第1節(その3)

 だがそんな彼でも、黒き竜の名そのものを聞いたこともない、ということはさすがになかったかも知れない。黒竜バルバザードの名は、王国に災厄をもたらすものとして、ずっと昔から語り継がれてきた忌まわしき名前であったのだから。

 とはいえ……本当に黒竜が現れるまでは、ほとんどの人間はそれはおとぎ話だとしか思ってなかったし、実際に最果ての辺境域で黒き竜の目撃情報がもちあがっても、まともに取り合う者の方が圧倒的に少なかった。

 それでも王宮は律儀にその件を気にかけ、実際に黒き竜がいるのかどうか……人々が目撃したのが真に黒竜バルバザードであるのか否か、それを見極めるために調査団が派遣される事となった。

 その調査の任に当たることとなったのが、魔導士オルガノフであった。魔道士の塔に籍を置く彼は、若くして予言の才が豊かな事で知られ、王太子フレドリックから相談役として重用されている事でその名を知られる人物であった。

 調査にあたってその王太子が直接彼を名指ししたというわけでもなかったから、最初は渋ったオルガノフだったが、いずれにせよ王宮からの命令とあれば結局は従わざるを得ない。

 そんなオルガノフは出立を前に、自分のかつての教え子であったアドニス・アンバーソンに、このように漏らしたというのだった。

「本当は、私を黒竜に近づけてはいけないのだ。必ず良くないことが起きる」

 誤報であるに越したことはない。竜など現実には実存しないのだ……オルガノフはそう言い残して旅に出ていったが、結果として二度と王都に戻ってくることはなかった。

 調査団が音信を途絶えさせるのと前後して、辺境域の村々から何物か怪物のようなものに襲われるという被害報告が相次いだ。それが果たして黒竜なのかどうか、それを確かめ、先の調査団……とりわけオルガノフの行方を探すように、と二番手の探索隊が派遣される事となったのだった。

 今度の探索隊は先の調査団の救助が一番の目的で、怪異に襲われているという辺境域の開拓民たちをいざともなれば守る必要があるようにも想定された。だから探索隊は王国軍の部隊が当てられ、その部隊長の任を命じられたのが正騎士ベオナードであった。その部隊に近衛師団からも騎士ルーファス他数名が同行する事となった。黒竜の実存がどうやら本当らしい、ということが明らかになったがゆえに、探索行に名目だけでも居合わせようという事になったがゆえだった。

 そしてその探索隊に魔導士として同道したのが、ユディスの叔母である魔導士アドニス・アンバーソンであったのだ。

「そして彼らは辺境におもむき、黒竜を発見し、これを退治して帰ってきた」

「……だから? それがどうしたというの」

「正騎士ベオナード卿は今現在、残念ながら消息がわかっていません。ですが近衛騎士のルーファス卿は十数年前に病没したと記録にあり、この際は国庫から費用を出して追悼の式典が執り行われています。……なので、アドニス殿についても本来であれば同じ処遇であるべきではないかと。この件に関して、アンバーソン家の方々、とりわけアンバーソン家の当主の地位を相続すべき方に相談すべき内容なのではないか、と」

「アンバーソン家は叔母とその妹……つまり、私の母親以外は兄弟姉妹がいなかった。叔母は長子ではあったものの、魔道士を志した事もあっていったんは家督を私の両親に譲っている」

「でも、君のご両親もすでに故人であるし、アドニス・アンバーソンは生涯未婚だった。つまりアンバーソン家の次の跡取りというのは……ユディス、君の事に他ならない」

「その追悼式とやらを丁重にお断りしたいときは、あなたに直接言えばそれでいいの?」

「いえ……話はそこで終わりではなくて」

「?」

「すいません、叔母さんがお亡くなりになったばかりというのにあなたのご両親のことまで蒸し返すのは本当に失礼だとは思うのですが……あなたのご両親は過去に邸宅の焼失により亡くなられている。けど、記録によればその時にもうひとり、アンバーソン家のご令嬢も一緒に亡くなった事になっている……というか、一時期までなっていたんですよね」

「……」

「その後数年たって、そこにご夫婦の令嬢まで一緒だったというのは記録の間違いで、実際は子爵家の所領であるアーヴァリーの別邸にいて王都には不在だった、というのです。……なぜそのような事実誤認があったのかはわかりませんが、結局それは書類の不備であったとして処理され、火災で死去したのはご夫妻の二人だけであった、という風に記録が修正されてまして」

「……」

「その時のご夫婦の間の一人娘というのが、ユディス・アンバーソン。つまりあなたのことで、その火災の件の異議申し立ての書面を提出した名義人が、あなたの叔母であるアドニス・アンバーソンその人だという……」

 そこまで喋ったマティソン少尉を見るユディスの眼差しは、これ以上ないほどに軽蔑の色がありありとしていた。

 少尉はその冷ややかな視線に生きた心地がしなかったであろうが、これも職務と割り切ってのことか、上ずった声でどうにか先を続ける。

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