4-3

 翌日、学校は休校となった。生徒が一人世間を騒がす連続殺人犯に襲われたのだから当然だろう。保護者会からはむしろ学校の判断が遅すぎたとクレームが入っているくらいだ。

 まったく……これだから平和ボケした一般人はおめでたい。そんなに我が子を守りたいなら大事な宝物を家から一歩も出さなければいいのに。

 ま、これに関して彼らを責めるべきじゃない。彼らは知らなかっただけなのだ。日常の薄皮一枚を剥けば、そこには暴力の世界が存在する事を。

 そのおかげで学校は三日間の休校となる運びになった。三日間学校を使えない。生徒からすれば学園祭直前のこの時期での判断は厳しい所だ。時間は時にお金よりも貴重。残り二日のタイムリミットで学園祭を立ち上げることが出来るのか……犯人も大慌てに違いない。

「……さてと」

 慣れない動作でインスタの画面をいじる。蜷川に無理やりインストールされたこのアプリ、何が楽しくて自撮りなんかを投稿するのかサッパリだったけど、今ならその気持ちが分かる。数枚の写真が人生を大きく変えるとなれば……みんなどっぷりハマるだろう。

「よし!」

 廃工場の中でも電波は通っている。用意した写真を一定のタイミングで連投。そして目的の人物がいつ来ても良いように念入りに柔軟を始める。さて、アキちゃんの予測が正しければ三〇分以内には獲物がかかるはずだけど……。

「……」

「お」

 入り口で揺らめく女性のシルエット。ブラウンのロングヘアに真っ赤な細身のトレンチコート、黒のストッキングに、パールホワイトのハイヒールと見た目はセレブな奥様風と言ったところか。相手は長い髪をなびかせながらこちら側をためらいがちに覗き込んでいる。

「こんにちは。さびしいところですがどうぞ中へ」

 私は内側から声を張り上げた。ついでに大げさに迎えるポーズを取ってみる。劇団員っぽい大げさな動作、二条さんの物を丸パクリしてみたけどなかなかこれは癖になりそうだ。

「あの……なんなんですか……私は迷っただけで別にあなたに用事は……」

 いやいや、こんな夜間の廃工場に迷い込むなんて子供じゃないんだから、普通ありえないでしょ。今更白々しい。

 それでも……確かにこれは凄い。初見であれば相手が無害な存在だと思い込んでしまう。外見だけなら道に迷って戸惑う女性そのもの。見事なと言わざるを得ない。

「私達、同じ学校の先輩後輩同士じゃないですか今更遠慮なんていらないんじゃないですか――」

 真犯人の一之瀬先輩、と口にした瞬間ナイフが飛んできた。

「⁉ 物騒な」

 軽くステップを踏んで回避する。すると目の前には一之瀬先輩が――二本目⁉ 投擲は陽動か!

「はぁっ!」

「――っ」

 かろうじて、避ける。それでも前髪が数本宙を舞って……見た目に騙されたら大変だ。この男……相当出来る!

「こういう場面って普通『なんで犯人だって分かったのかな』からの推理披露パートでしょうが。いきなり探偵を襲う犯人がいます?」

「うーん、見事にわけだから一応聞きたいところだけど……今は邪魔な探偵を始末することが優先かしら」

 動きづらそうな格好でこれだけ出来るのだから一之瀬先輩のプロ意識には脱帽だ。口調も演技のままなのは余裕の表れなのだろうか。

「はぁっ!」

 これは私もギアを一段上げなければいけない。私は先輩の真正面に向かって駆け出した。

 獲物が真っ直ぐ飛び込んでくる様子に先輩はナイフを構え直す。鷹揚に構えるのはすでに四人襲った実績があるからか。そんな素直な挙動で――

「!」

 足元を思いっきり蹴り上げる。

「⁉ なっ――」

 アキちゃん程じゃないけど私だって戦闘時の空間把握能力はそれなりにある。廃工場に転がる半端な鉄パイプは見事に先輩の顔面へ。先輩は視界を確保するためにそれを空いた左腕で弾く。

「――てえ!」

「――‼」

 がら空きになったナイフを持つ右手に、私は拾った鉄パイプで小手の一撃を加えた。骨が砕ける小気味いい音と共に得物が払われる。

「ぐっ……」

「話、聞いてくれる気になりましたか……」

 互いに実力があると分かったためか、私達は自然と距離を空け始め……廃工場の中を回遊しながら仕掛けるタイミングを虎視眈々と狙う。

「そうだね……出来ればのくだりから教えて欲しいかな……」

「……」

 一之瀬先輩が一連の連続殺人事件の真犯人。それがアキちゃんの導き出した答えだった。

 先輩を犯人と仮定すれば……この場所におびき出すのは簡単だ。犯人は被害者が隙を見せた一瞬で仕留め、人気のない場所で解体を行っていた。

「まさかあんな雑コラに引っかかる人間がいるなんて思いませんでしたけど」

 犯人がいまだに何らかの事情でアキちゃんと蜷川を狙っているのだとすれば……彼女たちが隙を見せた瞬間襲い掛かってくるに違いない。だから私は蜷川のアカウントを借りて、アキちゃんが加工した工場付近を歩く二人の写真を複数枚投稿したのだ。

 目の前に狙っていた獲物が二匹まとめてぶら下がっていて、尚且つすぐそばに解体に都合のいい場所があるのだからこんな機会を逃すはずが無い。例え多少のリスクを冒しても、犯行を優先する。

 ただ……この作戦には一つ穴がある。仮に犯人がインスタをやっていない、もしくはやっていてもチェックしていなければこの行為はアキちゃんをネットの海に晒すだけの物になってしまう。

 誘拐犯に、マスコミに、一度情報が流出してしまえば何をされるか分かった物じゃない。リスクを冒すのであればリターンはマストで欲しいところだ。

 だから私達は先輩にラブレターを送る事にした。休校明けの学校、文化祭まで僅かな時間しか残されていないため、参加生徒は必ず登校する。演劇部の部長である一之瀬先輩であれば尚更朝早くから精力的に活動を始めるだろう。そして、人気者の下駄箱と言えばラブレターの一枚や二枚入っているのが常だ。実際は十通くらいあって果たして私達が用意した「脅迫状」が読まれるのか心配だったけど、先輩がファンのお手紙を全部読んでくれる人で良かった。おかげでこうして呼び出せたのだから。

 内容はシンプルに「お前の犯行について知っている。警察に知られたくなければ一人で指定した場所まで来い」。そこに蜷川のインスタのアカウントを載せておけば……――

「――ジャック・ザ・リッパーたるもの、こんなに素直にやってくるだなんて正直思いませんでしたけど……、大変なんですね」

「………………」

 先輩の表情から演技が消える。一瞬浮かび上がった真顔、それこそがこの人の本質なのか。図星とはまったく胸糞悪い……あの時の感動が数々の屍の上に築かれてきた物だと思うと吐き気がする――

 そう、役作り。それが一之瀬先輩の差し迫った犯行動機だった。

 一之瀬先輩は演劇の中で一人の顔を失った女性と、彼女が扮する四パターンの復讐鬼、その合計五人の顔を使い分ける。

 先輩の役作りは過酷なものだ。常軌を逸していると言ってもいい。役に合わせて日ごろの体型ごと変えてしまうのだから凄まじい。

『部長は仁見さんに向けて自分の実力を証明するために一人五役に挑戦してみるって、一つ他の役を兼ねるだけでも負担は増えるのに……』

『脚本・演出・照明・美術……最終的な作業は各部門のみんなに任せていますけど、原案は全て部長が。これがどれだけ異常な作業量だか分かりますか? 私が見積もっても一年は今回の公演のために準備をしていました』

『前回の通し稽古は散々な物でした。超高校級の才能でも五役は厳しくて……これは駄目だなって……。それでも部長は諦めなくて……とうとうこの一か月で劇的に演技力が上がったんです。まだ三役分ですけど……残り二役をマスターするのもこうなったら時間の問題ですよ……』

 今回の役を演じるにあたって一之瀬先輩は相当に苦労していたらしい。複数の役をこなす、その苦労は素人の私にもなんとなく想像できる。一度に種類の違う格闘技を学ぶようなものだろう。アキちゃんに振り向いてもらおうと目標を高く設定した心意気だけは評価しよう。でも五役、それも一年足らずという短い期間で……いくら天才でも完璧を求めるなら放課後根を詰めるだけでは時間が足りない。それは天才を超えた異常……そう、先輩は正攻法で演技が上達できないと分かるや否や異常な方法で演技力を向上させる事に決めた。完全下校時刻七時三〇分からの血塗られた課外活動によって……。

 文化祭まで残り一か月という瀬戸際で、先輩がどれだけ追い詰められたのか私には理解できない。いくら欲しいものを手に入れるためとは言え、人殺しに手を出す異常者の気持ちだなんて絶対に理解したくない――

「仁見さんがネットにすら出ない引きこもりな事は知っていたよ。雑コラって……あの写真どう見たって本物に見えたけど」

「そこはアキちゃんの編集能力の賜物ですね。いや実際にこの場所に立つと結構違っているんですよ」

「確かに、少しおかしいね」

 顔は笑っていてもその瞳は冷徹なまでに私の急所へと向けられている。この人は被害者たちにもこんな目を向けていたのだろうか。

 先輩が演じる五つの顔。先輩の骨格が男性だからか、目が慣れると女性のメイクを施しても性差からくる違和感を拭えない。どうしても先輩の顔だという先入観から離れられなくなる。だから私や蜷川、演劇部の部員達と彼の元の顔を知っている人間ほど先輩のメイクの元ネタに気付きにくい。

 アキちゃんは人間の顔を総体として認識することが出来ない。けれど、髪型やメイクなど部品であれば、際立った特徴であればそれを個性として認識できる。

 あの通し稽古で見た五人の顔、それは今までの被害者――マスコミの無責任な顔出し報道もたまには役に立つ――と蜷川、そしてアキちゃん自身の顔をメイクで再現していた。

 それだけじゃない。三つある部長室は汚部屋であるのをいい事に、演劇部の備品としては不釣り合いな女性ものの私物が何点か紛れ込んでいた。中にはプロップに混ざって血糊では無い本物の凶器も……こればかりは警察に見てもらわなければ真贋が分からない。だけど、一度見た物を完全に記憶できるアキちゃんの事だ。その認識精度はDNA鑑定装置並みだと断定してもいい。少なくとも、学校という狭い範囲で収集した情報を元にした予測をアキちゃんが外した事は一度も無い。

 後は肉体労働担当の私が最終確認を行うだけ。

 私はアキちゃんの事を信じているから、あの日あの時彼女が「先輩を逮捕して!」なんて言われていたらその場で実力行使を行っていた。その確信がある。

 しかしながらいくら天使なアキちゃんも人間。その予測が一〇〇パーセントで無い以上事は慎重に行わなくてはならない。

 最善の解決方法は「先輩が犯人である予測を覆すこと」。演劇部というせっかくできたアキちゃんの居場所をあんな形で幕引きにしてしまうのはもったいない。

 今までの推理は所詮頭のいい女子高生が頭の中で組み立てた妄想。午後八時以降だなんて犯行時刻この町に住んでいる人間のほぼ全員に当てはまるし、先輩みたいな大げさな変装をしなくても外見をごまかす方法はいくらでもある。異常者はその異常性を自覚しているがゆえにそれを隠すのが得意なのだから。犯行動機だって必須じゃない。世の中には「むしゃくしゃしてやった」なんて犯人もいる。五つの顔も他人の空似で、先輩の演技を見たアキちゃんがトラウマを想起して二十面相の中に自身を見出しただけのロールシャッハテストの可能性も――先輩が犯人でないと証明できれば、あの日の醜態を「先輩の迫真の演技に当てられちゃって……」みたいな形にでもしてごまかせる……はずだったのだけど……。

 先輩が犯人である事を念頭に置いた作戦とはいえ……正直な話この場にやってくるのは見知らぬ異常者である方が良かった。嫌な予測ばかり当たる……これでアキちゃんの居場所は一つ潰れてしまったし、それに身近な人間が殺人犯というのはやりにくいものがある。どの程度痛めつけるか。正当防衛と過剰防衛の境目はどこだ。

「一之瀬先輩、素直に出頭しましょう。たかが演劇のために殺しとか……」

「それは聞き捨てならないな――」

 私達の推理を聴いたうえでこの反応、これは黒だと断定していいだろう。血走る瞳をぎらつかせ、再びのナイフ投擲。私はそれを鉄パイプで弾くも先輩が接近を仕掛けてきた。

「左利き⁉」

「ひゅうっ!」

 あの衣装に一体どれだけの得物が隠されているのか――四本目のナイフが抜かれ、腹部への刺突が迫る。鉄パイプを支柱に体を捻って躱したけど……、

「くっ……」

 その勢いで頼りになる武器を手放さざるを得なかった。

 丸腰になった私とナイフを片手に瞳をぎらつかせる先輩、私達は再び距離を空ける。

「見た目より良く動く……」

「…………」

 かつらにストッキング、ハイヒールと動きにくい装備で固めているにも関わらず先輩はバレエでも舞うように自在に動く。流石は体育会系文化部。プロレベルになればこれだけ出来るか。

 男性と女性とでは運動能力において性差がある。真正面から戦えば不利だ。

「はっ!」

「くっ……」

 加えて相手がナイフを持っているのが最悪すぎる。部活動荒らしの中で私は「凶器を持った人間を相手にするときはどうしたらいいか」、と質問したことがある。答えはどの顧問も同じ。「逃げろ」の一言。

 剣道三倍段なんて言葉じゃ生ぬるい。竹刀ですら頭に一撃を与えれば殺せる事だってあるというのに、まして殺傷能力のある得物を持った相手を無力化するなんてプロの格闘家でも無理――と顧問たちは私に諭すように言って来た。

 ……今ならその意味が分かる。相手がルールなんてお構いなしの出鱈目な動きをして、触れるだけで命取りになる物体を振り回してきている異常事態。部活動荒らしなんてたかが知れる……。

「ははは! どうした! もうおしまいかい!」

「……」

 気づけば防戦一方。致命傷でこそ無いけれど、体のあちこちが裂かれては血が流れている。

「頭だけ狙わないのは……お楽しみは取っておくタイプだからですか? 蜷川の時はいきなり顔だったくせに」

「ああ、彼女の場合手元が狂っただけさ。凄いね彼女、僕がまだナイフを取り出していない状態なのにスプレーをかけて来て……役者の顔を一体何だと思っているのやら、かぶれてしまったら大変だろう? だから思わず反射的にね、切ってしまったのさ」

「……異常者が」

「おいおい、異常と言えば君たちの行動そのものだろう? 幼稚な推理で呑気に犯人(僕)の所にやってきて、そんなの殺されにやって来たようなものじゃないか。たかだか友人の不安を解消するために行動を起こすなんて滑稽の極みだよ。高校生はおとなしく怯えていればいい。事件を解決するのは探偵ごっこじゃ無くて、警察の仕事だろう――」

 再びナイフが舞う。予測不能な自在な動き、それは的確に私の隙を狙い、私の体に新たな赤が走る。

「僕が異常者だって? まさか。演技力を上げるために一番の方法を教えてあげようか? それは実はシンプルに『実体験』さ。女性の体が分からなければ子細に解体する。そのおかげで僕は顔を三つ増やすことが出来た。素晴らしいだろう! そして復讐のために狂気を振るう演技を身に付けたいのであればぁ――!」

 横凪の一閃。銀色が額を撫でると視界が真っ赤に染まる。

「こうして実際に人間相手にナイフを振るえばいい。そう言えば九条さんの趣味は『サンドバッグ』だったけ? 友達を守るために武者修行だなんて健気だけど――その結果無残にも切り刻まれているんだからお笑い草だよ! まったく三文芝居にすらならないね」

 流石は演劇部の部長。観客を煽るのも、煽りながら動くのもお手の物か……。

 アキちゃんの被害者リストの中に顔に含まれない私がどんな理由で含まれているのか疑問だったけど……なるほど私はサンドバッグ扱いだったわけですか……まったく色気が無いったらありゃしない。

「あの舞台はアキちゃんを演劇部に誘うための物じゃ無かったんですか? 誘う人間を、殺してしまっては意味が無いでしょうに……」

「はじめはそうだったよ。でも……因果な物で表現は極めれば極める程に行き詰まりを覚える。舞台役者『一之瀬累』は常に完璧な演技を披露してきた。特に高校になってからの二役は自分でも惚れ惚れするほどの完成度。去年の演技を越えられなければ、完璧な演技を披露できなければ僕はみんなの期待に応えられないだろう」

「……」

「表現者は期待に応えるため、実力を身に着けるためなら何でもやる。顔の無い少女の復讐劇。その演技の獲得に仁見さんをはじめ女性たちの顔が必要になるのはまぁ、みたいなものさ。仁見さんも天国で僕の圧倒的完成度を誇る演技を見れば泣いて喜ぶと思うよ」

「…………」

「確かに仁見さんの才能は惜しい。彼女は役者としてだけでなく、外見それに内面に、能力に……顔を認識できない事を除けばあらゆる才能に溢れている。君もそんな彼女の魅力に首ったけなんだろう? 大丈夫、彼女の魅力は僕が余すところなく解体して解釈して表現する。僕の演技の中で仁見さんは生き続けるんだ! こんなに素晴らしい事は他にないだろう! それに障害を持った少女一人亡くなった所で誰も悲しまないだろう? どれだけ平等を謳った所で世間が評価するのは完璧な美しさ。マスコミ程度がセンセーショナルに報道するだけで皆すぐに忘れる。九条さんにしたって幼馴染の介護から解放されるんだから、肩の荷が楽になるんじゃないかい?――」

 ――まあ、君はここで殺されるから関係ないか。言葉と共に刺突が迫る。

「はぁ……分かっていないなぁ……」

 ……楽になる? 関係ない? 忘れる? おいおいおい……煽るなら私だけを煽っていれば良いものを――

 深呼吸、そして脱力。迫る事態に対応するため私の体は準備を始める。鈍い銀の軌跡、直線の輝き。

「ふぅ……ん‼」

 その一撃を私は正面から受けた。

「なっ⁉」

「――私が大根役者なら、先輩は三下ってところですか、ねぇ!」

 腹部が焼けるように熱い。動きを止めるためとはいえ、体に穴を空けるのはやりすぎたか。でも……私の予想外の動きにさすがの先輩も目を丸くしている。そしてこの隙を逃す私じゃない。先輩の握りこぶしと手首を掴むと私は両者を繋ぐ関節を力任せに――

 ゴキリ。

「!!!??!!!?!?!?」

 ――外した。

 たかが脱臼と侮ってはいけない。肉体が内側で少しズレるだけでも案外痛い。柔道部の主将に投げられて肩が外れた時はなかなかに痛かった。流石に泣きそうになったのを今でも覚えている。

 その例に漏れず一之瀬先輩も目を白黒させ、ナイフの柄から手を放す。よろよろと後ずさっては項垂れてプラプラ揺れる手首を見つめている。

「おい! どうした舞台役者! アンタの覚悟はそんなもんか!」

 私だって伊達や酔狂でサンドバッグをやって来た訳じゃ無い。部活動荒らしの目的の一つはプロの動きに慣れること。先輩の攻撃を甘んじて受けてきたのはナイフの軌道に目を慣らすため。額を切られた時点で先輩の動きの癖は見切っていた。動きに武道のような規則性はないものの、先輩はここぞというタイミングで刺突をくり出す。本当は、適当なタイミングに合わせてナイフを弾くなりして無力化しようと思っていたのだけれど――

「殴って来いよ! アンタにはまだ右手が残っているだろうが! 腕もつなげりゃ殴れるぞ! 復讐鬼の演技の練習がしたいんじゃ無かったのかよ! え⁉」

 自分が反撃されるなんて夢にも思わなかったのか、先輩はその場でみっともなく慌てるだけ。そこに闘争本能なんて欠片も存在しない。役者のプロ意識なんて言わずもがなだ。

 ヘアゴムを外す。散らばり落ちるツインテール、全身の血が滾るような熱い開放感が体に満ちてゆく。

 ここからは私のターンだ。

「ふんっ!」

 私は一気に距離を詰めて――

「⁉……」

 先輩の綺麗な顔面に一撃お見舞いする。再び小気味いい音が鳴ると先輩の鼻っ柱はつぶれ、ドロドロした赤色が垂れ流しになる。

「ふぐっ……な、なんてことを……」

「顔面なんて気にしている場合か!」

 もう一撃。次も顔面。拳に痛みが走ると同時に象牙質の破片が飛ぶ。先輩の体が後方に飛ぶのと同時に前歯も宙を舞ったらしい。

 数ある急所の中で頭部もその一つだ。鼻も、歯も脳に繋がっているんだから当然と言えばそうである。可哀想に一之瀬先輩は役者の命である顔を汚されたせいで力が出ないらしい。服装も相まって被害を受けた女性のようにその場に蹲っている。

 これだから異常者は……自分が攻撃する側だと思い込んで……いざ反撃を受けたら被害者面ですか。

 アンタは今まで三人の女性のそんな姿を見て何も思わずに殺したんですか?

 傷つけ、これから傷つけようとした少女二人にも、何も思わないんですか?

「そんな格好異常者がするべきじゃないんだよ!」

 追撃開始。かつらを剥がして側頭部に一撃。コートを引き裂いては腹部にブロー。

「ごふっ……な、なんで……うごけ……」

 一方的に殴るのは趣味じゃないけど相手が反撃してこないのだから仕方がない。

 右手の甲にひびが入っているから? 左手が脱臼しているから? その程度の痛みなら男子レギュラー相手に散々味わって来た。痛みは感じても慣らすことだって十分できる。

 ナイフも滅茶苦茶痛いけど、そこは九条家の血に感謝だ。ウチの家系は非常に血の気が多い。追い込まれれば追い込まれる程闘争本能が湧き出る変態。蜷川には不評だけど今はこの体に産んでくれた両親に感謝しかない!

「持久力だけが取り柄なんでね!」

「うっ……が………………――」

 左目に青あざ、頭頂部にたんこぶ、メイク化けが剥がれてきた所で先輩は気絶した。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 流石の私も腹に一物抱えたままじゃたまらない。念のため先輩のヒールを脱がし、右足の指を雑に折った所であおむけに倒れた。

「うっ……はぁ……」

 正当防衛の範囲とはどの程度だろうか。こっちは全身傷だらけだし、ナイフ一本もらっているんだからその辺は斟酌してほしいところである。

「アキちゃん……終わったよ……警察と、救急車呼んで」

 私は廃工場に仕掛けた隠しスマホに向けて叫んだ。証拠確保のために仕掛けておいた保険。それがまさか命綱にまでなるとは思わなかった。

 スピーカーの奥からひっくり返る音が聞こえる。あまりの惨状に腰を抜かしてしまったのだろう。まったくもう……そんな所がかわいらしい。

 ……アキちゃんが見ている手前、血なまぐさい場面は見せたくなかったのだけど、今回ばかりは相手が悪い――

「一之瀬先輩、あなたが無様を晒している理由はたったひとつです」

 煽るなら、私一人を煽っていればい良いものを。

 記憶も、特性も、苦労も、好きでアキちゃんが背負ったものじゃない。どれもこれもが異常者に刻まれた傷跡。

 それを侮辱する奴がいるなら私は容赦なく粉砕する。私が彼女にしてやれる事なんて体を張る事ぐらいしか出来ないのだから。

「覚悟の差、ってやつで――」

 言いきれずに視界が白んでゆく。絶賛スプラッターだった景色がなんで白い……? あれ? これってもしかして本当にやばいやつなんじゃ……どうした九条家の血! ナイフは刺さったままで出血量はそんなでも無いぞ! もっと血の気を出して! このままだと先輩がお縄につく前に私がお空に――

『マナちゃん!……マナち……――』

 ああヤバい……キメ台詞なんて言うもんじゃ無かった。

 緊張が解けて……疲れが出てきて………………おやすみなさい――

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