〈第6章〉 愛の輪廻(1)前

1.魂の覚醒(前)


 トワが銀座のナイトクラブで、画家の男と出逢ってから、四年もの月日が流れようとしていた。ニューヨークから帰国すると、以前の仕事に戻っていた。

 昼間はエステサロンに、夜はクラブ・エテルナにと、トワは夢の実現のために休むことなくひたすら働いた。

 忙しい日々を送るトワにとって、週に一度の『二人だけの秘密クラブ』は、疲れた心と身体を癒してくれる『人生のオアシス』になっていた。



そんな四年後のある日――――

 トワと男が出逢った運命の日から数えて、ちょうど四年目に当たる日だった。

 残暑も厳しい昼下がりのこと。ある場所でいつものように語り合った。しかし今日は、場所も会話の様子もいつもと違う。


 ある場所とは、東京都葛飾区柴又近くの江戸川の河川敷である。

 河原からは『矢切の渡し』の旧跡を、眼前に眺めることができる。

 この河原は四年前、男の夢に出てきた船の渡し場で、前世の二人の運命を分けたという因縁の地であった。


 残暑による熱気のためなのか、はたまた異世界にでも迷い込んでしまったのか。二人が足を踏み入れた河原は、人影一つ見当たらない。


 何故、そんな辛い因縁の場所を二人は訪れたのだろうか。理由は一つ、男の魂がしきりにこの場所を確かめたがっていたからである。

 トワは、ここへ来ることを最初は、至極躊躇ためらっていた。しかし、男の熱い願いに押し負けて、その重たい足を運んできた。


「あたし、何だか、コワイ!」

 河川敷に足を踏み入れた途端、トワはやけに息苦しくなった。


「どうした? トワ」

「胸がギュッと、締め付けられるようで・・・・・・。なんか苦しいの!」


「俺も、ずっと来てみたかった所だが・・・・・・。実際来てみて、ナンか変だ?」

 男は、ぼんやりとではあるが、想い出のようなものを感じ始めていた。


「ナンか?」

「うん、ここは因縁の地だよ。何か悲しい運命の場所・・・・・・」


「悲しい場所?」

「そう、夢に出てきた河原」


「例の怖い夢?」

「うん・・・・・・。それに俺も、少し息が詰まる感じだ。この暑さのせいも、あるかな? ・・・・・・どこかに座って、一休みしよう」


 男は、日陰になりそうな場所を探して、辺りをぐるりと見回した。しかし、木陰になりそうな、大きな樹木がないことに気が付いた。


「あたし、パラソル、持ってるから・・・・・・。腰を下ろせそうな場所さえあれば」

 気転の利くトワは、パラソルの準備を始めていた。


「あそこ、あの岸辺の石段がいい。木陰は、あまり期待できそうにないが」

 男は、小ぶりな柳の木の下にある石段を指差した。


 江戸川の河川敷は、現在では護岸され、河原のコンクリートの石段は日差しで焼けていた。

「この段だけは、木の影になっているから、あまり熱くないわ」

 トワは、コンクリートに指先で軽く触れてみた。


「ホントだ! ここなら大丈夫だね」

 男が先に、腰を下ろしてみせた。


 トワがパラソルをぱっと広げると、二人は少しだけ隙間をあけて、相合傘で石段に腰かけた。


「あの辺りが、歌にもある、渡し場の跡だ・・・・・・」

 男は、細波立つゆったりした流れの川面かわもを、遠目に指差した。


「今でも、観光用に、船を出しているそうだよ」

「そうなの? でもなんだか、お天気いいのに、水面みなもが暗いわ」


「そうだね。なんとなく、流れに、刹那さを、感じるな?・・・・・・」

 このとき男は、魂でも揺さぶられるような不思議な感覚を、感じ始めていた。


 男は、トワが支えていたパラソルの柄を掴んで、支えを代わった。

 暫らくの間、二人は相合傘で寄り添いながら、静かに川面を眺め続けていた。


 やがて男が、その静寂のベールを剥がした。

「トワさん、ありがとう! 俺、こんな歳で、青春してる。・・・・・・身も心も、若返ったようだ! 君のお陰だ」

 男は、トワの左手を握り締めると、これまでの二人の交際について、感謝の気持ちを伝えた。


「えぇ、そんな? あたしこそ!」

「この幸せも、絵が描けるのも、何もかも・・・・・・、貴重な君の時間を、分けてもらえたお陰だよ。・・・・・・ホントありがとう!」


「あたしこそ、辛い仕事も、ここまで頑張れたのは、あなたと出逢えたからよ!」

 トワは、右の掌を男の右手の甲に重ね合わせた。


 手に手を取り合った二人は、今度は隙間もなくぴったりと寄り添って肩を抱き合い、相合傘でまた一つになった。



ここで男の魂は、覚醒の時機を迎えたようだ――――

 運命の時が訪れたのか、悲恋の場所から刺激を受けたためなのか。男は、自分たちの輪廻について確かめ始めた。


「ところで、俺たちの前世のこと・・・・・・。本当に君は、少しも覚えてないのか?」

 これまで男は、確かめることがとても恐くて、言い出せなないでいたトワに対する疑念を、とうとう吐き出してしまった。


「・・・・・・」トワは、何も答えず俯いたままだった。


 男はけして、トワのことを責めている訳ではない。この四年間という長い月日の中で、トワとの愛を育むうちに、おぼろげだった前世の記憶が、徐々に甦ってきていた。そして今日、男の魂は、に達したのだ。


 暫らくすると、トワは、これまで堪えていた涙を大きな瞳に浮かべ、その重い口を開いた。

「ホントに、覚えてないと?・・・・・・」


 トワは、男の右手をしっかりと両手で包みながら話し始めた。

「・・・・・・あたしこそ、あなたに逢いたかった。ずうっと、あなたのこと、捜してた! 必ず何処かで、出逢えると信じて・・・・・・」


「えっ?」トワの言葉の急襲に、男は固まった。


「・・・・・・でも訳あって、言い出せなかったの。今の仕事をはじめたのも。あなたが開いたホームページに、写真を載せたのも。いつかきっと、見つけてくれると信じて・・・・・・。すべてが、あなたと、出逢うためだった」


「すっ、すべてが?」


「そうよ! その強い想いは、あなたの夢の中にまで・・・・・・、あたし、何度も・・・・・・」

 トワは、溢れ出してきた涙を薔薇のハンカチで拭いながら、熱き想いをつぎつぎと吐き出した。


 それは四年もの間、こらえに堪え、ために溜めていた魂の叫びであった。

 決壊したダムの怒涛の濁流の如く溢れ出したのである。魂の奥から溢れる熱き思いは、そう易々と止まるものではない。


 そのとき男は、何度か相槌を返すのが精一杯だった。まるで狐に抓きつねにつままれたみたいで、口をぽかんと開けて、言葉を失ってしまった。


「それに、覚えてる? 四年前、隅田川の・・・・・・。桜の老木」

「うっ、うん」


「あの時、あたし、あの木のこと、知ってて・・・・・・。隅田川の桜を見たいって、言ったの・・・・・・」

「え、えっ?」

 男は思わず頬杖をついてしまった。


「・・・・・・だって、もう一度。・・・・・・あなたと一緒に、観たかったから」

「なに、もう一度っ?」


「そうよ、もう一度。前世と同じように・・・・・・」

「ぜっ、前世?」


「それにこの渡し場は、お別れをした悲しい場所」

「そ、そんなぁ?」


「・・・・・・でもあの時、命を落とすことなど、怖くはなかったわ! ・・・・・・だって、必ず来世でも、また出逢えると、信じていたから」


 一度枯渇していたトワの涙は、再び溢れ出した。初夏を迎えたアルプスの雪解け水が、谷間をえぐる激流となるように、止め処なく流れた。


      ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 



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