1.2 図書室

 職員室で溜まったプリントを受け取った後、校舎の最南端にある図書室に向かい廊下を進む僕の耳に、体育の授業中だろう、何かの掛け声が聞こえてきた。


 僕が大人になったとき、ここにこうして一人でいたことを後悔するんだろうか?


 ◇   □   ◇


 僕はよく本を読む。


 週に一冊や二冊では到底足りないので、少ないお小遣いを使うのは本当に好きな本に出会った時だけだ。

 読みたい本は山ほどある。そんな僕にとって、悲しいかな本屋通いは体にこくだ。すぐに読みたくなっても、なかなか手が出せないのだから。


 近くに図書館があればもっといいんだけど、結構都会に住んでいる割には、僕の家から図書館までは、歩くと片道一時間もかかる。


 仕方がないので、プリントを受け取りに来た日には、学校の図書館に寄ることにしている。

 

 目が覚めている間は、止まることのない時間が僕を追いかけてきて、未来という名の怪物となって襲ってくるけれど、読書に没頭しているときだけは、すべてを忘れられる気がした。


 図書室に着くと、本棚の奥から物音が聞こえてきた。


 本棚の上から頭がのぞいて見える。

 僕の好みの本がある棚だ。棚までくると、図書室の書籍の整理をしているようで、司書の児玉さんが脚立を使って忙しく本棚から本を下ろしていた。児玉さんはいつも白のTシャツに、黒のジーンズを履いて、上からベージュのエプロンをつけていた。エプロンのポケットには、古びた万年筆がささっている。


 僕はこの図書室の常連なので、児玉さんは僕が入ってくると、静かに「おかえり」とだけ言って、作業に戻った。


 そう、児玉さんの挨拶は少し変わっている。「おはよう」とか「こんにちは」は初めて図書室に来た人にだけの言葉。「さようなら」と言っているのは、見たことがない。


 僕が本を借りて、「ありがとうございます」と言うと、「こちらこそ」と言葉が返ってくる。


 借りた本をカバンに入れて、図書室の出入り口の扉を開けると、「気をつけて、いってらっしゃい」と言うのだ。


 だから僕も、「いってきます」と答えるようになった。


 とにかく、今、僕の前にいる児玉さんは、脚立に、数冊ずつ、本棚の最上段に並んだ本を、床に置いたカゴ中に並べていく。僕がよく読む海外小説のある棚は、児玉さんが作業中の棚に面しているので、僕は作業の邪魔にならないようにと、その場から離れようとした。そのとき、大きな青い背表紙の百科事典を抱えた児玉さんが、脚立の上で少しバランスを崩して、本棚に掴まった。


「大丈夫ですか?」


 僕は咄嗟に手を添えて脚立を支えた。


「ありがとう」

「手伝いましょうか?」


 僕が手を差し出すと、児玉さんが百科事典をゆっくりと手渡してきた。僕は、ずっしりと重いその事典を受け取って、そっとカゴの中に入れた。


「これ、全部下ろすんですか?」


 僕が本棚を見渡しながら質問すると、児玉さんは少しだけ苦笑いした。


「そうなの。って言っても、今日はこれで十分。全部ラミネート加工して、貸し出しもデジタル管理するのよ。今時アナログで管理してる方がおかしかったんだけどね。それから、さらに校舎の東側に学習エリアを増築するそうよ。ずっと資金不足だったのに、今学期、突然学校の図書室用に多額の寄付があったの。それで、私の仕事が増えたってわけ」

 

 児玉さんは、脚立から降りて背伸びをすると、カゴを抱えて貸し出しカウンターの奥に設置されている作業台に向かった。確かに、ラミネートシートが入った箱が何箱も積まれている。


「僕も、ラミネート手伝ってもいいですか」

「悪いけど、君の本業は学業だから、断るね。どうしてもって言うなら、放課後なら大助かりだけど」


 僕がこの図書室に来るのは、平日の午前中のみだ。もちろんそのことを知っていて、児玉さんは言っているのだけど。


 空になった本棚の最上段を見上げると、薄い本が残っているのが目に入ってきた。


 児玉さんが下ろし忘れたのだろうと思い、脚立に登って本を取ろうとすると、そこにあったのは古びた手書きのノートだった。


 僕は特に深く考えもせず、そのノートを手にすると、脚立から降りて、裏表紙をめくった。その瞬間、開いた窓の隙間から、風が吹き込んできて、ノートを数ページめくった。


 僕は開いたページを見て、心臓が止まりそうになった。


 そのページには、小さく丁寧な字で、


『世界がすごく綺麗だから。私、明日、死のうと思う』


 と書いてあった。



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