17 起動
深々と頭を下げた滝尾彼方は、なぜだか妙に憔悴しているように見えた。
ジロチョウ祭り前日。市民会館の関係者用の控え室。
滝尾の講演会が終わったあとで、新島はそこに通されていた。
橋本の話では、新島は講演会への立ち入りを断られていたはずだが、この一週間で状況が変わったらしい。
無論、やくざによる新島への尋問がきっかけだったことは想像に難くない。
「新島さん、本当に、すみませんでした」
こう謝られるのは今日何度目だろう。滝尾はとにかく平身低頭、新島に謝罪を続けた。この現場を部外者が見れば絶対によからぬ勘違いがなされるとは思いつつ、新島自身頭を下げられる覚えは大いにあったので、やめるようには言わなかった。
問題は、いつ本題に切り込むか――新島は我知らず値踏みするような目で滝尾を見ていた。
「いえ、お役に立てたのならよかったですが……」
含みのある言い方。滝尾は汗を拭きながらまた頭を下げる。一見不可解な言動が、事態をきちんと理解できていない新島をどんどんつけ上がらせる。
「新島さん、私は恐ろしいのです」
急に、滝尾が謝罪以外の言葉を口にした。
そういえば、堀川も同じようなことを言っていた――滝尾に対して。では、やくざに恐れられる滝尾がいったいなにを恐れているのだろう。
新島の中で、むくむくと嗜虐的な好奇心が湧き起こってきていた。もはや自分に対して行われた監禁と尋問など、はるか遠くの出来事のように思えてきていた。むしろ利用することによって、相手を追い詰めることができる都合のいい材料にしか思えない。
「なにか、理由があってのことなんですね」
正直、理由になどさして興味はない。ただ滝尾が困憊していき、新島に有益となる言質を取れるまでになればいいと考えてのことだった。
「理由……理由なのでしょうか。私にはわからない。いや、最初からなにもわかってなどいなかった。ただ言われるがまま、道化を演じていたにすぎない」
「あなたほどの大人物が道化だなんて」
「私も最初はそう思っていました」
滝尾は据わった目で新島を見た。
「自分には力がある。自分には才能がある。自分にはカリスマがある。信じ切っていた。事実信じたままに行動し、そのすべてがうまくいった。ですが違ったのです。私が天からの声だと思い込んでいたものは、すべて耳元で吹き込まれた指示でしかなかった。気づいた時にはもう遅かった。私はとっくに神輿に担がれていた。見たでしょう、さっきの講演会を。チケットは即日完売。県外からも客は来る。メディアの取材までついてきました。私はもう、この立場から降りることはできない。それが――恐ろしい」
「確かに、有名税というものはあると思いますが……その分、実入りもいいのでは?」
「金の話ではないんです。金ならもう使い切れないほど入ってきています。あなたに今回の件の口止め料として、相当額のお支払いを必ず約束します。私は――このままこのきらびやかな社会に放逐されることが耐えられないのです」
「今さらビビってなんになるんですか。滝尾先生なら――」
「違うんです。私じゃない。私じゃないんだ。全部指示だった。これからなにが起こるのかもわからない。全部押しつけられたんだ。あいつが。あの女が。史談会の――」
最後の言葉を口にした途端、滝尾は喉を掻き毟り始めた。
餅が喉に詰まったような様子だった。だが滝尾はなにも口にしていない。
「滝尾先生! 先生!」
新島は慌てて滝尾の背中を叩く。とにかくなにかを吐き出させるか、呼吸を安定させなければならない。だがしばらく続けて、手の打ちようがないと気づいた。
「誰か! 誰か来てくれ! 滝尾先生が!」
新島は控え室を出て声を張り上げる。市民会館の裏は不気味なほど静まりかえっていた。
「新島――さん。大丈夫、です。まだ、なんとか……」
滝尾が息も絶え絶えに声をかけてくる。よだれと涙で汚れた顔は、とても時のひととは思えない。
「まだ、用済みだとは思われていないらしい。それはそうでしょう。今の私の地位には十分利用価値がある」
震える手でペットボトルを開け、半分以上を口からこぼしながら中の水を飲む。
ひと息吐けたのか、滝尾は椅子に深く座り直すと、自分の喉を指で数度確認するように突いた。
「私には話せないことばかりです。そういう契約だった。今さら逃げることもできない。私は――どうすれば」
新島には正直言って、滝尾がなにを恐れているのか、なにを話しているのかすらまるでわかっていない。
「滝尾先生。あなたは時漏町の救世主だ。そうでしょう」
それでも、わかっていることはある。
「あなたのおかげで時漏町は伝統を取り戻し、今や観光資源をも手にしている。町がここまで蘇ったのは、ほかでもない、あなたのおかげです。住民はみな、あなたに感謝している。我々は地域の誇りを、あなたのおかげで取り戻せたんだ」
「ヒ」
滝尾は寸時引きつけのように身体を縮こまらせ、一気に、それを吐き出す。
「イヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
笑っていた。壊れた笑い袋を想起させるが、そんなものよりも激しく、酷い笑い声だった。
加えて、滝尾は泣いていた。笑いすぎて涙がこぼれたものではない。笑いながら、まったく別の回路で号泣している。
新島はここにきて、なんだかこの男が不気味でしようがなくなってきた。得体の知れない空気は以前からまとっていたが、それはあくまでこの男のカリスマ性を担保する一要素だった。
ところが今の滝尾は、まるで理解がおよばない。まったくなにを考えているかわからず、新島の魂の言葉に返した反応がこの壊れた笑いである。
最初に会った時は身なりや所作から、すぐに一流の男であることを感じ取ることができた。今の有様を見れば、すぐにただの異常者と断じることができてしまうだろう。
「そうか。そうか。そうだろうな。あなた方はそれでいいのでしょう。そうだ。そうだ。地域住民が自ら求めているのなら、なにも迷うことはないじゃないか。ヒヒヒヒヒ。職務を全うせよ。はい。言われるがままに」
長く続いた笑い声が静まると、滝尾は急に普段通りの佇まいへと戻った。さっきまで狂っていた男とは、とても同一人物とは思えない態度の変わりようだった。
「新島さん。明日のジロチョウ祭り、私も見学に伺います。楽しみですね」
「ええ……お待ちしています」
新島はなんと反応すればいいのかわからず、社交辞令のなりそこないのような言葉を返しただけになった。
「それから、こちらをお納めください」
滝尾は鞄から分厚い茶封筒を取り出す。先日やくざから渡されたもの倍以上の厚みがあった。
受け取ると、滝尾はにっこりと笑って、
「どうかこれで、この件については内密に願います」
と言った。
新島は一瞬迷ったが、結局封筒を懐に収めた。当初は搾り取れるだけ搾り取ろうと考えていたが、いきなりこれだけの額を渡されると、かえって意気を削がれてしまった。
市民会館を出るとまばゆい夕日が目に染みた。明日も晴れそうだ。
新島は地域の誇り、ジロチョウ祭りに思いを馳せながら電車に揺られていく。今年は去年にも増して大きな祭りになる。この年になっても、祭りを前にすると昂揚を覚える。この五年はさらに地域おこしによる活力が背中を強く押してきた。
明日は最高の祭りになる。そして毎年毎年、最高を更新する。
滝尾の意味不明な言動は、渡された茶封筒で吹き飛んだ。
もし、新島正人という男が滝尾彼方を理解しようと努めていたのなら――いや、やめておこう。
それでも結果は変わらない。
「〈
朱鷺沢
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます