第7話 そして明日の二人1

光が外に出ないように体で覆ってスマートフォンで確認すると、バスは今、山梨と名古屋の間の山岳地帯を走っているようだ。窓を覆っている分厚いカーテンを押し上げて外を見ると、辺りは真っ暗。かろうじてガードレールが見える程度だ。隣の男は太っていて、今も大音量のいびきをかいて寝ている。耳栓もイヤホンも持っていないオレは、全く寝付けないでいる。


 *

 

 骨を折る大怪我をしたのは初めてだった。連れて行かれた整形外科でその日の内に患部を固定、ギブスを付けられた。自然治癒の具合にもよるが、一ヶ月はこのままだということを聞かされて気分が塞がった。右手は利き手だった。

 まず、料理が出来ない。当然、洗い物も出来ない。ろくに物も持てないから掃除も、……というか、家事は殆ど出来ない。まあ、六畳一間で畳敷きの今の部屋では大してやることもないのだが。

 一番困ったのは、キーボードを両手で叩けないことだった。おかげで仕事一つ片付けるのにもひどく時間が掛かって、怪我をしている間は収入が何割か減った。

 指の痛みと、激しい自分を抑えられなかった後悔でぼんやりしていたら、いつの間にか自分の部屋で寝ていた。財布の中身は減っていなかったので、治療費は宮本さんが支払ったようだ。左手でスマートフォンを操作して、彼に発信をしようとしたが、寸前で止めた。あんなことをしてから、彼になんと話掛けたら良いのか、見当も付かなかった。

 そして、彼とはあれ以来会わないまま。もうすぐ冬になる。女性に対する恐怖心には相変わらず苦しめられている。コンビニやスーパーで女性店員と目が合ったりしたときは、ギョッとして顔を伏せてしまう。好意的な影を認めるたびに、良の親の顔が思い浮かぶ。今まで何気なくやっていた女性達との性交が、とてつもなくおぞましいものに感じる。避妊はしたが……。万が一、万が一……誰かが妊娠していたとしたら……。良のような子供が、産まれているかもしれない。

 そう思うと、夜も眠れない。

 指も治りかけた、とある昼のこと。スマートフォンが見覚えのある番号からの着信を知らせた。キーボードを叩く手を止めて、訝しんで画面を見る。……見覚えはあるが、その時はどこで見た番号だったのか思い出せなかった。着信は五回か六回目のコールで途切れてそのままだった。

 その夜寝っ転がって酒を飲んでいるときに、ふと思い当たったものがあった。まさかと思って着信履歴を確認したら、疑念は確信に変わった。この番号は父の携帯番号のはずだ。こっちで安いスマートフォンに買い換えた際にうっかりアドレス帳の移行を忘れていたのだった。

 父が、間違えてこの電話番号に掛けてきたのかもしれない。そう思ってこちらからは掛け無かったのだが、翌日の同じ時刻にまた、着信があった。今度は通話ボタンを押した。どうやら、京都に住んでいた母方の祖父が亡くなったらしい。それで、葬式に参列するのにお前も来い、ということだった。正直、亡くなった祖父についてあまり思い出すことはないのだが、オレは祖母の方と仲が良かった。祖父母の家は京都府の北、舞鶴という所にある。地理的には海が近いのだが山間にあって、家の裏手には森が迫っている。家の横には畑があり、彼らはそこで野菜の世話をしているようだ。

 つまり田舎なのだが、家自体は結構大きい。そのせいか正月や盆は日本のあちこちから親戚が集まってきて結構賑やかになる。祖父はそんなとき二階にある自分の書斎に籠もりっきりで、愛想の良い祖母が客人の相手をしている。それで、親戚を交えた夕餉のほとぼりが冷めたころにのそのそ二階から降りてきて、一人だけの夕餉を始める。親に連れられて行ったときに、そういう光景を見たことが印象に残っている。そういえば、長いことあの家を訪れていない。そもそも実家に帰っていなかったからだが……。


 *


 朝の七時頃、京都の八条口に到着したバスを降りた。

 そのまま京都駅まで歩き、そこから出ている舞鶴行きの電車に乗った。最終的には、祖父母の家に辿り着くまで東京から九時間から十時間掛かったと思う。ちょっと気になって調べたら、飛行機で韓国に行くのに東京から五時間くらい掛かるらしい。……海外行けんのかよ……と、電車の中で愕然とした。金はともかくとして。……この頃はとにかくお金が無いから、交通手段が限られている。

 祖父母の家へは親が運転する車で行ったことしかなかったので、交通手段を乗り継いで行くのは新鮮だった。葬式は明日のはずだが、家の前の丸石を敷き詰めたスペースには、もう見覚えのある親戚の車が何台か止まっている。喪服と数日分の下着を入れたキャリーバッグを左手で転がして玄関口まで行くと、右側から窓が開く音がして、「ちー!」と叫び声が聞こえてきた。そちらの方を見ると、従姉妹の絵里が居間の窓から顔を出していた。

 首が引っ込んで、中から「おっとお! ちー! ちー!」という叫び声がまた聞こえる。すると間もなく、今度は親戚と居合わせていたらしい客が数人顔を出して「ちー」だとか「東んとこの」だとか「ちっこ」だとか勝手に呼んでいる。オレの両親はまだ到着していないようだった。


 親戚の一同には割と若い女性もいるのだが、そういう人たちは幼馴染みでもあるからか、オレに異性としての感心はないように見えて、気が楽だった。そして、久しぶりに見た親戚の顔ぶれにも結構変化があって驚いた。従姉妹の絵里は勢いで学生結婚をしたもののすぐに離婚したらしく、オレより年若いのに赤ん坊を抱いてテレビを見ている。昔はクソガキだった男の子たちはもう中学生で、生意気にもきちんと正座してオレに敬語を使いやがる。台所で料理をしている祖母の隣には、出所が不明のへちゃむくれな女の子が手伝いをしている。そしておじさんやおばさんだった人たちは、何かしらの病気でげっそり痩せていたり、立派に禿げ上がったりしていた。

 家の中には幾つも和室があって、親戚が荷物置きや着替えに使っても余りある。だが、オレは祖父が使っていた書斎を借りることにした。オレは一人だし、明日来る予定の親と寝る部屋が一緒になるのは気詰まりになるだろうと思った。

 納棺はもう朝に済ませたらしい。仏壇のある部屋は秋らしくひやっとしていて、線香が何本か煙を立てていた。

 今、この家には遠方から車でやってきた三家族分の人間がひしめいている。書斎に荷物を置いてから一階に戻ると、早速親戚の間で話題にされた。オレが東京の大学を辞めたらしいということは知っていたらしいのだが、その後実家に帰らずにどうやって生活しているのか、みんなが気になっているようだった。そして、何故かオレがホストクラブで働いているという噂をどいつもこいつも信じていたらしい。知り合いからウェブライターの仕事を貰ってちまちま暮らしていることを話すと、なんだかガッカリされたような雰囲気が漂った。テーブルの周りをどこかの子供が走り回っていて騒がしい。それに、台所では女が色々立ち回っていてるし、ソファの辺りでは男達が暇そうに喋っている。なんとなく居場所がない感じだった。

 オレは山に面している方の裏庭に出た。庇の影になっている所に犬小屋があって、年老いた雑種犬が鎖で繋がれている。オレを見るなり、尻尾をバタバタ振って飛びついてきた。この犬は確かドンという名前だ。名前を呼んでやると、ジーンズに一生懸命汚い足の裏を擦りつけてきた。

「ドンちゃうんやけど」と、背後からいきなり声がした。

 振り向いたら、赤ん坊を抱いた絵里が立っていた。

「違ったっけ?」

「ちゃうよー。ゴン!」

 ゴンと呼ばれた犬は、今度は彼女の方に向かって飛びつこうとした。だが、繋がれた鎖が突っかかって後ろ足で立ち上がった状態で前足をばたつかせた。

「いややわ、ばっちい」と言って笑う。

「構ってやんなよー。懐いてるんだよ、絵里に」

「腰振ってきよるもん、こいつ。すけべな犬やわ」

「別にいいだろー。おいで、ドン!」

 ドンと呼ばれた犬はオレに突撃してきた。顎の下を掻いてやると、気持ちよさそうに目を閉じた。

「なんだよこいつ、自分の名前分かってないぞ」

「ジーパンに付くで、泥」

「別に良いよ、そんなの……。その子の名前、なんだっけ?」

 赤ん坊は雑種犬を見て、楽しそうに笑って唇をぺちゃぺちゃ鳴らしている。

「この子? この子はあすか。なー」そう言って彼女は赤ん坊を揺らした。「ちー、なんか変わったわあ。男らしくなったゆうか……」

「そうかな?……自分じゃあ分からないけど。……東京で色々あったからねー」

「なんやあ、キザなことゆうわ!」と笑って、彼女はオレの肩を叩いた。

 居間の方で、大きな笑い声が上がった。テーブルの上には缶ビールが何本か立っている。

「なんだかなー。明日葬儀をやるって感じじゃないね」

「大往生やったからなあ、お爺ちゃん。通夜も簡単にしとるしな。……もう皆、お酒飲んどるな。ちーは飲まんの? てゆうか、飲めんの?」

「飲めるよー。飲まないと眠れないくらいだよ。だから、昼間は飲まないんだよ」


 *


 夜になって、明日は葬儀だというのに、夕餉はもう宴会みたいに賑わっていた。祖母は誕生日の主役のように、曖昧な笑顔で一番目立つところに座っている。石が鳴る音がして、居間の窓から玄関先の方を見ると、両親の車が停車している所が見えた。

 絵里の父親が「東んとこきよったで。遠いとこからご苦労さんやなあ」と缶ビールを持ちながら言った。

 オレは席を立った。絵里が「ちー!」と言ったが、無視して二階の書斎に向かった。


 階段を昇っていると、布団を両手に抱えたへちゃむくれな子とばったり会った。……この子は本当にどこの家族なんだろうか……。あんなに賑やかな居間に顔を見せないで、どこかの家族の、今夜使う布団を運んでいるようだが。狭い階段だったので、どちらかが昇るか降りるかして道を譲らなければいけない。階段は電球の暖かい光が照らしている。

 布団の陰から首を伸ばした彼女と目線を交わして、暗黙でオレが道を譲ることにした。彼女は首をちょっと下げて、明かりのない廊下を歩いて行った。玄関の方で両親の声が聞こえてきたので、オレは慌てて書斎に引っ込んだ。書斎には、荷物を置いた時にはなかった布団が敷いてあった。多分、あのへちゃむくれな子が敷いてくれたんだろう。

 布団に寝転がっても、心臓がいつものように音を上げ始めて落ち着かなくなった。去年の夏の出来事や、指を折った時のことが嫌でも頭に過った。居間から酒を持ってくれば良かったと思った。

 書斎は中野のアパートと同じくらいの広さだが、オレの部屋と比べると沢山の物に溢れている。窓からは秋の月の光が差していて、部屋の電球を消しても結構明るい。窓のすぐ下には文机があって、使い込まれた万年筆と蓋の閉まったインクボトル、それに書き物でもしていたのか、引き出しの中には未使用の四百字詰め原稿用紙が入っている。本棚には難しい漢字の古い装丁の本が幾つも並んでいるが、どれも年季を感じる劣化がある。本は本棚の中に留まらず、何十冊も床に平積みされている。壁に掛けられている時計の針は止まっている。電池が切れているようだ。なんだか、古典文学の文豪が寝起きしてそうな部屋だ。そう思って部屋を見ると、親しくなかった祖父の人間性が見える気がした。

 本棚を眺めていると、見覚えのある文字があった。太宰治だった。今の本の装丁と比べると随分地味だが、ともかく太宰治であることには変わりはない。オレはその中から、まだ読んだことのない「ヴィヨンの妻」を引き出して読み始めた。夫というのがとんでもない碌でなしなのだが、なんとなく自分に似ている気がした。

 この部屋には今の賑わいは聞こえてこない。裏の森からか、虫がきいきい鳴る音だけが聞こえる。それから、窓から見える星を見たり、裏の木が風に揺れているのを見たり、本を読み進めたり、どっかから入り込んだ蚊を追っかけたりして時間を潰した。

 やがて、二十三時になった。階段の上から慎重に様子を窺いながら一階へ降りた。もう喧噪はすっかり静まって、皆それぞれの部屋で眠っているようだ。居間の電気は消えている。この家は居間の明かりだけ、割と新しいLED機器を使っている。オレは常夜灯を点けた。テーブルの上は散らかったままになっている。足音を大きく立てないように注意して、冷蔵庫の中に酒が残っていないか物色した。期待通り、缶ビールが何本か入っていた。右手にはまだギブスが付いている。ビールを二本左手で持って、冷蔵庫を閉めた。振り返ると、テーブルに人の影があって悲鳴を上げそうになった。

「き」としゃがれた声で人影が言った。

「え。……へ?」

「お腹、減ったっちゃろお。き、こっち」

「……婆ちゃん?」

 恐る恐る近寄って見ると、祖母らしき深い皺の陰だけが見えた。しわしわと笑っている陰だけが張り付いたようにあった。

「お腹減ったっちゃろお」

 祖母の隣の席には、まだ使われていない茶碗がある。何もよそわれていない。急に背中からどろどろ汗が出てきた。

「あの、……」ビールを持って馬鹿みたいに突っ立っていると、急に白色灯が明るく点いた。

 居間の入り口に、さっき階段で会ったへちゃむくれな子が立っていた。彼女はテーブルに座っている祖母に近づいた。祖母は笑顔が張り付いたようで、オレをじっと見ている。

「おばあちゃん、もう寝よな。な」と、へちゃむくれな子は優しく祖母の肩を叩いた。

「お腹……」祖母は笑ったまま、眉毛を八の字に曲げた。

 へちゃむくれな子はオレの顔を見た。

「おじいちゃんに似てるけどな、この人。でもちゃうからな」

「あ……」

「寝よか、ほら」と言って、彼女は居間の奥にある寝室に祖母を連れて行った。

 オレは呆然と立ち尽くした。やがて、寝室の扉からへちゃむくれな子だけが出てきた。

「おばあちゃん、今日皆が来て楽しかったんやろな。ちょっと疲れて、ぼおっとしてもうたんやろな」

「そうなんだ。……ちょっと、ビックリした」

「時々あるんやわ。ああいうの。まあおばあちゃんも年やしな」

 彼女は改めてオレの顔をまじまじと見た。ちょっとぞわっとした。

「似とるわあ……」と心底感心したように言う。

「オレ?……誰と?」

「おじいちゃん。昔の写真見たことあるねんけど、そっくりやで。似とるわあ……」

 ……オレが若い頃の祖父に似ているなんて知らなかった。それにしてもコイツは誰なんだろう。

「そういえば、君誰?」と先に彼女がオレに言った。

「誰って、……千里だけど」

「ちさと? ああ、東さんとこの馬鹿息子」

「……」


 *


 昨晩は酒を飲み始めてから二時間くらいで眠りに落ちた。目覚めると、昨晩は星を見上げていた窓から熱い太陽光が顔に刺していた。喉の渇きと尿意で目が覚めると朝の九時頃だった。起きて、まずはトイレに行こうと、一階に降りた。居間には女性が台所で朝飯の準備をしているようだった。テレビの前のテーブルは綺麗に片付いていて、男はまだ朝方の生活をしている何人かしかいなかった。彼らすら一様にぼおっとしている。二日酔いかもしれない。

「ちっこ、昨晩お前の父ちゃん来とったで」とニュースを見ながら、佐久間という姓の叔父が言った。

 そこで思い出した。……そうだ、この家にはオレの両親が来ているのだった……。台所を見ると、オレの母親が忙しそうに料理している一員だった。オレには目もくれない様子だ。トイレで小便を済ませてから居間に戻ると、丁度オレの父親が上下スウェットのだらしない格好で入り口の戸を開いた所だった。突然のことだったので、お互い一瞬唖然と見合わせた。ソファーで寝転んでいる佐久間の叔父はニュースを見ながら、「どはあ」と声を上げて欠伸をした。

 久しぶりに見た父親は、随分老けたように見えた。目尻の肉は下がって、髪の毛も随分白いのが混じっていた。オレは痒くもないのに、シャツを捲って腹をガリガリ掻いた。

「お前、喪服は?」と父親が言った。

「あるよ、上の書斎に」

 ここに来る前に、なけなしの一万円で喪服を買った。おかげで今月の家賃を払う目処は今のところない。葬式が終わったらさっさと東京へ帰って陣から仕事を貰わなければいけない。

 台所にいた女性たちが料理を持って俺たちの間を慌ただしく過ぎた。

「ほおら、千里も手伝いしな!」と、母親に怒られたので、父親と話す暇もなく料理を運ぶ手伝いをした。そのうちに誰かがまだ寝ている人を起こしに行って、だらしない格好をした男たちがのろのろ居間に入ってきた。それから全員で朝飯を食べて、全員喪服に着替えた。十一時頃に家の前に止めている車を全て使って舞鶴市の葬儀場へ向かった。

 そこで、随分久しぶりにお坊さんという人種を見た。そして、同じくらい久しぶりに祖父の笑い顔を見た。多分何かの集合写真から合成したのだろう。縮尺を無理矢理伸ばしているようで、礼服の部分はちゃんと写っているのに顔の部分はちょっとぼやけていた。葬儀、告別式を終えてからはそのまま火葬場に行った。

 遺体を焼く時に副葬品として、一緒に酒や花を一緒に焼くのだが、北海道から来た佐久間の叔母が「ええっ! こっちじゃ、十円玉入れないの……」と驚愕していた。オレは昨晩読み切った「ヴィヨンの妻」でも入れようと思って持ってきたのだった。しかし、父親に「千里、本はやめとけ」と、止められた。

「……なんで?」

「灰が残る」

 灰が残ることの何がいけないのかよく分からなかったが、結局焼くのは破った一ページだけにした。それ以外にオレは焼く物を持っていなかったし、これを一緒に焼かないとなんとなく不憫な感じがした。今、ここに横たわっている祖父が太宰治を読んでいたなんて、ここの人間の内の一体何人が知っていたのだろうか?


 祖母の家に戻って夕方になる頃、北海道から来た佐久間の家族が帰った。制服を着ていた子供がきちんとオレに別れを告げて、車に乗り込んで行った。絵里の家族は、明日の朝に京都市内へ戻るらしい。それで、家には今、オレの家族、祖母、絵里の家族と、それに加えてへちゃむくれな子が居るのだが、一家族分の人間が消えて家の中の風通りは良くなった気がする。オレは裏庭で涼んでいた。山の縁が真っ赤になっている。空の反対側からは徐々に静かな闇が近づいている。居間の方ではバラエティ番組を、テレビの音を大きくして見ている。台所の近くの椅子には絵里の母親と祖母が座っている。居間にオレの母親の姿が見えないので、多分部屋で寝ているのだろう。ドン(?)はさっきまでは汚いぬいぐるみをオレに押しつけて喜んでいたが、今は足下で寝ている。

 バラエティー番組がCMに入った時に、父親がテレビの前からオレの所に来た。

「お前、その指どうした」

 オレは右手の指を見た。メッシュのギブスをしている部分からの皮膚が白くなっていた。

「怪我したんだよ」

「お前仕事してんのか。飯、食べてんのか」

「当たり前だろー。じゃなきゃ、とっくに野垂れ死んでるよ」

 一年前の自分の生活を棚上げにして、オレは言う。父親は口元の皺を少し深くして、煙草を吸い始めた。煙の臭いは、宮本さんとは違う。煙を嗅いだドン(?)は鬱陶しそうに鼻を鳴らした。

「そういえば、あの子ってどこの家の子?」

「あ?」

「あの、……」オレは「へちゃむくれ」という言葉を飲み込んだ。「……女の子だよ。よく家の手伝いであちこちバタバタしてるじゃない」

「あー、大阪の子だろ。みおちゃん」

「大阪?」

 そういえば、昨晩は大阪の方の関西弁を使っていた気がする。どうでもいいが、絵里は京都、祖母は広島の方言を使う。北海道の佐久間さんは標準に近いが、時々北海道の方言が飛び出る。お陰で食事の時に全国の言葉遣いが行き交って、何を話しているのか分からなくなる。

「大阪から来たっちゅうぞ。爺さんの遠縁なんだと」

「ふーん……一人で来たのか」

「いや、元々ここに住んでるんだぞ。こっちの中学校に通ってるんだと」

「へえ。……」

 大阪の人間が何故、舞鶴の学校に通っているんだろうか……。まあ、人生って意外と色々あるもんだから、大阪の学校で何かあったのかもしれない。


 その日の晩飯も、明るい雰囲気だったと思う。葬儀場で、骨になって出てきた祖父のことは話題には出しても、それでも実際にはいなかったみたいだった。自分の交友関係からある日突然消えた人間みたいな、そんな扱いだったような気がする。そういえば、と思って食卓を見回すと、やはりへちゃむくれな子はいなかった。


 *


 その夜、書斎で寝転んで一人で酒を飲んでいたらジャージ姿の絵里が勝手に入ってきた。風呂から上がった後なのか、黒い髪が湿っていて、前髪をピンで止めてデコを出している。いきなりのことだったので、丁度ワケもなく勃起していたから焦った。……オレは、結構な頻度でワケもなく勃起する。この現象には本当にワケが無いから、小便をしているときとか、今みたいなときに発生して結構困る。もしかすれば、不眠で二十四時間疲労していることが関係しているのかもしれない。オレは、下半身を布団で覆った。

 そんな様子のオレを、絵里は特に不思議には思わなかったようだ。

「ちー、明日私帰るで」

「……うん」

「……せやから、今言っとかんとあかんから言うけどな、ちー、はよ家族と仲直りせなあかんよ」

「……」

 オレは天井をぼんやり見上げた。

「わかってるよー……」

 電球の光に手を翳しながら、横目で絵里を見る。

「まあ、あんな別れたての恋人みたいな付き合い、ずっと続けてらんないよねー」

「なんやの、それ。別れたての恋人て」と言って、彼女は口を手で覆って笑った。「でも、さっきはそんな感じやんな」

 彼女は部屋の本棚を見回し始めた。そして本棚の前の椅子に座ってしまった。

「書斎って、本当に書斎やねんな」

「そりゃそうだろー」

「ちー、私と会ったのめっちゃ久しぶりやんなあ。昨日、私びっくりしたわ」

「なんで……」

 言いかけたときに、いきなりオレが寝転んでいる布団に倒れ込んできた。彼女の頭の重さがみぞおちに凭れて呻いた。それからすぐに彼女は顔を起こした。オレの下半身のブツは彼女の腹に当たっている。

「……興奮しとるん?」

「ど、どけよ」

「私な、ひっさしぶりにちーの顔見て感動したんよ。私、最後にちーと会ったときから色んな男の人と付き合ったけどな、やっぱり一番ハンサムなのはちーやねん。ほんまに整った顔やわ……。そこらの芸能人なんか屁でもあらへん」

 絵里はオレに馬乗りになって、オレの顔を両手でぐにぐにもみ始めた。

「やめほ!」止めろ、と言ったつもりだ。頬を摘ままれているので、ラ行が上手く言えなかった。

「……これは奇跡やで……ほんまに。男だって女だって、誰でも夢中にさせてしまう顔……」

 おもむろに彼女は唇を近寄せてきた。オレは咄嗟に今再読していた「人間失格」で彼女の側頭部を勢いよく引っ叩いた。彼女は小さい悲鳴を上げて、裏切られたような顔をした。

「ひどお! 勃っとるくせしてえ!」

「絵里、……お前子供がいるんだろ。こんなこと、するなよ」

 そう言うと、彼女は夢から覚めたみたいに目線を上げて、辺りを見渡した。それから笑った。白い歯を見せて、またオレに顔を近づけた。そして小声でこう言った。

「あんな子な、おらんかったらええ」

「……」

 オレは言葉に詰まった。

「弾みで出来た子や。……どうせ弾むんなら、あんたとが良かったな! せやったら、あすかも美人に産まれたやろなあ」

「……」

「な、ちー。な。しようや。もう皆寝とるし、な」

「……今、好きな人がいるんだ」

「だったら、私がその人やと思えばええ」

「……男なんだ……」

 絵里は抽象画を見るような顔をして、ゆっくり、ゆっくり首を捻った。後ろからは天井にぶら下がっている電球のぼんやりした光が差している。

 そのとき書斎の扉が叩かれた。

 

 オレと絵里は首を回して、叩かれた扉を見た。絵里は眉を顰めて、「なん、……」と絶句した。オレは絵里を押しのけて起き上がった。

 誰が扉を叩いたのだろか。と思いを巡らせていると、絵里は小声で「聞こえるやろか?」と聞いてきた。

「……この部屋の話し声、外まで聞こえるやろか?」

「……」

 分からない。少なくとも、書斎の前の廊下を歩いていて祖父の独り言が聞こえてきたことはなかった。……そもそも、廊下に響く程の独り言を呟くような奴はまともじゃない。

 また扉が叩かれた。

 ともかく、オレは絵里に押し入れに隠れるように言ってから扉を開けた。

 薄暗い廊下に例のへちゃむくれな子、待ちぼうけたようなみおが突っ立っていた。

「寝とったん? 東さん、……あんたのお父さん、呼んでんで。部屋に来いって」

「そっか、ちょっと待って」

 オレは絵里が隠れている押し入れの襖をちらっと見た。……まあ放っといても問題は無いだろう。


 *


 酒を飲み過ぎて便器に向かってゲロを吐いたことは何度かあったが、くみ取り式の便器に向かってゲロを吐いたのは初めてだった。水洗式に向かってゲロを吐くときは、水の跳ね返りが少なからずあるし、なんだかんだで胃の内容物と対面するのはげんなりする。それに比べて、この便器はすごい。糞尿の臭気はあるものの、ゲロがそのまま闇に吸い込まれていくというのはちょっと素晴らしいと思う。この便器が今日本中から消失していっていることは寂しい。

 吐き終わってトイレの扉を開くと、みおはまだ暗い廊下に立っていた。

「大人って、なんでそんな吐くまで飲むんやろな?」

 実際は、大して酔ってなんかいない。書斎から出て廊下を歩いていたら急に胃の中身がのたうち回ったので、慌ててトイレに入った。今になって体が拒否反応を起こしたようで、汗が出て、足が小刻み震え始めた。オレは立ったまま太ももを手で揉んだ。

「色々あるんだよー、大人って」

「はん。息くさ。口すすぎ」

 それから、また電気の点いていない廊下を歩き始めた。外は山の方から強い風が吹いている。窓の木枠がぎしぎし鳴っている。木の渡り廊下はひんやりとしていて、裸足で歩いていると気持ちが良かった。

「それより君、なんでうちの親の伝言役なんか頼まれてるわけ? 子供は早く寝なよー」

 すると、みおは横目でオレをきつく睨んだ。そもそも目が細いので、鬼のような顔だった。

「あんなん嘘に決まっとるやんか。あほやな」

「嘘?」

「あのオバさんにしつこくされてたやんか。助けてやったんやで」

「……聞こえていたのか?」

「はん」

 前を歩いているみおの肩がいきなり揺れ始めた。どうしたのかと思ったら、彼女は笑っているらしかった。歯の隙間からふすふす息を出して、奇妙な笑い方をしていた。

「おじいさん亡くなったゆうのに、ほんま不謹慎なもんやで。佐和さんとこの子供おったやろ? 部屋ではな、北海道に早く帰りた~い早く帰りた~いってそればっか。ほんまどいっつもこいつも……」

「君、……まさかこの家のあちこちで聞き耳立ててるのか?」

「聞きたなくても聞こえてくるんやもん。しゃあないで。この家ぼろやしな。冬なんて、隙間風が冷たくて冷たくて酷いもんやで」

 そういえば、廊下のあちこちに新聞紙やらブルーシートの切れ端やらが釘で打ち付けられている。隙間風を防いでいるんだろう。もしかしたらみおが大工をしたのかもしれない。


 絵里が眠りに入るまでは居間にいようと思った。奥の寝室では祖母が寝ているから、テレビの音量は小さくしている。テーブルの上には、誰かの飲みさしのビールの缶や丸まったティッシュなんかがまだ残っている。みおはそれを台所へ持っていて、缶の中身を流してからきちんと分別して捨てた。それから濡れた布巾を持ってきて、テーブルの上を拭き始めた。

「みおちゃん、もうこっちに来て長いのー?」

「あーん?」

「大阪にいたんでしょ、君」

「せやで。懐かしいな。中学一年からやから、もう随分になるわ」

「今何年生?」

「三年生。受験勉強の真っ最中」

 となると、二年か……。二年って、この年頃からすると途方もないくらい長い時間なんだろう。そう考えると、思春期のことがもう大昔に思えた。中学生、高校生の頃に付き合っていた恋人のことや、童貞を卒業した時のことを思い出した。そして、大学……。ひたすら他人に甘やかされて生きていた数年前。大知のこと、良のこと。宮本さんのこと。

「青春だねー……」ソファに寝っ転がって、テーブルを拭いているみおを見ていた。

 オレも、もう大人になった。

 みおはオレを見て、「はん」と喉を鳴らした。

「そんなことは、ちっこさんが大人だから言えるんよ。こっちからすれば、毎日は戦争やねんで」

「ふふ。……戦争か……」

 宮本さんにキスしたときのことを思い出した。あのときは、自分ですらあんなことをするとは思いもしなかったのだった。彼に惹かれているなんて思いも寄らなかった。はたと気が付いたときには、体の中のアルコールが蒸発するくらいに思いが熱かった。彼の目は怖かった。

「戦争だよねー……」

「せやで。受験戦争やで」


 *


 翌朝起きてそのまま窓から玄関先を見下ろしたら、絵里はあすかを抱いて祖母とオレの両親に別れの挨拶をしていた。彼女の父親は運転席に、母親は助手席に座っているらしい。車のウィンドウが開いている。絵里は昨晩の出来事なんて無かったかのように清々しい笑顔を祖母に見せている。あすかは無邪気に腕と足を振り回している。

 彼女は祖母とオレの両親に頭を下げてから、この窓に顔を向けた。目が合ったが、彼女からオレが見えたかは分からない。そして、車の後部座席に乗りこんで、帰って行った。

 ……女って怖いな……。世の中あんなサイコばかりなのか?……臍の横を掻きながら思う。昨晩どこかから入ってきた蚊に刺されたらしい。やっぱり子供なんか作らない方が良い。

 

 一通りの身支度を済ませてから居間に行くと、もうオレの両親も帰る支度をしていた。

「千里、お前いつ帰る」と、父親がズボンのベルトを締めながら言う。

「いつって、……別に決めちゃいないけど。まあ、夕方頃にでも帰るかな。バスだし」

 シャツに手を突っ込んで刺されたとこを掻きながら言うと、何故か父親は当てを外したような顔をして、ズボンのチャックを閉じた。

 それから彼らは、一日分の着替えと喪服をを入れたバッグを持って玄関口へ行った。祖母は何かをみおに言いつけて、オレの母親を引き留めた。みおは小走りで居間の方へ走っていって、野菜が入った大きなビニール袋を持って戻ってきた。袋にはニラとただの葉っぱみたいな野菜が入っている。そういえば、実家にはよく祖父が作った野菜が送られてきていた。母親は「いいのに~いいのに~」と笑って言っているが、多分心から迷惑に思っている。もう、この家の畑では野菜を作っていない。祖母が老人会の伝手で貰ってきたのだろう。父親がみおから重そうな袋を受け取って、玄関口から出て行った。母親もそれに続いて玄関先まで出たところで、「ちっこ、あんた、正月くらいは帰ってきなねー」と、さも思いついたように言った。

「さっきのお父さんの話ね、あれ多分いつになったらうちに帰るのかってことだよ」

「え?……あー」

「お父さん、シャイだから」

 東京じゃなくて、広島にいつ帰るのか、ということだ。だから父親はあんな顔をしたのだった。それより、父親が「いつ帰って来るのか?」なんて聞いてきたことが驚きだった。

あの沈黙の期間は一体何だったんだ? しかし、紆余曲折はあっても自立した生活を送れている今がある。金を稼ぐ、そんな簡単なことで溝は深まったのか。そう思うと呆然としたくなった。

 長らく実家に帰るということは頭に無かった。大学に入学して最初の年の正月は、振り込まれた金で飛行機に乗って帰った。しかし、いざ帰ってみると実家は広島というよりも四国地方の片隅という感じがして、わざわざ空港からキャリバッグを転がして帰ってきた自分がバカバカしく思えた。実家の周りには子供の頃に遊んでいた公園や、たまに釣りをしていた川があったが、馴染みの喫茶店や恋人はいなかった。それから、オレは実家に帰っていない。

 両親と別れるときに、父親から封筒を渡された。中には万札が入っていた。みっともないと思ったが、後ろを向いてこっそり数えたら十枚入っていた。玄関口に立っていたみおと目が合った。彼女は白い目でオレを見ていた。ともかく、これで今月の生活費の心配は無くなった。札を封筒にしまって振り返ったら、もう車は車道に出たところだった。祖母はのろのろ歩いて行って、車が見えなくなるまで手を振っていた。

「ちっこさんも一緒に帰ったらよかったんちゃうん?」

「そうはいかないよ、オレにだって一応仕事があるんだから」

「いつ東京から広島に帰るん? そのうち帰るんやろ?」

「まあ、そうかもねー」


 残された三人で昼にやっている番組を見ながら昼飯を食べた。オレが作る料理とは味付けの好みが違うが、たまにはこういうのも良いかもしれない。そして、人が居なくなってようやく家の静かさに気が付いた。静かであることは、きっと住人が持て余すほどに家が広いことと関係があった。東京では想像が付かない静けさだ。ここに居続けるとどこまでも感覚が鋭敏になる気がする。

 書斎で帰り支度をしていると、風の気配がして部屋の中を見回した。注意すると、確かに隙間風が入っている音が聞こえる。窓枠や壁の隅々を調べても穴が開いているところはなかったが、文机の裏を見ると土壁の一部が劣化しているようで穴が開いていた。藁の下地と、さらに奥から壁の中の空洞が見えていた。

 ……ここから風が入ったのか……。もしかしたら、昨晩部屋に入り込んだ蚊もここから出てきたのかもしれない。オレはしゃがみ込んで、軽く穴の縁を擦った。土壁はぼろぼろ崩れた。何かがぶつかったから脆くなったのか、元々脆かったから穴が拡がっていったのか。

 あとでみおに教えてやろう。

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