなだめた。


「わ、私、から、離れて、くれませんか? 」


小さな声で言いなおす。でも、女子達はぽかんとした表情をしている。


「ぁ、あれ……て、手遅れ? 」


 たぶんボクの顔は真っ赤に染まっている。顔は完全に火照っていた。


「ふふっ、やっぱ可愛いね! あたしは優菜よ。ゆうって呼んでいいかんね」


 笑いながら銀髪の女子はゆうと名乗った。


「それで、この髪の毛をピンクに染めているのは、芦那、こっちのクリーム色に染めてるのは、胡桃よ」


 一人ずつゆうが紹介をしてくれた。改めて見ると、なかなかな髪色の三人。


「私はななって呼んでね。芦那って名前はあんまり好きじゃないから」


 ボクの方を少しだけ覗き込んでは微笑んだ。


「次はうちの番かな。うちはくるみって、そのまま呼んでくれればいいよ」


「ぇっと……ゆうさんにななさん、くるみさん、ですね。えっと、なんというかその……つ、次の授業の準備がありますので……」


 ボクは何とかこの場を逃れようと席を立ち、こ歩き始めた……が、案の定ゆうに腕を掴まれた。


「なっきりん。まだ次の授業まで二時間空いてるよ~? 後、さん付け禁止! 」


 ボクもちょっと迂闊だったかもしれない。確かに次の授業まで時間が空きすぎている。

 そして、ボクは大きなミスを犯した。


「私、ご飯まだ食べてなかったので………」


 そこまで言って気付いた。みんなの顔は輝いてるようにも見えたのだ。


「それじゃぁさ、あたしたちと一緒に食べに行こうよ! あたしたちもまだ食べてないし」


 気の利いた断る理由もない。ボクはついていくしかなかった。


 お店までの道すがら、くるみに話しかけられた。


「ねぇ、なきりんはなんで隠してるの? 」


「な、何のことでしょうか? 」


「さっきもっと柔らかかったし、可愛かったよ。うちはさっきのなきりん好きよ」


 鋭い目、心がえぐられるみたい。ボクはそのまま何もしゃべることはできなかった。


 ついたのは学校から十五分程のファミリーレストラン。中に入ると四人席でボクが窓側の席で、隣はくるみ、前はゆう、くるみの前にはななが座っていた。


「あたしぱすたー」


「私はパフェ」


「うちはドリア」


 店員さんを呼んですぐ各々がいつものことなのか、慣れたようにに注文をしていく。注文を終えると、みんながボクの方を見る。ボクは何とか逃げ道を探した。


「ぁ、ぇと……こ、コーヒーお願いします」


 食べ物を胃の中には入れてはいけない。それだけは絶対だった。


「ねぇ、なんで那季里はそうやって自分を偽っているの? 」


 偽っている……か。そうなのかもしれない。ボクは私でいなくてはならないと決められているから。


「まぁ、答えられないならいいよ。たのしもっ」


 それからみんなは学校の先生の愚痴や互いの褒め合い、彼氏の話などを始めた。ボクは話に入れなかった。だけど、時々みんなはボクにもわかるような話をしてくれた。みんなはどんな内容の話でも楽しそうにしていた。むしろ、話すということよりも、みんなでいること自体が楽しいとでも言うように。 


 いつの間にか時間も経過し、授業時間も過ぎていた。


 話がひと段落し、今日はカラオケにこのまま行こうとくるみが言い、それにみんなが同意し立ち上がった。


「そだ、なきりんはどーする? 」


 たぶん、いつもだったら何があっても行きたいなんて思わないと思う。でも、ボクは少しずつみんなの空間が楽しく、嬉しく感じるようになってきていた。


「わ、私も行きたいです」


 家のことも、罰のことも、全てを忘れてまで、ボクは行きたいと思った。


「ん、いいよ~。あたしについてきなっ」


 カラオケにも行き、ボクたちは歌を歌った。ボクは流行りの歌とか全く知らなかったけど、みんなと歌いたいなと思った。だから、ボクは合唱曲を歌った。みんなも一緒に歌ってくれた。

 初めてのカラオケ、一緒に遊ぶ、今までにしたことがにような経験をたくさんした。ボクは、楽しいと思った。


 今までつけていた、何かが自然とはじけ飛んだ気がした。そして、いつの間にか自然に話をすることができるようになっていた。


 結局カラオケが終わって帰ることになったのは、十時のところに針がちょうど指したところだった。


 みんなと別れて、全てを忘れたまま帰り道を歩いていた。幸せの余韻に浸かりながらいると、突然周囲が靄に包まれた。そして、靄が晴れるとボクは鳥居の下に立っていた。目の前には立派な神社が存在していた。


 神社が一瞬光ったと思ったら、どこからともなく声が聞こえた。


「あら、あらぁ。ようこそ、私の神社へ」


「だ、だれ?」


「私は翡翠、神よ。今日の一日はどうだったかしら? 」


「どういう意味ですか? 」


 翡翠色の透き通った髪の毛で巫女の服を着た、自称神が二ヤッと少し黒い顔でこっちを見て笑った。


「じっくりと、一日のことを振り返ってみてみなさい。今日はどうだったかしら」


 彼女はボクに問いかけてくる。


「あらあら、思い出せないの? 仕方ないわねぇ」


 彼女はふふっと笑った。


「もうちょっと悩んでほしかったんだけどなぁ。まっ、いいや、種明かししてあげる」


「種明かし、って……どういうこと? 」


「さてさて、一言で言うとね、今日という日は無かったのよ」


 今日という日が無かった? どういうこと? 意味が分からない。ボクの頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。だけど、だけど頭の中のどこかで納得しているボクがいるのも事実だった。


「いやぁ~、いつもは超えちゃうから干渉できなかったのよね。まぁ、それはどーでもいいんだけど…」


 いつもは越えて……ぁっ!


「わかったわね、その通りよ。私はねぇ、チャンスをあげるの」


「……チャンス? 」


「一生変わることができない哀れな子羊ちゃんに、人生で最初で最後のチャンスをあげてるのよ」


「変わることができないって、どーゆ―ことよ! 」


 意味が分からない。ボクは……。


「あらあらぁ、変わる必要なんてないとでも思ってるのかしら。かわいそうねぇ。哀れな子羊ちゃんがこれから変わっていかなくても私は構わないのだけど、残念ねぇ」


「だからっ変わるって何よ! ボクは変わることなんてない」


「くっくくっ、やっぱり思った通りだわぁ。あなた、面白いわねぇ」


「何が面白いんだ。ボクは真剣に言ってるの」


 途端に目の前の自称神が大笑いし始める。


「ぷ~くくっ、くしししっ。あなたぁねぇ、自分で気づいてないの? 」


「何を気づけって言うのよ」


「まって、まって、私を笑わせて殺すつもり? もう、笑いが止まらないわよ。あなたさぁ、他人と話すときにいつも自分のことをなんて呼んでいたかしら」


 あ、れ……。


「そう。あなたはあの三人組といる途中から、変わっていたのよ。あなたの分厚っつい偽りのお面ががね。あなたの心を開かせるのは苦労したわぁ」


「えっ……どういうこと」


「ありゃぁ、気づいてなかったのねぇ。今日という日は無かったと言ったわよね。つまりね、今日はあなたが会った人、話した人達全員私が動かしてたの。だからすべてがあなたにとって不自然だった。理解できたかしら? 」


 と、いうことは、すべてが……嘘。この自称神が私に見せた幻想だったってこと……?

 そんなの、ダメ。あり得ない。嫌だ。だって、せっかく世界がボクに微笑んでくれたのに。


「そうね、幻想。ピッタリな言葉だねぇ。その通り、あなたは私によって作られた幻想を体験させられてたってことよ。

とゆーかぁ、私的には今十分世界があなたに微笑んでると思うけどなぁ。哀れな子羊ちゃんには分からないのかもだねぇ」


 微笑んでクレテイル?

 

 向こうから話しかけてくれることもない。二度とかかわることもない。そういうことでしょ。


 微笑んでクレテイナイ。


「あなたねぇ、話しかけてくれないなら、話しかければいいじゃない。今回は私だった、それだけじゃない。違うの? 」


「そうか、ボクはこのまま変わる必要なんてない。違うかしら、自称神さま」


「そっかぁ、それがあなたの出した結論ね。家では殴られて蹴られて、罵倒され、それはすべて自分が悪かったのだと自分を言い聞かせ、奴隷のように扱われていてもそれが当たり前だと思っている。外では完璧でなくてはならないと自分を偽る。これがあなたの人生なのね。非常に残念だわ。あなたなら人生を変えることができると思ったのにね。」


「私は変わる必要なんてない。だって、それがみんなが望んでいることなのだから。あなたの偽りなんかには、私は惑わされない」


「そう、それがあなたの答えね」

 

 ボクに向けられるのは悲しげな瞳。


「お別れの時間よ。最後に一つだけ忠告をしておくわ。あなたは知るのが怖いのよ。知ってしまうと、奇跡的に保たれている平衡が崩れてしまう。それをあなたは知っているから。けど、知らないままでいたら崩れないとも限らない。よく考えることね」


 視界が次第にぼやけていく。そして暗転した。


 


 床から跳ね起き、胸に掛けていた毛布を床に落とす。口の中には鉄の味が広がっていた。そして少し水っぽくて甘い味も混じっていた。床に落とした毛布をきれいにたたみ、口をゆすぐ。見上げた視線の先にはボクがいた。ボクはなんでこんなにも悲しい顔をしているのだろうか。 なんであの自称神みたいな瞳で見つめるの? ボクは水で何度も何度も顔を洗った。

 そして朝ごはんの支度。今日の献立はご飯に味噌汁、鮭。なるべく音をたてないように、そして全速力で作り食器に載せる。

 作り終えたら、机に綺麗に配膳する。


 配膳が出来たと同時に、ガタッと音がして父が部屋に入ってくる。そして、ボクを睨みつけた。


「おい、何でお前はそんなにだらしないんだ。なぜ着替えていない? こののろまがぁっ! 」


 そのまま机の前まで来ると、テーブルクロスを引っ張り食器をすべて床へと落とした。


「グズがっ、お前みたいなやつが作ったものなんかいらねぇよ。綺麗に、そうだなぁ、床を舐め回せるぐらいにしとけよ、きったねーグズが。それぐらいしか能がねぇんだからよ」


 それだけ言うと机のとなりに立っていたボクの鳩尾に拳を振るい、部屋から出ていった。


 痛みが収まるとなんとか立ち上がり、片付けを始めようとした。いつもなら、それが当たり前と片付けていた。でも、今日はそんな気分になれずに、その場にしゃがんだ。


 床にはボクが切って、茹でて、焼いて、そんなものが無造作に転がり、散らばっていた。


「ねぇ、どうして…どうしてこんなに心が痛いの? いつもは何も思わなかったじゃない。ねぇっ」


 ボクの叫びを嘲笑するかのようなタイミングで母が部屋に入ってきた。


 母は何も言わずにボクに近づいてきて、しゃがみこんでいるボクの顔面を蹴り上げた。


 しゃがんでいたボクは後ろに倒れる。痛みは鳩尾の方が遥かに痛い。だけど、なぜか、もう辛かった。いつもなら、何も感じないのに。


 母は倒れたボクを一瞥すると部屋を出ていった。


 ボクはよろよろと起き上がった。心の中に自称神の声が響く。うるさい、うるさいっ。ボクは何度も拒絶する。


 ボクは床に落ちた物を拾い、床を拭いた。


 玄関からの風が肌寒い廊下。血で滲み所々破れたパジャマを脱ぐ。上下とも脱ぎ、備え付けの鏡が傷だらけの身体を映し出す。ボクは背中までくまなくチェックをし、目立つところにはファンデーションを塗る。それでも隠れない場合には絆創膏。もっとひどい場合には包帯を巻く。


 隠したらブラを胸につけ、綺麗にかけられている制服をハンガーから取り、しわが出来ないように丁寧に着ていく。長袖のスクールシャツにネイビーとホワイトのチェック柄のスカート、紺色の靴下。最後にレッドベースでネイビーの斜線の入ったネクタイを締める。

 終わったら下の引き出しからスクールバッグと数学と現代文、日本史の教科書、ノート、筆箱を取り出し、スクールバッグの中に詰めた。

  

 そしてボクはなんとなく、引き出しの奥底から紺色のパーカーを取り出した。これがボクの唯一持っている宝物。紺色ベースで胸元にピンクのネコの足跡が縫われている。フードには猫耳が付いていて、ネコの顔も縫われていた。小学校に上がる前に両親とともに行った服屋で一目ぼれして、頼みこんで買ってもらった。成長するまで大切に持っておくのよ、と言われた。


「もう、ボク……これ着れるんだ…」


 そして、なんとなく制服の上に着る。いつもだったらこんなことしないのに……。でも、なぜか今まで冷え切っていた心が少し温かくなる気がした。


 トンっトンっと階段から音が聞こえてくる。


 見上げた先にかけられている時計は学校の授業開始二十分前を指していた。ボクは急いで底が擦り切れているローファーを履き、教科書などを詰めたスクールバックを肩に掛け、音をたてないように息を殺しながらそっと玄関から外に出た。


 ちょっと暑い。あれっと、ボクは思う。いつもは……。


「……っ」


 脱ぐのを忘れていた。ボクは急いでパーカーを脱ぎスクールバックの中に詰めた。


 ボクは人目を避けるように、なるべく隠れるように学校まで向かった。


 学校に着くと、始業十分前で昇降口に人は数人しかいなかった。教室はいつも通りにぎやか。


「おはようございます」


 教室はいつも通りにぎやかで周りの声にかき消されてしまう。


 そう、これがボクの普通。でも、なぜかな。胸がチクチクする。


 ボクは完璧でなくてはならない。そう思えば思うほど人との距離は離れていった。でもよかった。だって、ボクは一人の方が楽だから。それに、一人の方が完璧に近づける。

 勉強も、捗るし、ボクという人の内面を知られなくていい。


 少しだけ。そう、少しだけ息苦しい。


 ボクは震える手をなんとか抑えながらスクールバックの中から、さっきしまったパーカーを取り出した。


 直後、授業の開始のチャイムとともに先生の声が教室に響く。


 でも、ボクは無視をして取り出したパーカーを制服の上から着る。やっぱり、なんでかな。チクチクしていて冷えていた心が少し温まり、息苦しさが少し消えた気がする。


 そして、何も言われないまま一日の授業は終わった。みんなが帰り始めてもボクは最後まで教室に残っていた。


 早く帰らないといけない。思っていても帰る気になれなかった。


 どれぐらい時間が経過しただろうか。外は既に日が暮れていた。ボクはやっと、家へと歩き出し、途中、花屋に寄った。


 家に着き、ドアを開けたと同時に家の中に引きずり込まれる。


「おめぇは何やってるんだぁ? あぁん? 」


 玄関に父の声が反響する。父はボクの首を掴んだ。ボクの視界は次第にぼやけていく。首を絞めながら鳩尾に拳を振るわれる。そして玄関のドアに向かって投げ飛ばされた。ボクの体はたたきの上に干からびた蛙のように転がった。


「グズが、寝てねーで飯作れやぁ」


 ボクは痛いし、視界がぼやけ、そのうえふらつくのを我慢しながらゆっくりと台所へと向かい、ご飯を作り始めた。


 何とか作り終え、二人の元へ運ぶ。


 二人は黙って受け取ると、ボクのことを追い払った。


 ボクは廊下に寝転がる。いつもだったらやることがあるのだけど、もう……。



 ガンっという音で目が覚めた。見上げると時計は十一時五十分を指している。ボクは急いでリビングに行った。そこには床に倒れている両親の姿があった。


 ボクは二人を一瞥し、無言で台所へと向かった。二人が微かに口を動かしていた気もするが、そんなのはどうでもよかった。


 台所に着くと、戸棚から蠟燭を取り出す。蝋燭の下を少し包丁で切り、コンロの火から蝋燭に火をつけた。ふらふらと、リビングに向かう。木製のテーブルの上に数滴、蝋を垂らし蝋燭を固定する。


「あぁ、この蝋燭が倒れないで火が消えてくれればいいねぇ」


 ボクは二人に向かって呟く。二人は顔を歪めるが、そんなことはどうでもいい。


 ボクは二人に踵を返し、部屋を出た。


 廊下にある備え付けの鏡でボクを映す。ボクの大切な宝物は砂や血で汚れ、ところどころ破れていた。


 ボクはそのまま床にしゃがみこんだ。もう、限界……。そう思うと私は意識を手放した。


「まさかねぇ、こんなことすると思わないじゃない」


 ボクはいつの間にか鳥居の下に座っていた。


「ようこそ、私の神社へ」


 翡翠色の透き通った髪の毛で巫女の服を着た……自称神が目の前にいた。


「あらあらぁ、せっかくなんだからぁ、翡翠って呼んでよぉ」


「翡翠。どうしてボクはここにいるの? 」

 

 別に名前を言うくらいどうってことはない。イメージは自称神でしかないけど。


「ほんとはねぇ、一回しか会っちゃいけないんだけど、気になったから呼んじゃったぁ」


「ボクに何の用?」


「私が、『あなたは知るのが怖いのよ。知ってしまうと、奇跡的に保たれている平衡が崩れてしまう。それをあなたは知っているから。けど、知らないままでいたら崩れないとも限らない。よく考えることね』って、最後に言ったの覚えてないの? 」


「覚えてる。だけど、もう限界だったよ。ボクはこんなにも擦り切れていたんだなって、初めて気づけた。それは翡翠のおかげね」


「まぁ、いいわぁ。あなたは頑張ったんだものねぇ」


「頑張った? 」


「そう、あなたは頑張ったのよ。頑張って生きた。それが逃げだったとしても、あなたは自分の生きる道を全力で生きた」


 なぜかボクの目頭が熱くなり、涙が溢れ出てきた。そんなボクを、翡翠は優しく抱きしめてくれた。次第に体が温かくなり、眠気が襲ってくる。そして、ボクは最後の一言を呟いた。



「ありが…と……う、翡翠」




「うん、ゆっくりおやすみなさい」

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