酔いたい夜

 卓也さんというのは,おれたちの所属していた二歳年上のフットサルサークルの先輩であり,代表を務めていた人だ。気の優しい兄貴肌の男だった。彼に思いを寄せる先輩が複数いてこじれているという噂を聞いたことがあったし,おれの同級生も卓也先輩が憧れだと言う女子は少なくなかった。フットサルは上手いし,話は上手だし,飲み会なんかでは幹事として場を盛り上げたりもしていた。中心にいたはずの卓也さんがいないと思って見渡せば,周りに溶け込めずに手持ち無沙汰にしている新入生の話の聞き役になったり,冴えない同級生を引き立てるように話を振ったりもしていた。


 紳士をそのまま体現したかのような卓也さんは,同級生の同性からも好かれていた。おれの完全の持論だが,男から好かれる男というのは間違いない。どんなに目を引くような肩書きがあっても,特技があっても,SNSでフォロワーが多くても,女の子からモテていても,ロクでもないと思う人はたくさんいた。でも,同性から評価される人は総じて信頼に値する。女子から好かれないけど同級生から好かれる男子というやつがいるが,そんなやつは必ず挽回する。その時の場の雰囲気や友情を大切にするあまり異性に勘違いされることはあるが,ずっと仲良くしていたいやつは同性から好かれる。これはおれの人生哲学だ。


 卓也さんは,まさにそんな人だった。才色兼備で人望もあった。特に苦労することなく就職活動を終えたと聞いて,誰もがやっぱりな,と思ったに違いない。

 夏海が同棲する,と言ったそのお相手が卓也さんだと聞いて,お手上げだった。ずっと好きだった人が聖人君子のような人と結ばれようとしているのだ。素直に祝福するのが男というものだ。

 散り際を重んじるのが武士のような生き方を望んだが,どうしても尋ねたいことがあったおれは未練がましく夏海に問いかけた。


「いつから卓也さんとそういう関係だったの?」


 卓也さんが卒業してからのことを夏海は話してくれた。



 夏海は卓也さんと月に一度ほどのペースで会っていたということだった。初めは卓也さんから連絡があり,就職活動の相談に乗ってくれるということでお茶をする程度だったものが,いつしか卓也さんの連休に合わせて出かけるようになり,ある日突然,告白されたのだという。

 しかし,夏海はその時は断ったのだという。理由は二つあった。就職活動で忙しくなるし,後悔したくはないからそっちに集中したいというのが一つ。もう一つは,実は気になっている人がいるからということだった。おれはそれを聞いた時,その人とは自分のことではないかと淡い期待を抱いた。もちろん,その相手が誰かなんて尋ねることはしなかったので真相はわからないのだが。

 夏海さんに振られた卓也さんは,諦めなかった。ランチに出かけたり,ドライブをしながら就職活動についてアドバイスをしたり会社の情報を教えてもらったりしていたらしい。振られてもなお親身に,誠意を持って接してくれる卓也さんと以前よりも親密になっていったということだ。


 おれはひどくショックを受けた。夏海が誰かの女になること。それも,これ以上望みようもないほどいい男を振って,それでも諦めない情熱に負けて結ばれたこと。気になる人というのが自分である可能性も期待して,その期待がさらにおれの心をきつく締め付けた。


 話を聞いたおれは,素直に祝福するべきだった。誰よりも素敵な女性が今まで出会ったどんないい男にも劣らない人と幸せになろうとしているのだ。

 でも,おれは最低な男だった。


「そんな大切な人がいるのに,他の男と部屋でテレビを見たり飯を食ったりしていたのかよ。最低だな。でも,二人なら上手くやれるよ。宮城でも頑張って」


 そんなことが言いたいんじゃなかった。ただただ悔しかった。幸せだと思っていた時間は嘘だった。自分が見ていた美しい世界の中に夏海はいなかった。おれも夏海も確かに美しいものを見ていたのだ。ただ,おれが見ていたこの世のものとは思えないほどキラキラしている世界は,夏海が見ているものとは全く違っていたのだ。万華鏡のようなその世界をおれは恨んだ。

 嫉妬が限界に達すると,人は制御が効かなくなるのだと初めて知った。大好きな人を自分が知っている最も汚い言葉で罵りたかった。最後の本音は,のどが空気の通り道がなくなったのではと感じるほど息苦しくなったせいで,上手く言えなかった。


 ごめん,と夏海は言って詫びた。消えてしまいそうな声だった。


 じゃあな,とおれはスマホを耳から話した。震える指で通話を終わらせるボタンをタップした。


 夏海が電話を切るのを待つことなんてできなかった。電話ですら夏海とつながっているのが辛かった。自分の気持ちを表現する言葉を持たなかったおれは,現実から逃げるように二人の間にあった何かを断ち切るつもりでスマホのボタンを押したのだ。

 布団にスマホを投げつけ,タンブラーに手を伸ばした。ほとんど垂直にして口の中を潤す。麦茶はとっくに無くなっていたが,溶けた氷を口にいれて乾いた舌を潤した。冷蔵庫を開けると,缶ビールとカクテル缶が二本ずつあった。夏海と一緒に飲むために買ったものだった。


「こんなんで酔えるかよ」


 荒々しく冷蔵庫の扉を閉め,財布を手にして鍵もかけずにコンビニへと向かった。

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