第6話ー03

「あはは。どういう風の吹き回し? 実斐さんがそんな親切なことを言うなんて」

「ばっ……馬鹿を申すな。親切で言うたわけではないぞ。我はただ……」

 失言だったとばかりに唇を曲げて、実斐はぷいとそっぽを向いてしまう。悠音はなんだか嬉しくなって、にここにこ笑顔で青年の漆黒の瞳を覗きこんだ。

「ただ?」

「……ふん。気が向いただけだ」

 そう呟く青年の目許はどこか照れたように。拗ねたように。僅かな赤みがさしていた。それが可笑しくて、悠音はくすくすと声を上げて笑う。

 軽く睨むようにそれを眺めていた鬼は、ぽかりと彼女の頭を軽く叩いてから、つられたように苦笑した。

「そんなに笑うな、悠音。……我の気が向いておるうちに、さっさと帰る支度をするがよいぞ」

「うんっ」

 明るい笑顔を浮かべて、悠音は嬉しそうに頷いた。

 そうして散らばっていた裁縫セットを手早くバッグに入れながら、ちらりと実斐の様子を見やる。

 大腿部まで伸びた漆黒の長い髪が風に揺らめいて、静かに宙を舞っている。その姿はいつものような紅い鬼ではなく"人間"のものだ。

 あの実斐だったら着ている物さえ変えれば、一緒に町を歩いたり買い物をしたりすることも出来るだろう。その艶やかさに注目は浴びるかもしれないけれど、奇異には見られない。そんな愚にもつかないことを考えながら、悠音はくすりと笑う。

 もちろん、彼がそんなことを承知するはずもないけれど ――。

「何をニヤニヤしておるのだ、悠音?」

「にっ、にやにやなんかしてないもんっ」

 慌てて悠音はそう言うと、荷物を抱えて青年の隣に戻る。

「ほお? まあ、そういうことにしてやっても良いがな。……ほら。さっさとゆくぞ」

 実斐は相も変わらず偉そうに言うと、拝殿に続く小道へと歩き出そうとした。

 けれども、ふと。何かに気が付いたように、その表情がにわかに強張った。

「…………」

「どうしたの?」

 ひょいと実斐の脇から顔を覗かせるように、悠音は視線を同じ方へと流してみる。そこには、誰かの足跡らしきものが微かに残っているのが見えた。

「これ……?」

「あの神職がここにったようだな。そのことに気付けぬとはな……」

 ちっと強く舌打ちをして、実斐はゆるゆると頭を振った。ここに残る日向の気配はまだ新しい。つい先程まであの宮司がここに居たのだろう。

 いつもであれば僅かな気配さえも見逃さないというのに、今までまったく気付いていなかった自分が腹立たしい。

 己の内に溢れる妖力ちからに変化はなくとも、鬼としての姿が保てていない以上、やはり何らかの影響が出ているのだろうかと、小さな不安が脳裏を掠めた。

「…………」

 そんな珍しい鬼の表情に、悠音はきゅっと唇を噛んだ。ついさっきまで楽しく幸せだった心が、冷水を浴びせかけられたように一気に冷え込んでいた。

「この足跡……射場の方に向かってるみたい」

 地面に僅かに残るその足跡は、二つの軌跡を示しているように見受けられた。

 ひとつは拝殿から伸びる小道を経てこの場所へ来たもの。そしてもうひとつは、再び小道に戻り、今度は更にその奥へと進むように残る跡 ――。

 この小道の先には以前、神迎のかみむかえ神事で自分が射を行った神聖な射場がある。それに気が付いて、悠音はぶるっとひとつ身震いをした。

「まさか……やっぱり……?」

 さっき一度は思考から消去したあの恐怖が再びじわじわとよみがえってきて、悠音は居ても立ってもいられなくなった。

 実斐が鬼の姿を保てず人間のようになってしまったのも、やはり日向の仕業なのかもしれない。そう考えることはひどく怖ろしい。

 だから ―― 取り返しが付かなくなる前にと、悠音は疾風のごとく走り出していた。

「悠音っ、どこへ行く!?」

 いきなり拝殿とは逆の方向に走りだした少女の腕を取るように、実斐は悠音の足を止めさせる。そうして振り返った彼女の表情に、驚いたように息を呑んだ。

「悠音?」

「日向おじさんにお願いしてくる! 実斐さんを封じないでって……」

 じっと実斐の顔を見上げる少女の表情は、あまりに真摯だ。

「……悠音」

 その大きな瞳には、みるみる大粒の涙があふれるように浮かんできて、少女の必死さに思わず実斐は絶句した。

 人に怖れられ、忌まれるのが当然な"鬼"である自分をそうまで気遣い、想う悠音が不思議だった。

 そして ―― 己の心にふとわき上がった有り得ない感情に、困惑した。

 けれどもそんな感情ことには気づかなかったふりをして、実斐は小さく息をついた。

「笑ったり、泣いたり、忙しい娘だのう。そなたは」

「だって ―― 」

「さっきも言うたであろう。心配するな、と」

 艶やかな漆黒の瞳に柔らかな光をともして、実斐はそっと彼女の涙を拭う。そうして不安げに自分を見上げてくる小柄な身体をすっぽりと腕の中に包みこんだ。

 その背をあやすように軽く叩いてやりながら、実斐は切れ上がるようにあざやかな笑みを口許に刻んだ。

「我はこの藤城とうじょうを統べる鬼ぞ。あのような神職ごときがかなう相手ではない」

 いつものように不遜で、強い自信に溢れた心地好い声が悠音の耳元に囁かれる。それはどこか優しい響きを含んでいるように感じられて、悠音は自分の中に在った不安がゆうるりと溶けていくような気がした。


「へへ……ありがと。実斐さん」

 青年の腕の中で悠音は泣き笑うように言う。

 いつもならこんなに密着すれば心臓が跳びはねるのに。今は実斐の温もりが心地好く、安心できるのが不思議だった。

「でもね、実斐さん。日向おじさんにはやっぱりお願いした方が良いよ。ばれているのは確かなんだもの。何が起こるか分からないよ」

 悠音は身じろぎするように実斐を見上げた。

「ふん。まあ、確かにいちいち横槍を入れられるのは我も面白くない。一度しっかりと脅しておくが良いやも知れぬな」

 にやりと実斐は口端を吊り上げる。もちろん"頼む"なんて下手に出るつもりなど一切ないのが実斐という鬼だ。

「もうっ。脅したりしたら逆効果だよ。日向おじさん、そういうの効かない人なんだから。……おじさんには私が頼むから、実斐さんは黙っててよね」

 むうっと頬を膨らませて、悠音は不遜な鬼をちらりと睨む。実斐はくつくつと肩を揺らすように笑った。

 何としても、鬼である自分を封じさせまいとしている少女の言動が可笑しい。それにやはり悠音には泣きだしそうな顔よりも、今のように強い表情の方がよく似合うと思った。

「ふふん。それならば、我は黙って隣で見ていよう。そなたは思う存分、あの神主に"お願い"するがよいぞ」

「 ―― 言われなくたってするもんっ」

 何だか自分達の会話はどこかいるような気がしないでもなかったけれど、悠音は負けじと言い返した。

 よくよく考えてみれば、日向は悠音にとって子供の頃から大好きな"優しい神主さん”なのだ。彼は決して嫌な人間ではないし、自分の願いを正直に伝えればきっと分かってくれるはずだと思う。

 だから今度は慌てることなく、悠音は日向の残していった足跡を追うように鎮守の杜の小道を歩き出した。

 そんな少女の隣を実斐は可笑しそうな表情でゆったりと歩みを進めていく。


 しんと静まり返った夜の神苑に、さらさらと忘れ水の流れる微かな水音と、二人の小さな足音だけが、ゆるやかに溶けるように響いていた ―― 。

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