懐かしき穏やかな日々を

 世界がまだ出来たばかりの頃。

 魔族と人間は等しく共存をしていた。


 魔力を持つ魔族たちが土地を開拓し、魔力を持たない人間たちは手先の器用さを利用して道具を生み出し、互いに補い協力し合いながら集落から村へ、村から街へと発展させて行った。


 異種族同士の婚姻も珍しいことではなく、混血により新しい種族が生まれ、人口も増えた。現在のプリムスのような光景が世界で当たり前の時代があった。


 いつの頃からか、人間側に変化が起きた。異種族を恐れ毛嫌う者達が出てきたのだ。その負の感情はやがて多くの人間に伝染するように広がっていった。


 力の弱い魔物や妖精たちは捕らえられ、奴隷のような扱いを受けることもあった。迫害され追い立てられた魔族を哀れに思った創造主により彼らが穏やかに暮らせる土地を作り結界の森で覆ったのが、現在のロストリアである。



 柔らかく暖かい風が頬を撫でていく。その風に揺らされた木々の音と草花の甘い香り、時折跳ねる水音にカリムは閉じていた瞼を開く。


 目前には、底まで透き通った美しい湖が広がっている。水音は魚が跳ねる音のようだ。湖の周りは木々が生い茂っている。カリムはそのうちの一本の広葉樹に背中を預けて座っていた。



……これは夢だ。



 目の前に広がる美しい湖も、生い茂る樹木や草花も、現在は人間の領土となっていて、遥か昔に開拓され今はもう失われた景色である。


 カリムは、この景色が好きだった。長い時を生きる自分と同じく長い時間変わらずにある自然と過ごす時間は心地良い。夢の中だとわかっていても離れ難く、再び瞼を閉じる。



「おい、こら。サボり魔」



 不意に頭上から声がする。ゆっくりと見上げた広葉樹の枝に誰かが座っている。


 透き通るような白い肌に大きなエメラルドグリーンの瞳、白金の長い髪は瞳の色を引きたてる。よく知っている懐かしく美しい姿にカリムは目を細める。


「……イシュタル」

「私にドラゴン退治を押しつけておいて居眠りとは、いい度胸だな。ルシファー」


 昔の名で呼ばれたことに思わず笑みが浮かぶ。


 彼女は座っていた枝から軽々と飛び降り、カリムの傍らに腕を組んで立つと、眉間に皺を寄せて見下ろしてきた。返り血だろう。顔や腕、衣服が所々汚れていた。


「手を出すと君は怒るだろう?」

「当然だろ。片付けが面倒なんだ。ソレだけ手伝え。というか、お前がやれ」


 イシュタルは美しい外見に似合わず、態度が横暴で恐ろしく口が悪い。おまけに手も早い。明け透けに罵られ、どつきまわされるのは日常茶飯事だ。


 その分裏表がなく、情に脆い。困っている者がいれば、ぶつくさと文句を言いながらも手を貸さずにはいられない。横柄な態度や口が悪いのは照れ隠しなのだ。


 彼女は、純粋そのものだった。

 そんなイシュタルだからこそ惹かれたのだと思う。


 今でこそ魔王という大勢の部課や民に囲まれる立場に立っているが、どちらかと言えば他者との交流が苦手で、静寂を好むカリムとは正反対の彼女が気になって仕方がなかった。


 苦笑気味のカリムへ、イシュタルは腰に提げてていた剣をベルト毎外して放り投げる。一応は大いなる意思から賜った宝剣である。落とさないよう慌てるカリムを尻目に彼女は湖に向かって歩き出す。


「ちょっと預かってろ、洗ってくる」


 言いながら躊躇なく衣服を脱ぎ捨てていくイシュタルに、カリムは頭を抱えた。


 性的なことに頓着をしない彼女はカリムの様子に気付かず無防備に肌を曝け出す。なまじ想いを寄せているだけに、目のやり場に困るので、湖に背を向け溜め息を付く。


 己が異端であることは自覚があった。


 本来、大いなる意思の子は、個体としての性別はあるが、恋愛感情や性欲などは持たない。贔屓や嫉妬による力の偏りを防ぐため、そのように出来ている筈だった。


 だが、カリムはイシュタルに恋をした。


 決して告げてはならない想いだ。告げてしまえば、糾弾されるだろう。それどころか嫌われてしまうかもしれない。イシュタルの側に居られなくなることが何よりも恐ろしかった。


 背後で大きな水音がする。泳ぐつもりなのだろう。バシャバシャと水を掻き分ける音がしばらく続き、自分を呼ぶ彼女の声に思わず振り返ってしまう。


 諸々の諸事情で不味いとは思ったものの、彼女は水深が深い所まで泳いで行ったようで、かろうじて頭だけを水面から出していた。ほっと息を吐く。


「ルシファー!お前も来い!」


 とんでもないお誘いをしてくる彼女に、片手を降って「私は辞めておく」と、拒否をすると、ご不満のようだ。


「つまらん奴だな!堅物め!」


 先程、同じ口でサボリ魔だのと罵られていたのだが、どうやら覚えていないようだ。


 苦笑して再び広葉樹に背を預け天を仰ぐ、枝と葉の隙間から暖かい陽の光が降り注いでいる。穏かだ。こんな日がずっと続けばいいと思っていた。


 瞳を閉じると、やがて木々の擦れる音も、彼女の泳ぐ水音も遠くなっていく。そろそろ、目覚める時間のようだ。



 ゆっくり目を覚ますと、見慣れた寝室の天蓋があった。


 随分と懐かしい夢を見たものだ。ここ最近は夢に出てくる事も少なくなっていたというのに。

 恐らく、昨日の夕刻にイアンナに出会ったためだろう。


 割りと自分は女々しいと改めて気付かされ、起き上がりながら自嘲気味に笑う。


 小さな姿の彼女は、とても可愛らしかった。素直そうな表情も不自由なく大事に育てられていることがよくわかる。


「……おにいちゃん……か……」


 カリムの外見と彼女の年齢的にも不自然な呼び方ではない。不自然はないのだが……。


「……ずっと呼ばせようか……」


 別の意味でいけない方向に向かいかけていることに、本人は気付いていない。



 寝台から降りようとした所で、バタバタと廊下を走る足跡に、首を傾げて扉を見やる。次いで、ノックの音と同時に扉が開いた。


「陛下、お休みのところを失礼いたします」


 側近のベリアルだった。相当漁っているらしく、普段はきっちりと整えられている黒髪がやや乱れている。


「騒がしいな、どうした?」

「プリムス側の森に暮らす獣型の妖精が、陛下に取り次ぎを願いたいと参りました。傷を追っていた為、治療を優先にしたのですが……」

「傷……?何があった」


  獣型といえば、恐らく昨日イアンナと一緒に遊んでいた妖精だろう。

 ただ事ではない様子と言い淀むベリアルに怪訝な表情で続きを促す。


「……イシュタル様が、人間の兵士に連れ去られた模様です」

「どういうことだ……?」


 思ってもいない事態に、カリムは唖然とする。数万年人間の世界との交流を絶っていたため、人間にとっての『イシュタル』の存在がどんなものかがわからない。ウルクが傷を追ったという事は、強引な手段であったのだろう。


 何が起きている……?


 言いようのない不安が、カリムを急かす。


「人間の領土へ魔族の派遣を許可する。直ちに、状況を調べろ。私は彼女を追う」

「……はっ!」


 報告を待っていてくれと頼んで大人しく待つ相手ではないことをよく知っているベリアルは、命じられた任務だけを遂行すべく足早に退室していった。

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