第22話 ダークムーン  Dark Moon

 その夜、貴美は過去の出来事に気を回す余裕さえ失った。

「心が折れそう・・・」と思う。家に戻る前にナラニに連絡を入れた貴美は、意外な事実を知らされたのである。


「知らないって、いったいどう言うことなの?」

 思わず大声を出し慌てて声を潜めた。ここは人気のない地下の隠し部屋で巨大な耐震緩衝材の内部だから立ち聞きや盗聴はされない。貴美は次第に冷静さを失っていく自分が怖かったのである。


 脳心理研究所を出てシティ中心街に取って返した。アイランドは深夜を回っていたがナラニはすぐに電話に出た。脳心理研究所で知ったことも衝撃的だったが、ナラニのとの会話はそれに輪をかけて驚くべき内容だったのである。


「メモを送って寄こしたのは、あなたの協力者じゃないの!?」

 職場のカウンセリング・スポット「グリーンハウス」に届いたピザは、ナラニが手配したものではないと聞かされ、貴美は度を失った。


「いいえ、研究所にはタクの検査と臨床実験を頼んだだけよ。夢回路を遮断する実験以外に、記憶探査までかけるなんて初耳だわ!タクの記憶が戻ったのも知らなかった・・・ああ、それでなのね!」

 思い当たる節があったらしくナラニは言葉を切った。

「それでって、何なの?」

 貴美は息せき切って尋ねた。

「研究所に予約を入れてくれたシティ上層部の協力者が、念のため今日の画像を調べて連絡をくれたの。保安室の録画は、タクが着く直前に止まっていたそうよ。タクが写っているはずの映像データもあなたの姿も残っていない、ってことね。もちろん、彼はあなたが関わっていると知らないけれど・・・」

 ナラニの協力者は外交用の専用回線を使ってアイランドと連絡を取り合っている。プライムにも探知される恐れのない数少ない通信手段の一つである。

 CIAオフィサーの貴美にも、シティ自治政府内に協力者がいる。その高官はアメリカ政府が指定した任務上のパートナーだ。

 だが、彼らは二人が新人類とは夢にも思っていない。プライムの予想もバカげた都市伝説と頭から決めてかかっている。現実主義の実務家とは得てしてそういうものだ。


「じゃあ、あなたの協力者が消したのじゃないのね?」

 貴美が尋ねるとナラニは思案しながら言った。

「その通りよ・・・心理鑑定と脳内画像は標準検査で誰でも受けるのは、あなたも知っているでしょう?後は夢回路を遮断する処置だけだった。だから、タクの映像まで消す必要はなかったの。あなたがあの研究所に行ったことも協力者は知らない。私だって今の今まで知らなかった・・・」

「変だわ!ラボの監視カメラは、わたしが部屋に入った時にはもう止まっていた。てっきり、あなたが手を回したと思っていた。保安室ですべて録画しているのに、そのデータまで消えていたの?」


 いくつもの疑問が貴美の頭の中を駆け巡り、収拾がつかなかった。


「ええ、協力者は監視カメラの故障と言っていたわ。データを消去した痕跡はなく、研究所の上層部には一時的な不具合と報告されているって。だから、あなたが研究所に来たと知っているのは、担当技師と警備員だけってことね」

 ナラニの言葉に貴美ははっと気づいた。そう言えばおかしな出来事があった!

「今、思い出したのだけど、研究所の来訪者モニターに、シティ政府委託のカウンセラーを装って技師に会いたいと伝えたら、応対したのは女性警備員だった。でも、行く途中に調べたスタッフの名簿に女性警備員の名前はなかったわ。全員男だった・・・」


 ナラニはしばらく沈黙してから考え考え口を開いた。

「カミ、研究所の件は後回しにして、今夜はタクの様子を見に戻ってほしいの。夢回路の遮断がうまくいったか気になるから・・・記憶探査の後で映像記録が取れなかったのも変ね・・・その後、自動書記のようにサンクチュアリの記憶を書いたのね?でも、タクは自分が書いたことも忘れている・・・タクにコンタクトした子は金髪に青い目だったのね?」

「そうよ。タクは無意識にビビと呼んでいたみたい。心当たりがあるの?」

 貴美が尋ねると、ナラニはまた何やら思案しながら答えた。

「まだわからないわ。アスカに連絡して調べてもらう・・・ともかく、今夜はタクの様子を見てね。カミ、今日は本当によくやったわ、お疲れさま!これでしばらく時間を稼げるはずよ」

 

 貴美はうなずいた。タクの様子が気になるわ。ナラニの指示通りに動くべきだ。

「ありがとう、ナラニ。じゃあもう行くわ。そちらは二時過ぎでしょう?良い夢をね!」

「ありがとう。あなたもね。アロハ!」

 二人は挨拶を交わして電話を切った。


 貴美はホットラインに通じる駅の化粧室で服を着替えた。スーツを入れたスポーツバッグを抱えて家に戻ったのは午後十時過ぎだった。

 住宅街を抜ける広い通りには人影もなく、街灯の光が街路樹の歩道を優しく照らしている。外は強風が吹いているらしく、時折り微かなブーンという音を立ててドームが震えた。

 ドーム越しに水蒸気をたっぷり含んだ真っ白な雲が南の空を覆っていた。冬の星座オリオンがその雲の切れ目にくっきりと浮かんで見える。新月の前の下弦の三日月ダークムーンは明け方前まで姿を見せない。


「カミ、お帰り!遅かったね」

 家に入ると匠が玄関まで出迎えに来た。貴美はほっとした。朝からぼんやりして心ここにあらずだったが、別人のように溌剌はつらつとしている。帰りにスーパーに立ち寄り、先ほど自宅に配送された食料品を仕分けしてる最中だった。

「ただいま!買い物してくれたのね、ありがとう」

 思わず弟を抱きしめたい衝動に駆られたが、いつも通りに振舞わなければ、自分を抑えた。


 弟はサンクチュアリでの出来事を覚えていない・・・予定外の記憶探査の他に、脳の夢回路を遮断する処置も受けている。つまり、今の状態は仮の姿に過ぎないのだ。決して元に戻ったわけではない、と自分に言い聞かせた。


 いいえ、匠がこれまでの平穏無事な生活に戻れる日は来ないんだわ!遅かれ早かれ弟は進化する運命にある。その準備を整える前に、気まぐれな運命の歯車が回り出した・・・

 今後も予想外の事態が続くに違いない、と貴美は直感したのである。が、今は出来る限り匠を刺激せず、様子を見ながらナラニと対応策を考えるしかなかった。


「こちらこそだよ、カミ。予約取ってくれて助かったよ。仕事もお疲れ!」

 実際、姉はひどく疲れているように見える。おかげで自分は元気になったが、心配をかけてしまったと匠は少しへこんだ。

「お安い御用よ!着替えて来るから、ちょっと待っててね」

 貴美は努めて明るく振舞った。

 CIAの任務でも経験がないほど強いストレスを感じる。弟の命にかかわりかねない状態を食い止めようとして、千年の歴史を重ねた使命が暴露される瀬戸際だった・・・


 途方もない緊張感が重く圧しかかった長い長い一日だった。



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