第2章 教壇

 二〇一六年の夏、台風の時期は終わりかけていたが依然として湿度が高い。トヨタのヤリスで基隆キールン市にある自宅を発ち、10分ほど北東へ走らせたところにある警察署に向かって夫の張品睿チャン・ビンルイが運転してくれた。いつもよりスピードが控えめだった。わたしは生徒の殺人現場の第一発見者として出向いているが、当時の感情はまだうまく言い表せそうにない。

 具合が良くないのか、品睿ビンルイがなにか話していたが聞き取れなかった。

 警察署に到着してから取調室に案内された。天井の白色蛍光灯は弱々しく明滅し、ますます現実の世界から切り離された気分になる。

 「それでは、念のためお名前とご住所、事件当日の発見までの過ごし方や発見時の様子を出来るだけ詳細にお話しください。落ち着いてからで結構です。やり取りはすべて記録として残りますのでご了承ください。」

 控えめな冷房が効いているが手足の指がとても冷たく感じられる。

 「…はい、私の名前は林淑芬≪リン・シュウフェン≫です。住所は基隆市ルネ通り×××です。

 一九九四年から台湾インターナショナルスクールに数学科の教師として勤め、もうすぐで二十二年になります。三日前、彼女を発見した日は朝から台風の影響で大雨が予想されていました。」


 ―――品睿≪ビンルイ≫を起こさないように寝床から静かに出て、台所で菊黒烏龍茶を淹れた。氷を入れて冷やしても舌全体にほんのりと甘味を感じられ、鼻から抜ける爽やかさが小さい頃から好きだ。

 夫の分を含めて三つ、お昼用の黒米おむすびを作った。台湾のおむすびは一般的に黒米と白米を同量に混ぜて広げ、その中にゆで卵や漬物、油麩を入れるのだが、そこに好みで切り干し大根も入れた―――。


 「その日は雨が本降りになる前に職員室に着きました。他の先生方はまだ来ていませんでした。電気を点けて自席に座り、授業で使う資料を印刷しようと考えていたと思います。椅子に背をあずけると、向かい合わせになる席越しの壁に、各教室の鍵が保管されているキーボックスが目に入りました。普段は特に気に留めないのですが、扉がすこし開いているように見えて、近付いたらやはり開いていました。今年はまだ半分しか過ぎていないのに、世界的にテロ事件が多いですよね。それで、PTAの会長から校内のセキュリティを厳しくしてくださいと指摘されたばかりでした。ご存知のように最近は外国からの移住者も多く、わたしも注意が必要だと感じていたので、相当、焦ったように思います。前日の施錠担当者は数か月前に赴任してきた体育科の先生でしたので、出勤されたら尋ねてみようと思いつつ、中を確認したら無くなっていました…。」

 「無くなっていたのは体育館の扉の鍵ということで、お間違いないですか?」

 警察官は手元の記録書に目をやったまま確認した。

 「はい。そのような緊急時は副校長先生に連絡をする決まりでしたが、動転していたのもあり、まずは体育館を見に行かなくてはと咄嗟に判断してしまいました。」

 

 ―――職員室から体育館へ向かう道中で雨が本降りとなり、廊下の窓ガラスにあたる雨音が異様に大きく感じられた―――。


 「体育館に着くと扉が開け放たれていて、体育で使うボールやマットなどが散乱していました。その異常な光景に頭が追い付かず、鼓動が早くなって全身が静電気のようなピリついた膜で覆われる感じがありました。天井用の照明を点けることも思い浮かばず、薄暗い中で最初に舞台上を見回りました。そこにウサギの顔を模した児童向けのカバンが落ちていました。中身はありませんでした。その後、跳び箱台や先ほどのボールなどが仕舞われている倉庫に入り、彼女の遺体を発見しました。」


 ―――息を吸いたくても吸うことができなかった。いや、呼吸の存在をすっかり忘れていたといった方が正確かもしれない。全身を包んでいた静電気は更に強まり、首を締められる感覚があった―――。


 「はじめは倉庫内が暗くて誰なのか分かりませんでした。その時は恐怖よりも誰なのかを確かめなくてはと強く感じました。目が慣れてきて、わたしが担任するクラスの生徒だと分かりました。フランス出身のアデールです。数か月前に、親御さんから娘が学内でいじめを受けているかもしれないと相談されたことがありました。帰宅時間が遅い日があったり、身に着けていた物を頻繁になくすようになったというのです。他の先生や警察に相談したのですが、本人がいじめに遭っていることを認めなかったため、どうすることもできないとのことでした。可能な限り、彼女や彼女の周囲の生徒の動向に注意を払っていましたが…。親御さんからの連絡は一度だけだったので、既に解決したとさえ思っていました。」

 話していくうちに頭の中が整理され、ようやく起こったことを事実として認識できるようになってきた。

 「なるほど。アデールさんのご両親にも話を伺っておりますが、最後までご本人からいじめに遭っていることを打ち明けてもらえなかったようです。いくらクラスの担任とはいえ、真実を追究するのは難しいことだったと思います。本来なら司法解剖の結果はご家族のみにお伝えしているのですが、いじめが起因となったような外傷は発見されなかったとのことです。くれぐれもご自身を責めたりするようなことはなさらないでください。あと、アデールさんと仲良くしていた生徒が、最近は体育の授業の前後だけ彼女の姿を見ないことが多かったと証言しています。疑わしかったので体育科教師の家宅捜査に入り、アデールさんの所有物と思われる物が数十点見つかりました。本人は不在でしたので引き続き行方を捜査します。逮捕後、ご遺族が訴訟を提起されたら証言台に立っていただくかもしれません。暫くの間はよくお休みになられてください。」

 聴取が終わった。その時間は長かったようにも短かったようにも感じられた。廊下で待っていてくれた夫と警察署を出て車に乗った。完全に心が晴れたわけではないが、任せられるところに託したため、あとは自分の頭と心の整理にどれだけ時間がかかるだろうと考えていた。


 秋になり、職場復帰は出来ていないものの、夫と慎ましく暮らせるまでに回復したように思う。市場で買い物をしていると、アデールの両親を見かけた。声をかけようとしたが、明るい栗色が綺麗だったお母様の髪は明らかに白みがかり、表情は無く、二人で支え合ってなんとか歩けているといった様子で、とても話しかけられる調子ではなかった。背中を見つめることしかできなかった。


 冬になり、体育科の元教師が見つかった。余罪も多く刑務所で無期懲役が下された。動機は「彼女たちがそう望んだから」と、主張しているという。彼の逮捕の知らせを聞き、当初に想定していた安堵というよりも、義憤の念が濃くなった。

 本当に彼を生かしておいていいのだろうか。法治国家であるが故に遺族から苦しみを取り除けないのであれば、そんな世界なら、わたしが悪を裁くために手を染めたって構わない…。

 カウンセリングをちゃんと受けた方が良かったかもしれない。夫は二人でいることを最優先し、地元の基隆キールン市を離れたって構わないと言ってくれている。

 それでも、わたしが最後に選んだ選択は愛する夫と母国から離れることだった。自分の心と向き合うために。

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