第32話 空即是色 Run for his life

 家を出た貴美は、脇目もふらず静まりかえった住宅街の大通りを渡った。通りの反対側の街路樹の裏に回り、太い幹にもたれかかって天をふり仰いだ。


 まだ胸がドキドキしている・・・


 夢回路を遮断してから弟は落ち着きを取り戻して平穏な生活が戻ったのに、今日はまだ夕刻というのにソファで眠りこけていた。貴美の目にはフィールド・トリップから戻った時以上に尋常でない状態に映った。

 何が起きたのか突き止めようにも、何も覚えていないとなると聞き出しようもない。そこで判断に迷ったが、記憶が消えた原因を弟に説明しようと決めた。

 話の途中、ふと思いつきで試しにテレパシーに切り替えたところ、匠が楽々と感応したため、貴美ば気が動転してしまった。


(あなただけでなく、皆の未来にも関わってくる話なの)

と、想念を飛ばすと、

(人類のこと?)

と、想念で返ってきた。動揺した貴美はすぐに席をはずし、自分宛ての電話を一分後に設定して食卓に戻った。外出の口実をでっちあげたのは、気持ちを静めたかったからである。


 異能力が目覚め始めているのに、弟はまるで気づいていない!


 プライムの予測が公になって以来、第二世代はテレパシーを禁じているが、相手と二人きりで向かい合っていれば、テレパシーを使っても危険はない。もちろん、使う意味もないのだが、出力を高める必要がなく、たとえ家の外に感知できる者がいたとしても、貴美の発信が探知される恐れはなかった。

 でも、タクは無意識に感応している。情動がたかぶったら遠くにテレパシーを飛ばしかねないわ!


 幸い、その後の会話では普通に話していた。しかし、会話を続けて匠がテレパシーを飛ばす危険は冒せない。無用な刺激は避けるべきだ。

 咄嗟とっさに家を飛び出したのだった。

 過去生の夢だけならまだしも、物質化現象にテレパシーと短期間で身の危険を招きかねない能力が立て続けに覚醒するとは、ナラニも貴美も予想できていなかったのである。


 どう対処したらいいの?住宅街の歩道を歩きながら、貴美は思案に暮れた。

 家々には灯りがともり、街灯の柔らかな光が街路樹や芝生を優しく照らしている。あてどもなく歩いているうちに、犬を連れて散歩中の近所の若夫婦にばったり出会った。しばらく、立ち話を交わしてから歩き出した貴美は、私もあんなふうに生きられたら、と珍しく弱気になった。

 自らの能力と知識を高め、実地で使いこなす訓練に明け暮れて、この時に備えてきたのに、最初の山場は予想以上に厳しい。匠の準備を整えるはずが、めまぐるしく状況が動いて後手後手に回ってしまう。


 とりあえず明日から有給休暇だから、今夜は時間があるわ。とりあえず身体を思いっきり動かして、頭をスッキリさせよう!

 貴美はようやk気持ちを切り替えた


 全身を入念にストレッチしてから、住宅街の広々とした通りをゆっくりとしたペースで走り出した。頭を空っぽにして走り続けているうちに、いつしか住宅街を抜け、シティの南側の外縁に続く広い一般道から森林公園に入った。春の緑が萌える匂いが立ちこめ、薄っすらと霧がかかった広々とした芝生まで来ると、貴美は足を止めた。

 人工ドームの中とは思えないほど、心地よい風がほてった身体を冷やすに任せて、ベンチに仰向けになって夜空を見上げた。満月に近い上弦の月が東の空高く浮かんでいる。アポカリプスで不夜城だった大都市圏が滅亡して、晴天の新月の夜ともなると、シティ上空には満天の星空に天の川が夜空を彩ってくっきり浮かび上がる。


「満月が近いから、さすがに天の川はよく見えないわね」

 ひと息入れると、心は自然に弟の身の上を案じてうごめき出す。脳心理研究所で、匠は夢回路を電気的に遮断した。もう危険な夢を見ることはないはずだし、実際、あれ以来一切夢を見ることなく熟睡している。

 それなのに、さっきの匠の様子はフィールド・トリップの日とそっくりだ。あの日は、サンクチュアリのカタリーナが匠にコンタクトしたのをきっかけに、過去生の夢が始まった。

 今回も何か起きたんだわ!夢回路の遮断で対処して、覚醒に備えて時間を稼ぐ予定だったのに・・・凄惨な体験をしたらしい過去生の夢を、タクがまた見てしまったら・・・

「夢に深く入りこんだら目覚めさせられない」

 ナラニの言葉を思い出した貴美は、ベンチからむくッと起き上がった。


「すべては第三世代のコンタクトから始まったんだわ!伝説では、そのひとりが弟と結ばれ、人類がノヴァへと進化するトリガーになるらしい・・・トリニティは三人いる。カタリーナはサンクチュアリで監視されているけれど、行方をくらました一人はいったいどこなの?しかも、もう一人は存在も確認できてない!」

 不意に胸騒ぎを覚えた。弟の身が危ないという予感がする。しまった!動揺して夢中で走って来たけど、今夜はタクから目を離さない方がいいわ!


 貴美はすくっと立ち上がり一目散に公園から駆け出した。

 ドームを対流する緩やかな風に、街路樹の新緑と咲き誇る花々が薫る通りを、アスリート顔負けの安定したフォームで一気に駆け抜けて行く。

 焦燥感に思わず力が入った。前方を走っていた配送バイクをうっかり追い越してしまう。街灯に照らされたヘルメット姿の店員が、怪しむように貴美の姿を目で追っていた。


 第二世代は、その気になれば超人的な運動能力を発揮する。合衆国特殊部隊入隊テストに合格した貴美は、その身体能力にさらに磨きがかかっていた。

 いけない!ピタッと立ち止まり、両手を膝に当てて喘ぎながら、ラストスパートをかけたかのように見せかける。ジョギングシューズなのに、百メートル十秒前後のスピードで走っていたはずだ。

 横目で様子をうかがうと、宅配バイクは何ごともなかったように走り去って行った。デリバリー・ボックスの背面に、太文字のステッカーを斜めに貼り付けている。


「空即是色?今度は仏教徒かしら?暗くてよくわからなかったけど、服はボディスーツじゃなかった」

 我に返ると諜報員としての観察眼が働いた。配達員がこちらに向けた視線と素振りに微妙な違和感を感じたのである。脳心理研究所に出向いた日にも、地下鉄の駅で同じフォントのステッカーとロゴを付けたピザ宅配ドライバーを見ている。

「まさか、尾行されているの?」


 でも、第二世代には常人にはない第六感が備わっているから、誰かに尾けられていたらはっきりわかるはずだわ!そんな気配はまったく感じなかった・・・

 バイクには「魔女の宅配便」のロゴだけで、ピザ店のロゴはなかった。エリア21にある店舗が宅配に使う汎用スクーターだ、ドライバーは小柄で、フルフェイスのヘルメット越しに白い肌と黒い目が覗いていた。前回は、背も高く体型もしゃべり方も明らかに外国人だったから別人だ。

「たぶん偶然ね」


 はやる気持ちを抑え、早めのジョギング程度に速度で家に向かって走り出した。

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