10.天使像がなくなった!

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天使像の秘密を知り、クロエは呆然としながら店に戻った。

ところが、隠し扉のなかの天使像が消えていて……。


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 桟橋に降り立って〈エーゲ海のかけら〉までの坂道を歩くあいだ、クロエはほとんど上の空だった。ダレルに何を言われても、返事もろくにしなかった。店の前に着くと、ダレルが心配そうに見つめた。

「だいじょうぶかい?」

「え、ええ。きょうはありがとう。ごちそうさま」

「あのことは、急ぐ必要はないよ。じっくり考えて」

「わかったわ。おやすみなさい」

「おやすみ」

 クロエはドアの鍵をあけ、なかへ入った。

 クロエは二階に上がった。リビングのサイドテーブルに置かれた時計を見る。

 十時半。まだリッツァは帰っていなかった。

 クロエはまとめた髪からピンを抜いた。長い髪がふわりと背中に落ちた。白いタンクトップと木綿の巻きスカートに着替え、ダークブルーの小さなカウチに座り込む。

 知らなかった。わたしの曾祖母とダレルの曾祖父の恋。〝永遠の時をいだく天使〟が、宝物の一部でしかなかったなんて。

 あの曾祖母の遺言。〝いつの日か、失われた半身が現れ、止まった時が動き出すとともに、永遠の幸福が約束されるでしょう〟

 まちがいない。その〝卵〟が〝失われた半身〟なのだ。できることなら、わたしのほうがダレルからそれを買い取って、曾祖母のために宝物をひとつの形に戻してあげたい。でも、二百万ドルだなんて……。一生かかっても払える金額ではないわ。

 いろいろな考えが頭のなかを駆け巡った。とても眠れそうにない。

 クロエは母の部屋に入り、ドレッサーの引き出しから例の鍵を取った。暗い階段を下り、店に続くドアをあける。明かりを半分だけともして、母のタペストリーをめくった。

 隠し扉が、半開きになっていた。

「嘘。まさか……」

 急いで扉をあけ、なかを手探りする。天使像はどこにもなかった。

 クロエは呆然と立ちすくんでいた。

 どうして? このあいだあけたときに、わたしが鍵をかけ忘れたの? いいえ、そんなはずはない。ダレルに気をそらされはしたけれど、きちんと鍵をかけたことは憶えている。 それに、いったい誰が盗むというの……?

 店のドアをこんこん、とたたく音がした。はっと振り返ると、ガラス戸の向こうにダレルが立っているのが見えた。

「ダレル。なぜ戻ってきたの?」クロエはドアをあけて尋ねた。

 ダレルが店に入り、めずらしく少しそわそわした様子で言った。「いや、きみがちょっと動揺していたみたいだったから、心配になって、ホテルまで行ってから引き返してきた……」ふいに言葉を切り、クロエのほうをじっと見る。「どうした? 真っ青な顔をしてるじゃないか。何かあったのかい?」

 ダレルが優しく支えるように、クロエの両肩に手を当てた。知らないうちに、体がぶるぶると震えていた。

「ないのよ。〝永遠の時をいだく天使〟が。どうして……?」

「えっ!」ダレルがすばやくタペストリーのところへ行き、扉のなかを確かめた。

「ほんとうだ。でも鍵は?」

「ここにあるわ」クロエは握り締めていた鍵を少し持ち上げた。「あのとき、きちんと鍵はかけたはずよ」

「ああ、きみは鍵をかけていたよ」

「いったい誰が持ち出すというの? 天使像のことや、その隠し場所のことを知っている人は誰もいないわ。リッツァにさえ何も話してないのよ。知っているのは、わたしと……」

 クロエは口をつぐんで、ダレルに視線を向けた。

 ダレルが冷静な視線を返した。「ぼくは盗んだりしない。きみにとっても、ぼくにとっても大切な宝物なんだ。それを汚すようなまねはしないさ。わかるだろう」

 クロエははっとした。「え、ええ。ごめんなさい。あなたを疑ってなんかいないわ」そう、一瞬でもダレルを疑うなんて、どうかしている。「警察に届けたほうがいいのかしら」

 ダレルが少し考え込むような様子をしてから言った。「じつは……あの日、きみに天使像を見せてもらったあと、店を出たときにリッツァを見かけたような気がするんだ」

「えっ?」

「ぼくが扉から出ると、さっと角を曲がって行ってしまったけどね。もしかすると、あのとき、ぼくたちの話を聞いていたのかもしれない」

「まさか……」

 でも、ちょっと待って。

 クロエはここ数日のことを思い返してみた。リッツァがときどき、何か言いたそうにしていたことを……。

 ダレルが隠し扉をもう一度じっくり調べた。「鍵穴に引っかき傷があるな。誰かがピンみたいなものであけたらしい」

 クロエが見てみると、たしかに鍵穴の周りにいくつか細く白っぽい傷があった。

「まだリッツァが持っていったと決まったわけじゃない。何か事情があったのかもしれないし。リッツァの居場所はわかるかい?」

「たぶんコスタスといっしょのはずよ」

 クロエはコスタスの家に電話してみた。母親が出た。コスタスは九時ごろ、リッツァと〈レモニ〉に行くと言って出かけ、まだ帰っていないということだった。

「〈レモニ〉って?」

「港の近くにあるカフェよ」

「それじゃ、ぼくが行って捜してこよう」

「わたしも行くわ」

「いや、リッツァが帰ってくるかもしれない。すれ違いになるといけないから、きみはここで待っていてくれ」

「でも……」

「だいじょうぶ、店まで行って、そこにいなかったらいっぺん戻ってくるから」

 クロエは少し迷ったが、ダレルに任せることにした。

「それじゃ、お願い」

「だいじょうぶ。天使像はきっと見つかるよ」ダレルがぎゅっとクロエの両手を握り締めてから、足早に店を出ていった。

 クロエは不安な気持ちで、その後ろ姿を見送った。


 ダレルが角を曲がった瞬間、後ろから誰かが駆けてくる足音がした。さっと振り返ると、それはリッツァだった。

「リッツァ。ちょうどきみを捜しにいこうと思ってたところだ」

 リッツァが取り乱した様子で、はあはあと荒い息をつきながら言った。「ミスター・プレストン、お願い、助けて」呼吸が整うと、今度はぽろぽろと涙をこぼし、しゃくり上げ始めた。

「さあ、落ち着いて。何があったのか話してごらん」ダレルはリッツァの背中をぽんと優しくたたいた。

「コスタスが……わたしのボーイフレンドが、あの天使像を持っていったの」

 ダレルはリッツァの涙に濡れた顔を見つめた。「きみは天使像のことを知っていたんだね。もしかするとあの日、きみはぼくにぶつかったあと、店に戻ってきたんじゃないか?」

 リッツァが少し驚いた顔をしてから答えた。「ええ、そうよ。あなたと姉さんの話を、あいたドアの外で聞いてたの」

 リッツァが、そのときの状況を手短に説明してから続けた。「クロエが、ママの形見のことをわたしに教えてくれなかったのが、なんだか悲しくて……。あのあと何度もきいてみようとしたけど、どうしても言い出せなかった」

「それで、コスタスに話したのかい?」

「ひとりで隠し扉を眺めてたら、コスタスが店にやってきたの。『そこに何が入ってるんだ?』ってしつこくきくから、しかたなく話したのよ。そうしたら、コスタスがどうしても天使像を見たいって……」

 コスタスが釣り針の先で隠し扉をあけ、ふたりは〝永遠の時をいだく天使〟を取り出して眺めた。息をのむほど美しい天使像だった。

「これ、ほんとに値打ちものなのかな?」コスタスがきいた。

「さあ……。でも外国からわざわざ買いに来た人がいるんだから、もしかするとすごく価値があるのかも」リッツァは答えた。

「今クロエとデートしてるアメリカ人だろ。どうもあんまり信用できないな。おれ、古物商のじいさんを知ってるんだ。偏屈だけど、目は確かだよ。ちょっとこれを持っていって、見てもらおう」

「だめよ、持ち出すなんて!」

「だいじょうぶ、クロエが帰ってくるまでには元に戻すよ」

 リッツァは止めたが、コスタスは天使像を手に、バイクに乗って行ってしまった――。

 リッツァはくすんと鼻をすすって、ダレルの腕をぎゅっとつかんだ。

「姉さんが警察に届けたら、おおごとになってしまうわ。その前に、天使像を取り戻したいの。でも、古物商のおじいさんの家がどこにあるのかわからなくて……」

 ダレルは安心させるように、またリッツァの背中をぽんぽんとたたいた。

「だいじょうぶ。古物商の老人なら、島に来たときにいっぺん訪ねたことがある。山側にある一軒家で、ここから歩いて二十分くらいだよ。いっしょに行こう」

「ありがとう、ミスター・プレストン」

「ダレルだよ」

 ふたりはできるだけ早足で、曲がりくねった山道を登った。だんだん建物がまばらになり、低木が生い茂るだけの赤土の道が続いた。にぎやかな海側とはちがって、明かりの数もとても少ない。

「ねえ、ダレル」リッツァが少し息を弾ませて声をかけた。

「なんだい?」ダレルは、あまりリッツァを疲れさせない歩調を保ちながら答えた。

「こんなことをきいて、気を悪くしないでね。でも……あなたがクロエに近づくのは、〝永遠の時をいだく天使〟が欲しいからなの? それとも、ほんとうに姉さんに惹かれてるから?」

 ダレルは返事に詰まった。少し考えてから、慎重に答える。「そうだな。正直に言うと、自分でもよくわからない。天使像がどうしても欲しいのはほんとうだ。その一方で、きみの姉さんに惹かれているのもほんとうだと思う」

 リッツァが品定めするように、横目でこちらを見た。「わたしとしては、姉さんを泣かせてほしくないんだけど」

 ダレルは肩をすくめた。「クロエは強い女性だ。そう簡単に泣かせることはできないと思うな」

 山道の右側に、古い一軒家が見えてきた。古物商の老人の店だ。五メートルほど手前の草むらに、小さなバイクが停めてあった。

「コスタスのバイクよ」リッツァが言ったそのとき、店の戸口から布袋を抱えたコスタスが出てきた。

 コスタスはこちらに気づくと、一瞬ぴたりと足を止めてから、いきなり逆方向へ走り出した。

「待って!」リッツァが声をかけても、振り向きもしない。

 ダレルは急いであとを追った。道の先は一軒の建物もない狭く細い山道だった。街灯もなく、あたりは真っ暗で、すぐわきは崖だ。こんなところをやみくもに走っては危ない。

「おーい、コスタス!」

 コスタスはうさぎのようなすばしこさで、灌木のあいだを縫うように駆け抜けた。ダレルはがさがさという音を頼りに、全速力で追いかけた。

 あともう少しで背中に手が届く、というところで、いきなりコスタスの体が下に沈んだ。

「わあーっ!」

 足を踏みはずして崖から落ちたのだ。ざざっという大きな音がした。ダレルはとっさに手を伸ばし、どうにかコスタスの右腕をつかんだ。

「だいじょうぶだ。ほら、もう片方の手も」

 コスタスがあわててもう一方の手を伸ばそうとしたとき、布袋がその手からすべり落ちた。

「あっ、天使像が!」

 布袋は崖の下へと落ちていった。

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