08.カクテルグラスのなかの海

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天使像とダレルの家族との関係って?

すべてを説明するから、とデートに誘われたけれど……。


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「まだあけていたの? もう十一時よ」

 はっと気づくと、外出から帰ったリッツァが店に入ってきたところだった。カウンターでうとうと眠っていたのだ。

「そ、そうね。もう閉店するわ」クロエはあわててレジ周りの整理を始めた。きのうは夕方アテネから戻り、十時過ぎまで店で働いた。さすがにきょうは疲れて、いつもの調子が出なかった。

 リッツァがアクセサリーをガラスケースにしまいながら、心配そうな目でこちらを見た。「たまには店を閉めて休めばいいのに」

「この時期は、そういうわけにもいかないのよ」

 レジを締め、小物をケースに収めると、クロエはパソコンでメールをチェックした。テオから修正を加えたデザイン画が送られてきていた。

「リッツァ、もう寝ていいわ。わたしはこれだけ確認してしまうから」

「あしたにすれば? 疲れてるんでしょう?」

「だいじょうぶ、すぐに終わるわ」

「ねえ、クロエ……」

「なあに?」クロエが振り向くと、リッツァが何か言いたそうに口をあけたが、しばらくして首を振った。

「なんでもない」裏口を抜けて、二階へ上がっていく。

 クロエは肩をすくめて、パソコン画面に向き直った。デザイン画は、満足できる仕上がりだった。予算内で、ここまで希望を生かしてもらったのは初めてかもしれない。少し悔しいけれど、それはダレルのおかげでもあった。

 ダレル。

 今夜は来なかった。客足も途絶えて眠いのに店をあけていたのは、彼を待っていたからなのかもしれない。

 きのうはうまく説得されていっしょに飛行機で帰ったけれど、肝心の天使像のことを聞き出そうとすると、ダレルはのらりくらりと話をはぐらかした。そうこうするうちに、飛行機はあっという間にサフォロス島に到着してしまった。

 ほんとうに、頭にくる人。でもなぜか惹かれてしまう。ときに優しく包み込むように、ときに熱く燃えるように感じられる緑色のまなざし。そしてきのうの、オールドアゴラでのキス。力強い両腕と唇の優しさ。思い出すと、胸のあたりがぎゅっとうずき、背中にわななきが走る。

 クロエは自分の気持ちが怖くなってきた。

 あの人は何かを知っている。〝永遠の時をいだく天使〟について。もしかすると、デュカキス家の言い伝えのことも……? 彼の家族と関係があるって、どういうこと? それを聞き出さなくてはならない。

 あの人の目的は〝永遠の時をいだく天使〟を買い取ること。わたしと親しくなろうとするのも、作戦のひとつなのよ。だまされてはだめ。

 クロエは自分の胸に言い聞かせて、パソコンの電源を落とした。


 翌日、観光客の波が一瞬とぎれた午後三時ごろ。

 ダレルが〈エーゲ海のかけら〉にふらりと入ってきた。

 昨夜あれほど気をつけなければいけないと自分に言い聞かせたのに、ダレルの姿を見ると、やはり胸がときめいてしまった。きょうはなぜ、こんなに早くやってきたのだろう?

「今夜は早めに店を閉めて、食事に行かないか?」

 ダレルがいきなり切り出したので、クロエの心臓はさらに激しく高鳴った。

「それって……」

「そう、デートの誘いだよ」

 デート。いいえ、そうじゃない。ついに交渉の時が来たということね。天使像を売るように、わたしを口説き落とすつもりなんだわ。

 クロエは思わず、眉をひそめてじっとダレルをにらんでしまった。

 ダレルがくすりと笑った。「ぼくがよからぬことを企んでいると疑ってるんだね。たしかに、天使像は欲しいよ。でも、きみのことをもっとよく知りたいという気持ちも嘘じゃない」

 ダレルがカウンターに右手を置き、身を乗り出して煙るようなまなざしでこちらを見つめた。

「来てくれたら、ぼくがなぜ〝永遠の時をいだく天使〟のことを知ったのか、なぜどうしても手に入れたいのかを話すよ。ぼくの家族とどういう関係があるのかということもね。きみにとっても興味深い話になると思う」

 クロエはしばらくじっと考えてから、うなずいた。「わかったわ」

「七時に迎えにくるよ」ダレルが軽く手を振って出ていった。


「おや、きょうは早じまいなの? めずらしいわね」

 クロエが〝本日六時で閉店〟という張り紙を入口のドアに貼っていると、右どなりの絵はがき屋のペギーが声をかけてきた。

「ええ、たまには少し休もうかと思って」

 ペギーがうんうんとうなずいた。「いいことだわ。あなた働きすぎだもの」それから、ビーズのような目をいたずらっぽく光らせて言った。「もしかして、最近足しげく通ってくるあのハンサムさんとデート?」

「えっ」クロエの頬がみるみる熱くほてった。「そんなんじゃ……」

 ペギーが豊かな胸を揺らして笑った。「楽しんでらっしゃい」

 クロエはそそくさと二階に上がり、したくを始めた。何を着たらいいのか迷ったあげく、ホルターネックの白いワンピースにした。背中と胸もとが少しあいているが、挑発的なほどではない。髪を簡単に結ってまとめてから、自分でデザインしたラピスラズリのネックレスとイヤリングをつけた。深い青に金色の粒が星のようにちりばめられたこの石は、まさにエーゲ海のかけらのようで、クロエのお気に入りだった。

 ドレッサーの横の小さなテーブルに、おとといダレルからもらったピンク色の薔薇が生けてあった。柔らかな甘い香りが寝室に漂っている。

〝きみのことをもっとよく知りたいという気持ちも嘘じゃない〟

 先ほどのダレルの言葉がよみがえり、また頬が熱くなる。

 わたしが誘いに応じたのは、ダレルが〝永遠の時をいだく天使〟のことを知ったいきさつを聞きたいからよ。それに、どうして天使像の隠し場所がわかったの? あの人には謎が多すぎる。簡単に信用してはいけない。気を引き締めなくちゃ……。

 したくを終えて階下に下りると、ちょうどリッツァがとなり町への用事から帰ってきたところだった。クロエの姿を見て、目を丸くする。

「まあ、驚いた。もう閉店してるから、具合でも悪いのかと思ったら……デートなの?」

「ち、ちがうわよ。たまには気晴らしでもしようと思って……」

「当ててみましょうか。お相手はミスター・プレストンでしょ」リッツァが片方の眉をつり上げて言った。

「そうだけど、お仕事の話をうかがうだけよ。アンティークについて、いろいろ参考になることを教えてくださるの」クロエはあわてて早口で答えた。

「ふうん」リッツァが何か言いたそうな目でこちらをじっと見た。

 そこへダレルが現れた。「こんばんは」

 さりげないおしゃれをしたダレルは、いつも以上にりりしかった。瞳の色によく似合うオリーブ色のストライプのシャツと、ベージュのジャケット、焦げ茶色のズボン。ふだんは少し乱れ気味の髪も、きょうはきちんと後ろに撫でつけられている。

「白いドレスがよく似合うね。とてもきれいだ」かすかに震えるような深みのある声。

「あ、ありがとう」

 ふたりの様子を横から見ていたリッツァが、ダレルに向かって言った。「こんばんは」

 ダレルがまるで初めてリッツァの存在に気づいたかのように、さっと横を向いて答えた。「やあ、こんばんは、リッツァ」

「それじゃ、あとはよろしくね。もし出かけるなら、きちんと戸締まりをするのよ」クロエは言った。

「わかった。行ってらっしゃい」リッツァが手を振ってふたりを送り出した。


 店を出てしばらく歩いてから、ダレルは左ひじを曲げてさりげなくクロエのほうへ差し出した。クロエが少しためらったあと、その腕に右手をそっとかけた。

 ダレルは横目でひそかにクロエの姿を観察した。

 まばゆいほどの美しさ。ぴったりしたワンピースが均整のとれた体の線を際立たせている。あらわになった艶めくうなじ。なめらかな背中。ふたつの胸のふくらみ。白に映える蜂蜜色の肌。もしも舌をはわせたら、ほんとうに甘い味がしそうな……。

 ダレルはごほん、と咳払いをした。

 ふたりは港まで坂を下りてきていた。だいぶ陽が傾いてきたが、あたりはまだまだ明るい。

「クルーズ船を予約したんだが」ダレルはクロエを桟橋のひとつに導きながら言った。「きみはもう何十回も乗ったことがあるのかな?」

 クロエがにっこりして答えた。「いいえ。船に乗るのは、このあいだみたいに移動するときだけよ。バスと同じね。サンセットクルーズなんて初めてだわ」

「それならよかった」

 ふたりはスタイリッシュな白いクルーズ船に乗り込んだ。ダレルが窓ガラスの向こうにいる操縦士に合図すると、船は藍色のエーゲ海を進み始めた。

「まあ、貸切にしたのね」クロエが目を丸くしている。

「そのくらいはしないと、きみに感心してもらえないからね」

 クロエがくすりと笑って、少し緊張をゆるめた。

 ダレルは船室の中央のバーカウンターに歩み寄った。「アルコールはだいじょうぶかな?」クロエがうなずくと、バーテンダーに合図をした。「例のカクテルを」

 ほどなく、逆三角形の繊細なグラスに注がれた美しいカクテルがふたつ出てきた。薄い水色から濃紺まで、透明なブルーがグラデーションになっている。クロエがささやくように言った。「まあ、なんてきれいなの……」

「特別に作ってもらったカクテルさ。名前は〈エーゲ海のかけら〉」ダレルはカクテル・グラスの細い脚を持ち、静かに差し出した。

 クロエがうれしそうに目を輝かせ、グラスを受け取った。

「美しき〈エーゲ海のかけら〉と、その店主に乾杯」ダレルが言い、ふたりはグラスをかちりと合わせた。

 クロエがカクテルをひと口飲んでから、そっとまぶたを閉じて言った。「うーん、おいしい。とてもさわやかな味ね」

 ウォッカベースで、レモンとほんのりミントの香りがする飲みやすいカクテルだった。「気に入ってくれてうれしいよ。そのペンダントとイヤリングが、そっくりの色をしているね。カクテルも含めて、きみにとてもよく似合っている」

「ありがとう」お酒のせいか、クロエの頬がほんのりピンク色に染まった。

「それも自分でデザインしたのかい?」

「ええ、そうよ。自分でもすごく気に入っているの。気づいてくれてうれしいわ」

 もちろん気づくに決まっている。青と金に輝く宝石がこれほど似合う女性には、今まで出会ったことがない。

 カクテルを飲み終わると、ダレルはデッキのほうへクロエを導いた。船はかなり沖まで進み、そろそろ太陽が水平線に沈もうとしていた。

 外へ出ると、海から吹く風が優しく頬を撫でた。クロエが気持ちよさそうに大きく息を吸って、ふうっと吐き出した。無邪気なしぐさがかわいらしい。

 ふたりはデッキに並んで立ち、沈みゆく夕陽を眺めた。空と海が、しだいに葡萄ぶどう色に染まっていく。赤く燃える太陽が、水平線をくっきりと照らし出した。

「不思議ね。見慣れているはずの夕陽が、きょうはぜんぜんちがって見えるわ」クロエがつぶやいた。

 海の向こうに半分隠れた太陽が最後の光を投げてよこすと、クロエの瞳が群青色にきらきらと輝いた。

 ダレルは自分でも気づかないうちに、クロエの肩に腕を回し、ぐっと引き寄せていた。珊瑚さんご色の唇に、唇を重ねる。クロエは一瞬身をこわばらせたが、そのあとゆっくり力を抜き、ダレルの背中にそっと両腕を巻きつけてきた。先ほどのカクテルのほんのりとしたミントの味。柔らかな唇の感触。ダレルはクロエの体をさらに引き寄せ、とろけるような甘さに酔いしれた。

 いつの間にか太陽は沈み切り、水平線のほのかな明かりを残して、あたりは藍色の闇に包まれた。

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