03.天使を狙う甘い誘惑

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ダレルの狙いは、あの貴重な天使像。

クロエのみやげもの屋を訪れたダレルは、さっそく交渉を試みるが……。


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 ダレルは午前十一時近くなってようやく目を覚ました。ピーターにつき合って朝の四時まで飲んでいたので、さすがに少し頭が痛かった。しかし二日酔いというほどではないし、食欲もある。何か胃に入れれば調子も戻るだろう。

 顔を洗って着替え、近くのタヴェルナでムサカとグリークサラダを食べて、ゆっくりコーヒーを飲んだ。頭がすっきりしてきた。

 よかった。なにしろ、きょうは大切な用事がある。

 この島で自分を待っているはずの、天使に会いにいく。

 そう、限りなく貴重な宝物となるはずの、天使像を手に入れるのだ。

 ダレルはアンティーク家具輸入会社の経営者だった。創設者の父が事業を成功させ、さまざまな業種へと企業経営の幅を広げていったので、昨年から社長の座を引き継ぐことになった。別の事業についても父を手伝ってはいたが、やはりアンティークを扱う仕事がいちばん楽しい。忙しい仕事の合間にも、天使像のことは常に気にかかっていた。何年ものあいだ少しずつ情報を集め、ようやくこの島にあるらしいことを突き止めたのだ。

 食事を終えたダレルは、さっそく島に一軒だけある古物商を訪ねた。山側の細い道の奥にひっそりとたたずむ店には、無愛想な老人がひとりいるだけだった。デュカキスという一家を知らないかときくと、老人はうるさそうにこう答えた。

「海側で〈エーゲ海のかけら〉とかいうみやげもの屋をやってるよ。うちとはつき合いがないから、それ以上は知らんね」道案内もそこそこに、ダレルを店から追い出す。アメリカ人の若造になど、ものの価値がわかるはずがない、と言わんばかりだった。

 しかたなくダレルは海側に戻り、立ち寄った海沿いのオープンカフェで店員に声をかけた。

「〈エーゲ海のかけら〉っていうみやげもの屋がどこにあるか、わかるかな?」

 黒髪をポニーテールにまとめた若い店員が、古物商の老人とはちがって愛想よく答えた。「ああ、クロエのお店ね。そこの道をまっすぐ行くと、旅行代理店があるから、そこを左に入って、石畳の坂をのぼった左側よ。Tシャツ屋と絵はがき屋のあいだ」

 クロエ。

 デュカキス家の直系の女性だろうか? 父と同世代だとすれば、四十代から五十代といったところか。

「ありがとう。ぼくはきのうの夕方着いたんだが、この島は夜遅くまでずいぶんにぎやかなんだな」

「ええ。日が沈むのが八時近くだから、レストランもおみやげ屋も、そのあとの時間がいちばん混んでるのよ」

「おみやげ屋は何時くらいまであいてる?」

「その日によってちがったりするけれど、たぶん十一時くらいまではあいてるわ」

「そうか。ありがとう」

 ウェイトレスが興味深そうにこちらをしげしげと眺めた。「あなた、もしかしてきのうあの大型クルーザーに乗って来た人?」

 どうしてそんなことを知っているのだろう? 「ああ、そうだが……」

「やっぱり。じゃ、金髪の人のほうが船の持ち主ね。もうクルーザーは出航しちゃったみたいよ。置いていかれたの?」

「いや、ぼくはこの島にちょっと用事があってね。友人に送ってきてもらったんだ」

「ふうん」ウェイトレスがめずらしい動物でも観察するかのように、またじっとこちらを見てから、にっこり笑った。「滞在を楽しんでね」

「ありがとう」

 やれやれ。昨夜は羽目を外しすぎたようだ。島じゅうに顔を知られているらしいぞ。

 ダレルはカフェを出ると、教えてもらった道順をたどって〈エーゲ海のかけら〉に向かった。

 Tシャツ屋と絵はがき屋のあいだ。あった。

 意外なほど小さな店だ。入口からのぞくと、四、五人の観光客がいたが、それでほとんど店はいっぱいだった。ぱっと見たところ、品ぞろえは女性の観光客に受けそうな明るくかわいらしいものが多い。

 混み合っているせいで、カウンターにいる店番の女性の姿はよく見えなかった。

 天使像の話は、なるべくほかの観光客には聞かれたくない。ダレルはいったんホテルに戻り、夜まで時間をつぶすことにした。


 十時過ぎ、ダレルはホテルを出て、〈エーゲ海のかけら〉へ向かった。坂道を歩きながら、低い壁の向こうに広がる夜の街を見下ろす。暗い海と断崖の上に、明かりをともした教会と家々が身を寄せ合うように並んでいる。ささやかな宝石箱のふたをそっとあけてみたときのような、黄色いほのかな光。

 みやげもの屋が軒を連ねる細い路地に入り、〈エーゲ海のかけら〉にたどり着いた。

 若い女性の興奮した声が聞こえ、はっとする。入口からなかをのぞくと、ショートヘアの少女が、もうひとりの女性に向かってどなっているところだった。

「大学、大学って、そればかり。自分のことは自分で決めるわ。もう放っておいて!」

 それだけ言うと、少女はドアをばたんとあけて外へ飛び出してきた。ダレルはあわててわきへよけたが、少女の肩がひじのあたりにぶつかった。しかしその子は振り向きもせずに走り去った。

 ダレルは少し驚きながら、店に入った。女性が困ったような顔でカウンターのそばに立ち尽くしていた。こちらに気づいて、はっと身をこわばらせる。

 思わず目を奪われるほど美しい女性だった。紺と白のワンピースに包まれたすらりとした体、整ったエキゾチックな顔立ち、つややかな長い黒髪、深みのある褐色の瞳……。

 ダレルは一瞬だけ間を置いてから、身ぶりでドアの外を示して、軽い口調で言った。「威勢のいい子だね」

「ご、ごめんなさい。妹なんです。ちょっとけんかをしてしまって……。お騒がせしてすみません」女性が頬を赤らめて答えた。

「店はもう終わりかな?」

「いいえ、まだです。どうぞ、ごゆっくり」

 ダレルはのんびりと店内を歩き、アンティークのランプやアクセサリーを手に取って眺めた。女性が視線でこちらを追いかけていることに気づき、明るく微笑みかける。さっとまつげを伏せるしぐさが奥ゆかしい。

「この店はとても趣味がいいね。ほかのみやげもの屋とはどこかちがう。美しいタペストリーだ。小物やアクセサリーもすばらしい」

「ありがとうございます」女性が答えた。

「失礼ですが、ミセス・デュカキスは――店主のかたは、今どちらに?」

「母のことでしたら、二年半ほど前に亡くなりました。今は、娘のわたしが店を引き継いでいます」

 ダレルははっとした。「何も知らずに失礼しました。お悔やみ申し上げます」それから、穏やかな口調で続けた。「それじゃ、きみがクロエ?」

「はい。クロエ・デュカキスです」

 ぴったりの名だ。

「商品の仕入れもきみが?」

「ええ。観光シーズンが終わると、本土に買いつけに行きます。自己流ですけど、アクセサリーのデザインもしています」

「それはすごいな」

「貝殻や安い石を使ったものばかりですが、けっこう気に入ってくださる人もいるんですよ。それより、母のことをご存じなんですか?」

 さて、交渉開始だ。

 ダレルはカウンターに一歩近づき、ズボンのポケットからすっと名刺を差し出した。「ぼくはダレル・プレストン。ニューヨークでアンティーク家具を扱っている者です。じつは、ミセス・デュカキスが〝永遠の時をいだく天使〟という名の骨董品をお持ちだといううわさを聞いて、ここまでやってきました。お母さまのことは、ほんとうにお気の毒です。ぶしつけですが、もしかしたら、その骨董品を娘さんであるあなたがお持ちなのでは?」


 クロエはびっくりして、目をぱちくりさせた。

 渡された名刺を見ると、〈プレストン・アンティークス〉の取締役社長とあった。こんなに若くして社長になるなんて、よっぽど優秀な人なのだろうか。それとも二代目のボンボン社長? そうは見えない。

 とてもハンサムな人だ。店に入ってきたときから、そのことには気づいていた。すらりと背が高く、オフホワイトのシャツとベージュのズボンをさりげなく着こなしている。カジュアルなスタイルなのに、短パンとサンダルという格好が多い観光客のなかでは、きちんとしすぎているようにすら見える。少し無造作に撫でつけられた濃いブラウンの髪、整った顔立ち。こちらに向けられた自信ありげな緑色の瞳が、店の淡い照明にちらりと光った。

 クロエははっと我に返った。

 そんなことより、なぜこの人は、〝永遠の時をいだく天使〟のことを知っているのだろう? あれはデュカキス家に密かに伝えられた宝物だ。アメリカ人の実業家のあいだでうわさになるなんてことがあるのだろうか?

「なんのことでしょう? そんなものはここにはありません。母からも何も聞いていません」クロエは早口で答えた。

 プレストンと名乗った男性が、ちょっと考えるような顔をしてから言った。「ようやくここまでたどり着いた以上、ぼくもそう簡単にはあきらめられないんです。地中海クルーズを中断して、ここにとどまったんだから」にんまりとしてみせる。

 地中海クルーズ。とびきりハンサムなアメリカ人。

「もしかして、あの大型クルーザーの持ち主って……」

 男性が少し困ったように、片手で髪をかき上げた。「どうやらぼくたちは、この島にとんでもない騒ぎを引き起こしてしまったみたいだな。あのクルーザーは友人のもので、今朝遅くにぼくを残してさっさと出航したよ」

 クロエは思わず笑ってしまった。

 ミスター・プレストンが真顔に戻って言った。

「天使像は、きっとここにある。しかも、ぼくの勘では、この店のなかにあるような気がする」

 クロエはぎょっとして、思わず母のタペストリーのほうをちらりと見てしまった。振り向いたわけではない。気づかれてはいないだろう。

「譲ってもらえるかどうかはひとまず置いておいて、ひと目だけでも、見せてもらえないだろうか?」

「豪華な地中海クルーズを中断してまで来ていただいたのに申し訳ないけれど、ないものは見せられません」

 ミスター・プレストンが唇をぎゅっと結んで、胸の前で腕を組んだ。端整な顔が、いかにもやり手の実業家らしく引き締まる。細身なのに、肩と腕はがっしりとたくましい。

 わたしったら、何を考えているの。

 クロエはあわてて、自分も唇を閉じて腕を組んだ。

「それなら、どこにあるかを当てたら、見せてもらえるかな?」

 この人は、何を言い出すのだろう。

「おかしな人ね。どこにもないのだから、当てられるはずないわ」

「いや、とにかく約束してほしい。ぼくが当てたら見せてくれると」

 ほんとうに、さっきの一瞬の視線だけで、ばれてしまったのだろうか? まさか。

「わかったわ」クロエは答えた。そう言わなければ、簡単に引き下がってくれそうもなかったからだ。だいじょうぶ、当たるはずはない。

 ミスター・プレストンが店内をゆっくり見回してから、右手をすっと伸ばし、母のタペストリーを指さした。「あのいちばん奥のタペストリーをめくってみてくれ」

 クロエの心臓が飛び出しそうになった。「ど、どうして……」

「さあ、早く」

 クロエはしばらくぐずぐずしていたが、しかたなく店の奥まで行き、タペストリーをゆっくりめくった。壁の切れ込みと鍵穴が見えた。

「その扉をあけて」

 しかたがない。当てたら見せると約束したのだから、ここはおとなしく従うしかないだろう。クロエは二階に上がり、母のドレッサーから鍵を取ってきて、鍵穴に差し込んだ。

「約束は約束だから見せますけど、それだけよ。お譲りするつもりはまったくありませんから」クロエはきっぱりと言ってから、〝永遠の時をいだく天使〟を取り出した。

「すばらしい。なんて美しい天使像だ」

 ミスター・プレストンが、落ち着いた緑色に輝く目で、天使像を眺めた。それから、その視線をクロエのほうに向けた。ふたりはしばらくのあいだ見つめ合った。

 ミスター・プレストンが、はっとしたように目を伏せて言った。「ちょっと触らせてもらってもいいかな?」

「えっ、あ、はい、どうぞ」

 いやだ、わたしったら、何をどぎまぎしているの。

 ミスター・プレストンが天使像を手に取り、翼の曲線から時計の背面、台座の底へと指をすべらせた。

「これこそ、ぼくが探していたものだ。ぜひ譲っていただきたい。ご期待に添えるだけの金額は……」

「さっきも言いましたよね。お譲りするつもりはまったくありません。それは母の形見なんです。わかってください」

「なるほど」男性が少し考え込んでから、ふたたび口を開いた。「その気持ちはよくわかる。でも、ぼくのほうにもどうしても手に入れたい事情があるんだ。すぐに決めてくれとは言わない。どうだろう、まずはお互いを知ろうじゃないか」

 クロエはきょとんとした。「お互いを知る?」

 男性が口もとに小さな笑みを浮かべて言った。「手始めに、あす、ランチでもいっしょにどうかな?」

「お断りします」クロエはすばやく答え、そそくさと天使像を持ち上げて男性に背を向けた。隠し扉のほうへ歩いていくと、男性が無言のまま後ろからついてきた。クロエが手を伸ばす前に、タペストリーをすっとめくる。

「このタペストリーは、特別にすばらしいね」ミスター・プレストンが、手にした織物をしげしげと眺めながら言った。

「母の手作りよ。誰にも売らないと決めているの」クロエは天使像を隠し扉のなかに収めながら言った。

かちりと鍵をかけ、向き直ったとたん、ミスター・プレストンがさっとタペストリーの裏に入り込んで、自分たちふたりをふわりとくるむようにした。

「なるほど。何かを隠すのにぴったりだ。大事な宝物とか……」

 クロエはあまりにもびっくりして、背中を壁に押しつけたまま身をこわばらせていた。彼がクロエの両肩のすぐわきに両手をつき、胸と胸が今にも触れそうな距離にまで近づいた。

「……秘密の情事とか」クロエの耳もとに唇を寄せて、低い声でささやく。

 この人はいったい何を……。

 しかし、男性はすぐに体ごとタペストリーをぱっと開いて、にっこり笑った。「冗談だよ」

 クロエは何も答えられず、扉の鍵を握り締めた手を胸に当て、その場に立ち尽くしていた。心臓がどきどきと大きな音を立てた。

「あした、十二時に迎えにくるよ。いいね?」

 男性が謎めいた緑色の目で、じっと顔をのぞき込んだ。

 クロエはぼんやりとして、いつの間にか反射的に答えていた。「え……はい」

「よかった。それじゃ、あした」

 そう言うと、ミスター・プレストンは長い脚でさっと店内を横切り、ドアから出ていった。

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