1話ー後編

「……ごめんなさい」

 思わず悠音は謝っていた。千年もの間この藤城神社の宮司たちが代々封じてきたその鬼を、自分は解き放ってしまったのだ。

 もちろん、そのことを後悔などしていないけれど。あまりに優しいその眼差しに少し気が咎めた。

「うん? なんで悠音ちゃんが謝るんだい?」

「あー。えっと、何でもないよ。それで……その鬼について日向おじさんは詳しいの? 封じられた理由とか、どんな鬼だったのか、とか」

「そうだなぁ。僕も宇山くんと同じ程度の言い伝えしか知らないよ。もし悠音ちゃんが詳しく知りたいなら、神社の蔵に遺っている書物を見ておいてあげるよ。今すぐには、無理だけどね。なるべく早く調べておくから」

 それでいいかい? 壮年の宮司は軽く悠音の肩に手を置いて、確認するように顔を傾けた。

「あ、うん。お願いします!」

 すぐには分からないことにガッカリしたものの、日向の優しい言葉に悠音は笑顔で頷いた。

 "鬼"は居るのだと、この宮司がそう言ってくれたことだけでも嬉しかったし、少し安堵していた。あの時のことはやはり夢ではないのだと、そう思えた。

 けれどもふと、もうひとつだけ訊いておきたいような気がして、悠音は大きな瞳を宮司に向ける。

「あのね、おじさん。それとは別に……藤城実斐って人、知ってる?」

「トウジョウ サネアヤ? うーん。聞いたことあるような気もするけど……誰だったかなぁ?」

 眉間に皺を寄せて、日向は考え込むように俯いた。けれども一向に思い出せなかったのか苦笑したように肩をすくめ、ふるふると首を振った。

「歳をとるのはイヤだねえ。さっぱり思いだせないよ。ごめんね、悠音ちゃん」

 若々しい顔には似合わぬその台詞に、悠音はぷっと吹き出してしまう。父と同じく四十歳を越えているとは思えない子供のようなその仕草が可笑しかった。

「その人がどうかしたのかい?」

「ううん。ただ藤城っていうからこの神社の縁者かなぁと思っただけ。変なこと訊いてごめんね、おじさん」

 慌ててそう応えると、日向はなんだとばかりに可笑しそうに笑う。そうして近場に見える電柱に貼られた『藤城町三丁目』という標示を指し示した。

「この町の名前もそうだけど、藤城っていうのは地名だからねえ。うちの縁者とは限らないんじゃないかな」

「あ……そうだったよねぇ」

 もちろん自分が住んでいる街の名前を忘れていたわけではない。ただ、それとあの鬼の名を結びつけるのを忘れていただけだ。今さらそのことに気がついて、恥ずかしそうに悠音は苦笑した。

「まあ、聞いたことがあるような気もするし、その名前についても思い出しておくよ」

 ぽんぽんと、宮司は大きな手を軽く少女の頭の上で弾ませる。そうしてぐるりと首を回すように空を見上げると、日向はどこか子供をなだめるような表情になった。

「そろそろ暗くなってきたし、今日はもう帰った方が良いんじゃないかな?」

「……うん。ああ、でもせっかく来たんだし、お参りだけしてから帰るね。おじさん、掃除の邪魔してごめんね」

 明るい調子でそう笑うと、悠音はひらひらと宮司に手を振って拝殿の方へと駈けて行く。

「参拝が終わったら社務所においで。家まで送ってあげるから。暗い道を一人で帰したとあっては悠樹にどやされるからねぇ」

 そのうしろ姿に宮司は声をかけた。悠樹とは、悠音の父親のことだ。

「大丈夫。いつも部活のあとはこのくらいだもの。もう、子供じゃないんだよ」

 いつまでも自分を幼子のような扱いをする日向に、少女はぷくりと頬をふくらませて抗議する。十八歳にもなって、たかだか日が沈んだぐらいで送迎が必要などと、どれだけ甘やかす気なのか。

「そうかぁ。じゃあ、気をつけるんだよ」

 あはははと可笑しそうに日向が笑うと、悠音は軽く悪態をついてから今度こそ拝殿のほうへと去って行った。

 少女の姿が見えなくなると、自分も社務所に戻るように踵を返し、日向は不意に「あっ」と声を上げた。

「トウジョウサネアヤってもしかして、『藤城に棲む鬼、其は実斐と申し……』って"あれ"のことかな。でもなんで悠音ちゃんが知ってるんだろう?」

 自分の記憶を照らし合わせるように呟くと、心底不思議そうに少女の駈け去ったあとの参道をもう一度見やる。

「……ちがうか。名前が似てるだけかな」

 門外不出の神社の古文書に記された鬼の名前を彼女が知っているとは考えられず、日向は軽く息をついた。



 参道を抜けて二の鳥居をくぐると、美しい紅葉に彩られるようにして総檜造りの拝殿が南に面して建っている。正面の頭上には太い注連縄しめなわが真一文字に張られていて、荘厳な雰囲気をかもしだしていた。

 その奥には神を祀る御本殿があり、さらに奥まった杜に『神苑』が在るのだと、今ではもう悠音も知っていた。

 拝殿より先は朱と金で彩られた優美な飾り柵があるので、こっそり入り込むことなどは出来なかったけれど。

「やっぱり駄目かぁ」

 子供の頃からよく境内で遊んでいたので、ここに柵があることは知っていた。それでも、もしかしたら忍び込めるのではないかなどと淡い期待を抱いていた悠音は、がっくりと溜息をつく。

 お参りするというのは方便で、それを確かめに来たようだった。

「……なんか、馬鹿みたい」

 何をこんなに必死になっているのかと、自分自身で呆れてしまう。

 もとはといえば、あの紅い鬼が『いつか喰らいに行く』などと思わせぶりなことを言うのがいけないのだ。

 だから自分は、また会えるなどと期待してしまうのではないか。

「 ―― 期待? 違う違う。有り得ない」

 自分自身の考えを即座に自分で否定してみせて、悠音は深い溜息をついた。

 そうして背負っていた弓道具を近くの木に預けると、心を落ち着けるように拝殿の前に立つ。美しい紅白の叶緒かねのおを引いて鈴を鳴らすと、二礼してからぱんぱんと手を二回打った。

(心の平穏を取り戻せますように ―― )

 今の自分が何だか滑稽で、思わずそんな願い事をしてしまう。そんなことは神に祈るのではなく自分の心次第なのだと判ってはいるのだけれど、どうしようもないことはあるのだ。


「何を、願っておるのだ?」

 不意に、流麗な声が少女に降りそそいだ。その声は天から流れ出るように、心地よくゆるやかに悠音の耳に届く。

「ずいぶんと我に焦がれて待っておったようだのう。そんなに我に喰われたかったのか?」

 笑い含みに響くその美しく低い声音は、聞き忘れるはずもない。あの鬼の青年の声なのだと、すぐに分かった。

 けれども慌てて周囲を見まわしてみても、その姿はどこにも見当たらない。

「待ってなんか、いないわよ。ただ……」

 悠音は僅かに口ごもり、そうして何か思うことがあったのか、じっと拝殿を彩る周囲の紅葉を見上げた。

「私が解放してあげたのに『喰らいに行く』だなんて脅かすだけで、あなたお礼も言わなかったじゃない。だから、感謝してもらおうと思ったのよ」

 胸を反らして、悠音は強がるように言った。

 くつくつと、再び笑い声が降ってくる。「やはりおかしな娘だ」そういう呟きも聞こえてきて、少女はぷくっと頬をふくらませた。

「隠れてないで、さっさと出て来なさいよ」

 青年の声だけが聞こえて姿が見えないことも不満だったし、笑われたことはもっと不愉快だった。

「ふ……そう、怒るでない」

 ざわざわと木々の葉が風になびくように音を立てる。薄暗くなった空に、影のように紅葉が舞っていた。

「あ ―― 」

 思わず、悠音は短い声を上げた。

 空を舞う紅葉に目を奪われるように視線を流したその先に ―― 紅い鬼の姿があった。

 拝殿の脇を彩る美しい木々の紅葉に浮かび上がるように、彼は軽く笑むように少女を見下ろしていた。

 陽は落ちてあたりは暗くなってきているというのに、その闇さえも振り払うような美しい紅の長い髪。そして二本の蒼銀の角が、あざやかにのぞいている。

「…………」

 言葉を失ったように悠音はしばしその姿に見入ってしまう。

 初めてこの"紅い鬼の姿"を見た時もそうだった。魂を揺さぶられるような美しさがこの世には在るのだと、そう思い知らされるのだ。

「何を呆けておるのだ。おかしなやつよ」

 可笑しそうに笑うと、実斐はふわりと少女の前に下りてくる。その表情も態度も、二週間前とまったく変わりはなかった。

「呆けてなんか……え?」

 反論しようとした悠音はその言葉を呑み込んで、きょとんと目を丸くした。

 目の前に舞い降りた鬼の青年は思いがけず艶やかな笑みを浮かべ、悠音に向かって右手を差し出していた。

 その手のひらには ―― 白く煌く小さな物が載っている。

「……なに?」

 意味がわからないと、少女は不思議そうに首を傾げた。

「謝礼の品だ。……そなたが、感謝しろと言うたのであろうが」

 にやりと切れ上がるような笑みを宿し、実斐はからかうように少女の顔を見た。

「星をひとつ、な。里から持ってきてやったのだ。これでよかろう?」

「星って……」

 思わずまじまじと青年の手のひらに載る物を見やる。

 確かにそれは白銀しろく輝いていた。珠のような形上の表面に長短それぞれの突起が幾つか伸びて、星の形をしているように見えなくもない。おそらく巻貝の一種なのだろうと思われた。それでも ――

「綺麗……」

 悠音は本当の星をもらったように思えて。魅入られるように呟いた。

 淡く輝くその"星"を受け取りながら、ほんわりと、心の奥が暖かくなったような気がする。それがなんだったのか分からないまま、悠音は鬼の青年へと視線を移す。

「……ありがとう」

「星貝というてな、里でも珍しいものだ。大事にするが良い」

 あざやかな笑みを浮かべて、鬼の青年は深い漆黒の瞳を細めた。

 その"里"というのが何処のことなのか悠音には分らなかったけれど、青年がこの貝をわざわざ自分のために持ってきてくれたのだということは分かる。

「でも、あなたは私を喰らいに来たんじゃなかったの?」

 何となく気恥ずかしくなって、悠音はわざと挑発するように言ってみた。

「ふ……ん。もちろん喰らうさ。我の、気が向いたときにな。そなたは面白いゆえ、しばし泳がせておくまでよ」

 にやりと、実斐は笑った。

「我は ―― 気の向いたことしかやらぬ主義なのでな」

「それ、わがままって言うんだよ」

 くすりと、悠音も笑った。

 よくよく考えてみれば、かなりひどいことを言われているというのに。何故だか楽しくて。嬉しくて。可笑しかった。

「まあ、いいけどね。私、賭けてもいいよ。あなたが私を喰らう気になることは有り得ないってね」

 悠音は悪戯っぽく笑って、鬼の青年を見やる。

 その手の中には星がひとつ。静かに淡い輝きを放つように、闇のおとずれた境内の中でゆらゆらと煌くように揺れていた。

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