第42話 小間使いの少女 Mysterious Maid

 気を失っていた匠が小間使いの声でふと我に返った時、ニムエの姿はすでに消えていた。


「口をゆすいでください」

 小間使いが水の入ったグラスをそっと口にあてがった。これまでの召使たちはろくに口も聞かず、事務的に匠の世話をしていたが、この小間使いは優しく話しかけてくる。

 アドリアーナの残虐ないたぶりに衰弱しきった匠は、その言葉もろくすっぽ耳に入らないまま水を含んで、血まみれの口をゆすいで桶に吐き出した。小間使いは何度か口をゆすがせてから、流動食代わりの生乳と果汁を与えた。


 飲み物に数種類の薬草が入っていると気づいたが、味覚も半ば麻痺した匠は、薬草の種類までは判別できなかった。飲み終わるとぐったり目を閉じたまま、小間使いが身体を清めるのに身を任せた。


 ひと通り世話が済むと、小間使いは熱を測るように額にそっと手を当てた。温かくて柔らかいこじんまりした手をじっと額に当てたままにしている。

 どれくらいそうしていただろう。気づくと麻痺していた感覚が戻り、傷の痛みがぶり返してきたが、同時に冷え切った手足がじわっと温かくなってくる。浅くせわしない呼吸も次第に穏やかになり、温かく柔らかい布で全身をくるまれたような、ふわふわと心地好い体感が広がった。

 そして、不意に頭の中に白い光が出現した。目を閉じているのに、柔らかい光が広がっ ていくのがわかる。何だろうこれは・・・光が全身をゆっくり流れて包んでいくように感じる。それにつれて傷の痛みも熱っぽく不快な症状も、不思議なことにスーッと薄らいだ。そして急激に眠気が襲って来た。


 そのまま、三日ぶりに匠は深い眠りに落ちた。最後に覚えているのは小間使いの言葉だった。

「その光を保つことができますか?」



 しばらく死んだように眠っていた匠だったが、ぶりかえした痛みと熱で目を覚ました。どうやら、飲み物に入っていた薬草の効果が切れたらしい。

  矢の傷から敗血症を起こしたら、いつ死んでもおかしくない。そうでなくとも、匠の命はもう数日ともたない。ニムエにもそれはわかっている。自ら止めを刺しに来るはずだった。

 もうしばらく耐えればこの苦しみからから解放されると思うと、匠は少しほっとした。だが、過去の様々な出来事を思い返すと、やるせなく切ない気持ちがこみ上げて胸が一杯になった。


 ニムエへの想いを打ち明けることもできず、サウロンの死の真相もわからないまま死ぬのは心残りだった。昨夜のアドリアーナの言葉も引っかかる。確かに「今度こそ息の根を止めてやる」と言っていた。ともかく、伯爵夫妻に狙われているとニムエに伝えなければ!匠の気持ちは焦った。


 だが、この日ニムエはついに姿を見せずじまいだった。昼番の小間使いにニムエがいつ来るのか尋ねても「さあ、存じません」としか答えない。緘口令が出ているからだ。


 夕方になって、昨夜の小間使いが現れた。昨夜はアドリアーナに拷問された直後でうろ覚えだったが、思っていたより小柄でしかも東洋人の若い女性だった。

 匠ことアトレイア公爵は、以前に一度だけ港町で東洋の女性を見た事がある。真っ直ぐな黒髪と黒い瞳が印象的だった。この小間使いも艶やかな黒髪に吊り上った目をしている。黒目がちで細い目は二重瞼だが、この大陸の女性とは異なり瞼がふっくらしている。何とも言えずエキゾチックで魅惑的な顔立ちだ。

 小さな丸い顔にあどけなさを留めていた。まだ十代半ばのようだ。手際よく世話をしながら、時おり目が合うとにっこり微笑みかけてくる。この子なら話しやすそうだと思った匠は、弱々しい声でニムエの様子を尋ねてみた。

「ニムエ、いや、王女様はどうしておられるのか、知ってたら教えてくれないか?」

 

「王女様はお忙しいようです。王位継承の準備もありますから」

 手を休めてはきはきと答えた小間使いは、表情を曇らせて匠を見つめた。どうやら間もなく止めを刺されて殺される匠に、いたく同情しているようだ。


「昨夜はありがとう。王女様に知らせてくれて」

 匠はとりあえず昨夜の礼を言ったが、彼女の身の安全のため、伯爵夫妻に殺される寸前だったのは伏せておいた。あの二人の恐ろしさを嫌と言うほど思い知らされていたからだ。


 ところが、匠があえて尋ねなかったのに、小間使いは予想外の言葉を返したのである。

「伯爵夫妻のことでしたらご心配は要りません。プロスペロ様がダニエル様に命じて、二人を監視させておられます」

「えッ?・・・それは王女様を守るためなのか?」 

 匠が驚いて尋ねると、

 「はい、そうです」

 と小間使いは落ち着きはらって答えた。

 

「ニムエはそのことを知っているの?なぜ、君はそんなによく知っているの?」

 匠は驚きのあまり尋ねずにはいられなかった。この小間使いを巻き込みたくはないが、ニムエが伯爵夫妻に狙われていると知って気が気ではなかった。


「はい、王女様もご存知です。それに、私たち召使はいろいろ知っています。ご安心下さい、公爵様」

 小間使いは事もなげにそう言って微笑むと、また後で参りますと言い残して立ち去った。


 小間使いから思いがけない知らせを聞いた匠は、心底ほっとした。宰相とダニエルは信頼できる。これでひと安心だ!処刑と拷問の苦しみに耐えた甲斐があったと思わず涙が出た。


「それにしても、あの小間使いは東洋人なのに流暢なイタリア語を話すし、何だか不思議な子だな」

と、匠は首を傾げた。

 犯罪人扱いされている自分を、公爵様と呼んでくれたのもうれしかった。最後に人の温もりに触れたせいか、何もかもこれでいいと腑に落ちて、匠は投げやりな諦めではなく、深い充足感を感じていた。身体は傷つき衰弱して辛かったが、心は苦しみから解放されていた。



 その夜遅く、小間使いの少女が再び姿を見せた。ひと通り世話を終えると、昨夜と同じ薬草入りの飲み物を匠に飲ませた。その後、再び額に手を当ててしばらくじっとしていた。

 うつらうつらしていた匠がふと目を開けると、小間使いは真剣な表情で匠を見上げている。心配していると言うより何かに集中しているようだ。その時、匠は奇妙な現象に気づいた。

 小間使いの小柄な身体が淡い光に包まれている!何度瞬まばたきを繰り返してみても、やはりうっすらと身体全体が光っているように見える。

 そうこうするうちに、昨晩と同じようにスーッと気持ちが良くなって、苦痛が薄れていった。そしてまた、突然頭の中に白い光が見えたかと思うと、身体全体に広がって行く。まるで小間使いの手から何かの力が流れこんでいるように・・・


「その光を保ってみて下さい」

 小間使いの言葉が聞こえた。

「保つって、いったいどうやっって?・・・」

 あまりの心地良さにささやき返すだけで精一杯だった。匠は身体を支えるロープに身を任せたまま、意識が飛ぶように眠り込んだ。


 数時間ぐっすり眠った後、再び熱が上がり傷も激しくうずき出して、否応なしに目が覚めた。磔にされて五日目、身体はもう限界だった。

 ニムエに想いを打ち明けていないのが心残りだが、告白すればその言葉が後々彼女を苦しめるのではと怖くもあった。

「だったら、潔くあきらめよう」

と、自分でも意外なほどきっぱり踏ん切りがついた。


 もっとも、どうしても知りたいこともあった。あの小間使だ。あの光はいったい何なのだろう? 好奇心に過ぎないがどうにも気になって仕方がない。

 そこで、答えてはくれないだろうと思いつつも昼番の召使いに尋ねた。

「新しく入った小間使いの名を教えてくれないか?」


 意外にも、いつも無愛想に押し黙っている三十代半ばの召使いは、つっけんどんに答えた。

「タリスですよ。ちなみに私の名前はラナだけどね!」


「えッ!タリス?」

と、言いかけた匠は危うく言葉を飲みこんだ。


 サウロンの秘密を握るあの少女が、なぜ王宮に居るのだろう?・・・


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