第2話 家出してきた妹

 俺が住んでいるアパートの部屋は二階の角部屋にある。仮に部屋の前に人が座り込んでいても近隣住人の邪魔にはならない位置取りだ。


 部屋の入り口に座り込んでいる女子には見覚えがあった。


 その小柄で華奢きゃしゃな身体付きが隣に置いてあるキャリーケースの大きさをより一層と際立たせていた。


 長いまつ毛の下に隠れている宝石の様な翠眼すいがんが俺の顔を恨めしそうにジッと見詰めている。


 この心情を例えるなら餌をやり忘れた飼い猫に見上げられる飼い主の様な気分だった。


 髪の毛をミルクティーで染めたかの様な淡い色の茶髪。俺はそれがヘアカラーではなく天然の地毛である事を十年以上前から知っている。


 ゆるいパーマをかけたロングヘアーのヘアスタイルとヘアアレンジの編み込みがいかにもパリピ系の陽キャといった雰囲気を醸し出していた。人によってはこういう感じの女子高生は《ギャル》という生き物にカテゴライズするのだろう。


 小さい頃はあんなに癖っ毛だったのに……どうやらこの一年でお洒落にさらなる磨きをかけていたらしい。


 ティーン雑誌のモデルにいそうな攻めた感じの服装も流行りのメイクも一目で分かるほど良く似合っている。


 すっかりと見違えてしまった。第一印象で出た感想はそんなありふれた人物評価だった。


 しかし、高校デビューで張り切り過ぎた感じが否めない。そこまでチャラい感じにしなくてもよかったんじゃないか?


「…………」


 無言のままジーッと抗議の目を向けている女子高生はどうやら俺の言葉を待っている様子だった。


「久しぶりだな莉奈。こんな所で何やってんだ?」


 俺がそんな挨拶をすると目の前にいる女子高生もとい俺の妹・子川莉奈こがわ りなは薄い唇を開いてポツリと呟いた。


「……家出してきた」


 そんな予想通りの答えに俺は短く「そうか」と返した。


「てゆーか、お兄ちゃん今までどこで何やってたの? 電話にも全然出ないし、もうとっくに一時過ぎてるんだけど?」


 口から不満の爆弾を吐き出した妹に俺は簡潔に「バイト」と答えた。


「ええっ、お兄ちゃんのやってるバイトってこんな時間まで働かされるの? 何それ完全にブラックじゃんか……」


 目を白黒させて俺の口から出た微妙な嘘を鵜呑うのみにする妹。本当にこいつは俺の言ったことを疑わないよな。ちょっとは頭を使えよ。


「あの電話、お前だったのか?」

「うん。その電話番号莉奈のだからちゃんと後で登録しておいてね? てゆーか電話出てよ」

「悪い。知らない番号には出ない主義なんだ」

「むー、知らない番号でもお兄ちゃんの方からかけ直してくれてもいいじゃんか……めっちゃ待ったんだよ」


 電話の着信履歴から察するにおそらく最低でも二時間くらいはここに座っていたのだろう。我慢ができない妹にしては根気強く粘った方だと思う。


 なんにせよこんな時間の夜道を妹一人で帰らせるわけにはいかない。


「とりあえず部屋に入れよ。そこに座ってるとパンツが丸見えだぞ」

「…………っ!?」


 ガバッと。

 必死に短いスカートの端で生脚を隠す妹。微妙に隠し切れておらずやたらと光沢感のあるピンク色の下着はなおも見えたままだった。


「……お兄ちゃんのえっち」

「アホか。妹の下着なんて何とも思わねーよ」

「……むぅ」


 涙目で何かを言いたそうな妹を素通りして部屋の鍵を開ける。


「……家出した理由訊かないんだ?」


 背後からそんな質問を投げられた。

 家出した奴めんどくさ。率直な感想がそれだった。


「あ? 訊いてほしいのか?」

「……そういうわけじゃないけど」

「じゃあいいだろ。さっさと入れ」


 キャリーケースを持った瞬間に「ありがと」と聞こえるか聞こえないかの小声が耳に入ったが……細かいことは気にせず靴を脱いで玄関の中に上がる。


 正直言って一秒でも早く眠りにつきたかった。


「ただいま」


 玄関を上がった妹は何故かそんなことを口に出した。まるでここが自分の家だと言わんばかりに。


 常識的に考えて人の家に上がる時は「お邪魔します」が世間一般の挨拶だと思うのだが。


 違和感が気になって後ろを振り返ると──そこにはまた『何か』を言って欲しそうにジッと待っている妹の瞳があった。


「…………」

「…………」


 沈黙が数秒間。

 いや、お前の家じゃないだろ。喉元まで出かかった指摘をどういうわけか俺は飲み込んでしまった。


「……荷物、廊下に置いておくぞ」

「……うん」


 妹は雑に脱いだ俺のスニーカーをわざわざ綺麗に直した後、自分の履いているミュールを静かに脱ぎ始めた。

 

 丸まった華奢な背中を一瞥いちべつして先に部屋の中に入る。


 別に妹に見られて困る物は無い。一人暮らしだから単純に物が少ないってのもあるけど。


 部屋の明かりをつけると狭い部屋がより一層狭く感じた。


「意外。思ってたより部屋綺麗だね」


 妹のイメージの中では一人暮らししている俺の部屋は汚いと予想していたのだろう。実際のところ実家の部屋は物で散らかっていた。綺麗か汚いかで比較すれば間違いなく汚い部類だ。


「うーん。綺麗っていうより物が少ないね」


 興味津々に部屋をキョロキョロと見回す妹に俺は「後は好きにしてくれ」と一言だけ告げる。


「俺は廊下で寝るからベッドとか適当に使ってくれ。じゃあな」


 正直言ってこれ以上妹と会話するのが苦痛だった。多少は酒も入っているしバイトで肉体的疲労も溜まっている。


 なによりも会話がもう続かない。


 面倒臭い事は明日に回して今はとにかく眠りにつきたい。時間も時間だし、最低でも四時間は寝ないと学業に支障をきたす。それだけは勘弁してほしい。


 逃げるが勝ち。ある意味で真理だと思う。


 だけど。妹がそれを許してくれない。


「待って」


 キュッと。妹にそでを掴まれて部屋からの離脱を阻止されてしまった。


「……まだ何かあるのか?」

「ん、お兄ちゃんの対応がなんか冷たいなって」

「無償で泊めてやるんだ。対応としては充分だろ」


 違くて、と妹は言う。


「……久しぶりに会ったのに、これで終わりはだよ」

「…………」


 またか。妹のワガママ。こっちは眠気が限界なんだ。空気読めよ。


「久しぶりって。まだ一年しか経ってないだろ」

「一年も、だよ」


 確かに時間の流れはひしひしと感じている。一年経てば背も多少は伸びるし身体つきだって変わる。

 成長した分だけ女らしさが増していく。

 だからこそ意識せずにはいられない。相手はもう無邪気だった頃の妹ではないと。


 こんな時『普通の兄妹』ならどうしているのだろう。誰かに訊いたら答えてくれるのだろうか。


「莉奈、お兄ちゃんともっと話したい。この一年でいろんなことがあったんだ」

「…………」

「あとね、お兄ちゃんと一緒にゲームがしたいな。それにお兄ちゃんが作ったご飯も久しぶりに食べたい」


 背中にすがり付くような妹のワガママが容赦なく俺の鼓膜をグラグラと震わせた。


 昔は抵抗なんて何も無かったはずなのに。


「……それは駄目だ」


 俺がそう言うと数秒の静寂の後、背後から悲しみの空気が匂ってきた。


「……………っ」


 袖を掴んでいる妹の手は震えていたし息遣いは声を詰まらせているかと思うほど細く弱い呼吸音だった。


「………ごめん。莉奈、またお兄ちゃんのこと困らせちゃったね」


 そう言って。

 妹の口から悲痛めいた嗚咽おえつが漏れる。


「ごめんねお兄ちゃん。こんなの迷惑……だよね」

「…………」


 ああ、駄目だ。

 こんな言い方じゃ、また泣かせて終わりになる。

 危うくまた同じ過ちを繰り返すところだった。

 人として兄として。

 妹をこれ以上泣かせることは看過できない。

 妹に何があったのかは知らないけど。少しくらい甘やかしてもいいよな。

 せめて今この瞬間くらいは。


「……今日はもう遅いから明日にしてくれ。どうせ一日くらいの家出じゃ終わらないんだろ?」


 振り返ると、そこには涙でにじんだ瞳を小さな手で必死に隠す妹の姿があった。


「……グスッ。お兄ちゃんの意地悪。そーゆー言い方、勘違いするからやめてって言ったじゃん」

「悪かったな」

「謝るんだったら最初からもっと優しくしてよ。莉奈はこれでも傷心中なんだからね?」


 小生意気な口は相変わらずか。兄としては少しくらいはそこら辺も成長して欲しいところだ。


「分かった。いいから大人しく寝ろ、嫌なことは寝れば大概なんとかなる」

「莉奈まだ眠くないんだけど」

「寝ろよ。夜更かしすると背が伸びないぞ」

「もー、そういうとこだよお兄ちゃん。莉奈を子供扱いするのいい加減やめてよ」 

「子供だろ。悔しかったらもっと大きくなれ」

「莉奈は小さいままでいいよ。小さい方が得することあるし」

「…………は?」


 昔は「寝ないと大きくなれないぞ」とか言って中々寝ない妹をさとしていたけど。

 そうか、大きくなるのは諦めたのか。

 少し寂しい気もするけど女子なら背が低くても不自由な事はあまり無いから俺がこれ以上とやかく言う必要はないのだろう。


「それに“育って欲しい部分”はそれなりに大きくなったし。まぁ、もっと育ってくれるならそれはそれでありがたいけど」

「…………」


 モニョモニョと。そんな事を呟いた後、妹の視線が自身の胸元に向かった。


「これでもDあるし……」

「…………」


 自己申告するな反応に困るだろ。

 俺はこれ以上その話題を広げない様に「いいから寝ろ」と妹の頭にポンと手を置いた。


「ひゃうっ」

「っ!?」


 妹の驚いた表情を見た瞬間に思ってしまった。昔の癖がこんな場面で出てしまった、と。


 我ながら軽率な行動だったと思う。相手はもう小さい頃の妹ではないというのに。


「……うん。やっぱり莉奈は小さいままでいいかな」


 目を細める妹の表情は昔の記憶に残っていた『あの頃の莉奈』のままだった。

 間違いが起きる前の無邪気な表情で。


「……お前が寝ないならベッドは俺が使うぞ。硬い床で寝たくないなら冗談抜きで早く寝ろ。つーか俺はもう寝たいんだ」


 妹の頭から手を離してベッドの方に向かう。狭いから移動なんてあってない様なもんだ。


「いいよ、それで。莉奈寝る前にシャワー浴びたいし」

「ああそうか。せめてもの情けで枕と毛布くらいはくれてやるよ」


 ベッドにある枕と毛布を床に放り投げると妹は浴室のドアに手をかけ意味深な視線を送る。


「一応言っとくけど……お風呂覗かないでね?」


 さっきまで泣いていたせいなのか、はたまた恥じらっているのか理由は定かではないが妹の顔は少しだけ赤味を帯びていた。


「うぜえ。何キャラだよお前」

「んー強いて言うなら妹キャラかな」

「…………」


 妹キャラじゃなくてお前は正真正銘の妹だろ。

 たとえ血の繋がりがなくても。妹はやっぱり妹だ。


 パタリ。浴室の扉の閉まる音が耳に入ると気が緩んだのか我慢していた睡魔が唐突に襲って来た。


 枕も毛布もないベッドに横たわると意識が微睡まどろみに溶け始め天井の光が眩しく感じなくなった。


 電気、消すの忘れてた。まぁ、いいか。寝よ。


「……お兄ちゃん、起きてる?」


 寝てる間にそんな妹の声が聞こえた気がするが──正直言ってその後のことはあまり覚えていない。


 ただ一つ言えることは過去にも似た様な状況を経験した気がするという強烈な既視感デジャヴだけが俺の中に強く残っていた事だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る