第9話

そして事件は起こった。

かの生徒が突然、消えてしまったのだ。


父親が半ば強制的に退学届けを出させ、行き場を失った生徒は家出し、行方知れずとなってしまった。

「あんたらのせいだ。もしものことがあれば!!」


取り巻きを連れた専制君主は校長室の応接テーブルを叩いた。

Sは自信を失くし、毎朝通勤前になると激しい動悸が起こるようになった。睡眠が滞り、みるみるうちに痩せていった。

1か月後、生徒は自宅へ戻った。なんのことはない、母親がかくまり、実家においていたのである。自殺に至らなかったことで皆安堵し、やがて専制君主の来訪は終わった。親子喧嘩の余波をうけた学校へ、かの専制君主が謝罪することはなかった。

生徒は学校から消えた。


こうしたいきさつはやがて週刊誌ネタとして世間を騒がすことになる。どこにでもある親子喧嘩が、「進学校の闇、問題教師S」として書きたてられた。法医学教授の父親の名前まで表にでるようになった。

校長は父兄会への説明に奔走しなければならなかった。


誰の仕業か校内の人間はみな知っている。しかし誰もその名を口にしなかった。そして振り回されていることが判っていながら、その渦の中で翻弄された。

Sは追い込まれた。毎朝、動悸が体の末端までうなった。

研究所を訪れたのはそんな折だった。



「僕は間違っていたのでしょうか」

多くのクライエントがつぶやく、そして幾度説明しても彼らの脳裏から消え去ることのないその質問に、Mは鷹揚に、そして型どおりに答えた。 

「信頼」

うつ病の患者に欠けているのは「信頼」だ。特に自分への信頼、それが壊れると人は生きてゆかれない。本来ならSのような典型例は薬を飲んで、しっかり休めばいい。

しかしそれではM療法の創始者として十分ではなかった。クライエントはMの語りを聴き、畏敬し、信仰し、そうやってようやく治る過程を実感すべきだった。

意欲を取り戻し、寝る、食べるという生理現象が回復すれば、自然、治療とは離れていくのが一般的な過程だったが、多くのクライエントはMに頼り無防備に生きる道を選んだ。

Sにも回復過程の兆候、安定した睡眠が得られるようになっていた。朝の動悸や吐き気も軽くなっていた。明るさが容姿にも、態度にもでていた。

クライエントランク、つまり社会的ポジションや研究所への寄付額、としては、スタッフに引き継ぐべきであったが、MはSを生贄として選択し肥え太らせることにした。

Sの教育熱。

Mはそれが嫌いだった。

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