ツインテールの戒め

蒼樹エリオ

第一章 三〇〇分の一のありふれた不幸

1ー1

『それでは次のニュースですが……』

 時刻は午前五時。比較的早くに目覚める私にとってテレビはなんとなくつける程度の存在だ。特に内容を見るのではなく、音と光でぼやけた頭の覚醒を促す。四時には仕事に出る両親と、朝が弱い漫画家の姉という家族柄、洗濯物の処理をするのが私の朝の仕事だ。

 すでに高校の制服に袖を通した私はデリケートな物をネットにより分けながらボーっとローカルニュースに耳を傾ける……。

『……っと、ここで緊急ニュースです。県警によると昨夜待木市内で殺人事件が発生したようです。被害者は女性で――』

 何やらメモを渡された男性キャスターたどたどしく内容を読み上げる。

 当然だ。こんな都心に近いのが取り柄なだけの、何の変哲もない郊外の街で殺人事件が起きたのである。今まで平穏そのもので過ごして来た空間で人殺しが起きるなんて誰が想像できようか。

「まあ、事件だけなら七年前にも起きているけど――」

 我が家のデカイ洗濯機なら四人分の洗濯物程度、一回で余裕だ。私はネットと衣類を投げ込み、電子表示を待たずに目分量で液体洗剤と柔軟剤を流し込むと後の作業は洗濯機に任せる。

 本当は三〇分後の干す過程まで仕上げるのが私の仕事なのだけど……事態が事態なので姉に引き継ぐ。締め切りまではまだ余裕があるはずだし、普段通りであれば八時にはリビングに出てくる。

「ええっと……緊急事態につき早めに出ます。洗濯物だけよろしくお願いします――」

 末尾に「まなと、書置きをリビングに残してスクールバックを背負うと大急ぎで玄関を出る。

「おっと――」

 忘れちゃいけない出発の儀式。私はブレザータイプの制服のポケットからヘアゴムを取り出すとセミロングの側頭部を二つにまとめてツインテールに仕上げる。

 この髪型との付き合いも七年。鏡を見なくても仕上がりは分かる。今日もいつもの私が出来上がった。

 それに満足した私は駐車場の隅に置かれた愛機、ロゴの自己主張がやや強めなビアンキのロードバイクに跨がり全力疾走。

「……殺人事件か……」

 それはあらゆる犯罪の中で最もシンプルなものだと言えるだろう。

 盗みとか詐欺とかの場合は裁判などで権利や損失の保証をどうするか交渉を始めて最終的な解決が十年経った後なんてざらにある。

 当事者にとって起きた事件は、例え年月が経とうと昨日の事のように思えるのだろうけど、いたずらに時間だけが過ぎるばかりで一向に解決しないとなればモチベーションは下がる。中にはそれを狙ってわざと交渉を長引かせる人もいるとか……。

 それに比べると殺人事件はシンプルだ。相手を殺して、それで終わり。

 ……実際には動機の解明とか、事後処理はいくつも存在する。法体系が存在する現代日本において真に単純に解決できる事件なんて無いのかもしれない。

 それでも殺人がシンプルと言えるのは、その事件では確実に一つ以上の命が失われているから。

 お金であれば保険をかけていれば戻ってくる可能性がある。著作権や機密といった情報も交渉やバックアップで自分の下に戻るかもしれない。でも……ありふれた考えだけど一度失った命は二度と帰って来ない。この断絶は大きい。

 殺人は取り返しがきかない。失ったという事実が動かない時点でそこには単純な終わりが残されるだけ。関係者は命の終わりという圧倒的な喪失を抱えながら残りの人生を過ごさなければいけない。

「……最悪だ」

 ここでの最悪は殺人に対するものじゃない。

 この世で最もシンプルな犯罪が殺人なのだとしたら、それと対をなす最も複雑な犯罪とはなんだろうか。

 問題を複雑にしようとするといくらでも答えが出るかもしれない。なのでこれは私の経験を基にした私見。

 私であればそれは誘拐であると断言する。

「ふう……」

 普段であれば三〇分以上はかかる道のりを二〇分でたどり着いたために太ももは悲鳴を上げている。本当は一息整えたいところだけど、兵は迅速を尊ぶ。勝手知ったるマンションの敷地、駐輪許可証を兼ねたシールを撫でながら私はロードバイクを定位置に収めた。

 カードキーでエントランスをくぐってコンシェルジュの中野さんに軽く会釈。エレベーターに乗り込むとそこでようやく一息。七階の最上階にたどり着くまでにコンディションを整える。

 まったくあんなニュースさえ見なければこんな大慌てで出かける必要なんて無かったのに。でも仕方がないか……アキちゃん曰く、殺人事件は日本だけでも年間九〇〇件発生している。各都道府県で少なくとも一回は発生するのだ。その一回がたまたま私達の街で起きただけ……。

「……嫌だな」

 事件のせいで思考がネガティブに振り切れている。きっと今の私は酷いしかめっ面だ。

 そんな顔をするためにここに来たんじゃない。あの子、アキちゃんに必要なのは安心できる環境。

 起きてしまった事件を一旦頭の隅に追いやって、両手で頬を揉みしだく。

「これも嫌だ……」

 しかめっ面も多少は柔らかくなった。エレベーターをくぐる頃にはほら、いつもの私、じょう愛美がここにある。

 702号室の前にやってきて合鍵を差し込む。上下二カ所を解錠すると――

「マナちゃん!」

「おっと……!」

 ドアが内側からいきなり開かれた。

「ちょっとアキちゃん……危ないって……。ぶつかるところだった」

「えへへ……ごめんごめん。でもマナちゃんなら避けられると思って――」

 ね、といたずらっぽく微笑むアキちゃん。百点満点の可愛らしい笑顔と……焦点の合わない左右の瞳。

 この子が私の急いだ理由。七年前に発生した誘拐事件の被害者であるひとしょうだ。

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